ビンの中の波は穏やかだった。私はただ、それに見とれた。

 ジャムを入れるような小さなビン。その中に『波』があった。
 海の青さがゆっくりとうねり、白い歯を見せながら立ち上がり、崩れる。波の動きが音もなく、スローモーションでビンの中に再生されている。珍しいものが多い香苗の部屋にあっても、それは特に目をひくものだった。
「ねえ……何これ」 
「ああ、それ。面白いでしょ」
「何なの?」
「私もくわしくは知らないんだけど、微生物の集まりだってさ」
「微生物? ……この中のものが全部?」
「うん。なんか寿命が2分とか3分とかの、ちいさーい生き物なんだって。ほら、青いとこと白いとこがあるでしょ? この白いとこが卵。たくさんの卵」
「…………」
「卵がかえって青いのが生まれて、それがまた卵生んで、2〜3分で死ぬの。死骸は他のやつが食べる。そういうのが繰り返されてるんだって、この中で」
「へええ……」
 うごめく微生物の集まりだと聞いても、それはやはり美しかった。ひきつけられる。
「知り合いが勤めてる研究所で作った生き物なの。その人からもらったのよ」
「はー。研究所でねえ……」
「インテリアみたいな感じで使えないかとか、色々考えてるみたい」
「ふーん……」
 私は上の空でビンを見つめていた。
「気に入ったんなら、あげるよ」
「え!」
 驚いて振り返ると、香苗は戸棚から同じようなビンを出していた。どうやらその中に分けてくれるということのようだった。
「で、でも。飼うの難しいんじゃないの」
「簡単。様子見てエサと水やるだけ」
「エサって……」
「残り物でいいんだよ。人が食べるものなら何でも食べるから」
「ほんとに?」
「うん。ただ固いものだと食べるのに時間かかって、ビンの中に長い間残って汚く見えるけどね。スープとかが一番いいのかな。ごはんやパンなら水でふやかしてからだとすぐ食べ終わる」
「量はどれくらい?」
「適当でいいよ。やりすぎるとすごい増えるけど。ビンからあふれそうになる」
「えーっ」
「でも何もやらなければまた減るから平気だよ」
「へえ……あ、掃除とかは?」
「時々でいいんだけど、濁った汚いのがたまってきたら、それすくって捨てて」
「それは生ゴミに捨てちゃって平気? ゴミの中で増えたりとか」
「熱に弱いから、心配なら火であぶっとけばいいんじゃない? ある程度たくさん集まってないと増えないから、いっぱい捨てなきゃ全然平気だけど」
「あ、そうなんだ」
「それ用に作られた生き物だもん。そんな危ないことはないようにできてるよ、やっぱり」
 香苗は笑いながら、空のビンに『波』を少しついでくれた。

 『波』は、私の小汚い部屋にあるとなおさら美しく見えた。
 波を飼う。最初は死なないようにとびくびくしながら、エサをそっとやったりしていたが、しだいに飼うことに慣れてきた。そうていねいに扱わなくてもいいらしいこともわかった。
 エサの違いによって波の形に変化が出ることもわかってくる。スープやらみそ汁やら、水もののエサを多めにやると色は薄くなり、そして全体的に荒々しい波になる。『波』の中に長く残るような固形のエサをやると、全体は穏やかだが一部が高い波になる。
(面白いなあ)
 私は夢中になった。醤油やソース入れたらどうだろう。カレーは? ワサビは? 固さだけではなくエサの成分の違いでも、やはり波はそれぞれに変化した。楽しい。小さなビンの中に大しけの海などができると、いつまで見ていても飽きなかった。
 1ヶ月がたった頃、香苗から電話があった。
「元気? 『波』は」
「うん、元気元気。ほんときれい。ありがとね」
「どういたしまして」
「もういろんなことやってるよー。嵐の海とか作ったり」
「あー。やったやった、私も」
「そうなの? でもこないだは凪だったよね」
「まあ、最近はあんまりね。わびさびの境地ってやつよ。こう、おだやかーなやつをね……船出にちょうどいい波、とかそういうのを作ってね……」
「いいね。お年寄りだね」
「うるさいなあ。ところで、今日これからあいてる? 飲み行かない?」
「あーごめん、今日だめ。広也と約束がある」
「なんだまだ続いてたの? あんたらも長いねえ」
「5年目かな。もう惰性だよ」
「あーはいはい。それじゃまたね」
「うん。じゃね」
 その2時間後に、私は失恋した。

「好きな人ができた」
 予想もしていない言葉だったのに、妙に冷静だった。
 状況が理解できてないわけでもなかった。別れようと言われてるんだ。ふられるんだ。まあ、しょうがないかな、と思った。
「そっか……」
「ごめんな」
「ううん、いいよ」
「だろうな」
 なにげない調子で広也が言った。
「何それ。だろうなって」
「だってお前、俺のことそんな好きでもなかっただろ」
「えーっ。好きだったよ」
「そうか? 俺はお前のことほんとに好きだったよ。でもなんていうかお前は……俺のことなんかどうでもよさそうだった。いつも」
「そんなことないよ。ひどいなあ……ふられたの私なのに」
 おーいおいおい、と野太い声で泣き真似をした。広也は笑った。

 なんとなくふわふわした気分で家に帰った。終わってしまったんだな、と思う。
 座って考えた。どこで間違ったのかな。それとも間違ってなかったのかな。好きだったのかな。そうでもなかったのかな。
 ふと、『波』が目に入った。少し増えすぎたのでしばらくエサをやっていない。
 ビンの中の波は穏やかだった。なぜか、それがひどく私をいらだたせた。
 ビンをつかみ、中味を部屋の中央にぶちまけた。海の青が床でうねった。それを見てまた、わけのわからない凶暴な気分になった。
 エサ……そうだ、エサをやろう。昨日の残りのシチューを『波』の上にあけた。その上にさらに水。その上に牛乳。ジュース。豆腐。ヨーグルト。卵をどんどん割ってかけた。ほら、やわらかいものばかり。喜んで食べろ。さあ。
 5つ目の卵を割ろうとしたところで、部屋の惨状に我に返った。
(……何やってるんだろ……)
 あまりの馬鹿馬鹿しさに呆然となる。ひどい虚脱感があった。
(明日かたづけよう……休みだし)
 奥のベッドに倒れ込みながら思った。

 奇妙な物音で目が覚めた。今まで聞いたことのないような音だった。
 ミシミシ、ミリミリ、ジジジ……
 目を開ける。まだ暗い。起きあがって、私はそのままの姿勢で動けなくなった。
 部屋が『波』で満ちている。
 激しく逆巻く波。台風の中継とかで見る、あの波が目の前にあった。本物の波だったら轟音があるはずの光景、けれども部屋の中の『波』はゆっくりと、音もなく、いや、音はあった。本物の波とは違う音。さっき私の目を覚ました音。
 ミシミシ、ミリミリ、ジジジ……
 こんなに増えたから聞こえるようになった。そうだ、これは『波』を形作っている、たくさんの微生物が出す音だ。卵から生まれてくる音、エサを食べる音、仲間の死骸を食べる音だ。
 それに気づいた瞬間、恐怖が破裂した。食われる。死ぬ。ドアまでの道は『波』でふさがっていた。ふくれあがった『波』が今にもこちらにも押し寄せ、私を飲みこむように思えた。
 ベッドの上で思わず後ずさった時、ポケットに携帯が入っていることに気づいた。
「あ、あ……」
 震える手でボタンを押す。目の前の『波』が、おそろしい目でにらんでいるような気がした。
「はい、もしもしー……?」
 眠そうな声が出た。
「あ、あ、香苗、私、私あれ、波が」
「波……? 波がどうしたの?」
「あの、床にまいちゃって……それでその、それでシチューをかけたら……そしたらすごく増えちゃって、あの」
「落ち着いて、落ち着いて」
「部屋中波になっちゃって、あ、あたし食われる、食われ」
「大丈夫だよ。牙とかあるわけじゃないし、人間なんか食えないって。『波』の中に入ってずーっと動かないでいたら、ちょっとは食べてくれるかもしれないけど」
 香苗の声はまだ眠そうで、少し笑っているようでもあった。
「ど、どうすればいいの、これ」
「ほっとけばいいんだよ。エサやらないでさ。だんだん減ってくるよ」
「でも移動してエサ探したりとか……」
「しないしない。いくら増えても自分では動けないらしいよ。そういうふうに作られるんだって」
 そう言われて改めて見ると、『波』の中心は私が最初に『波』を落とした場所のままだった。こんなに増えたのに、それは変わっていなかった。
 私はほっとするあまり、力が抜けて携帯を落とした。
「もしもし? もしもーし。おーい」
「あ、ごめん、大丈夫。……ごめん、こんな時間に電話して」
「んーん。いいよ」
「あーほんともう、死ぬと思った。今部屋すごいことになってるよー」
「ははは。私も前やった、それ」
「あ、そうなんだ」
「ん。……いやなことっていうか、どうしようもないことがあった時、ついね……」
 思わず黙りこんだ私に、香苗は明るい声で続けた。
「まあ、あれだ。今度、飲み行こう。今日行けなかったし」
「うん。……ありがとね」
 電話を切って、『波』を見た。荒れ狂う波の形、本物の波とは違う、ミシミシ、ミリミリという音。けれどももう、おそろしくはない。食われることはないとわかったせいもあるけど。
 ──いくら増えても自分では動けないらしいよ。そういうふうに作られてるんだって。
 こんなに激しくうねる波が、どこにも行けない。それはとても悲しいことのように思えた。だって、それはまるで。
(好きだった。大好きだった)
 急にそんな気持ちがあふれた。涙がぼろぼろ出てきた。
 別れた。もう一緒にいられない。どうして。何もかも遅い。どうして。私が悪い。好きだった。好きだった。後悔してる。もう遅い。
 目の前で寄せてはじける波と同じように、どうにもならない感情が次々と押し寄せてくる。
(……馬鹿だなあ、私)
 頭のどこかで思った。波が揺れる部屋で、泣き続けた。

 香苗の言っていた通り、『波』はしだいに減って、10日後には部屋の中央に小さく残るだけになった。それをなるべくていねいにすくって、元のビンに入れた。
 やはりきれいだと改めて思う。あの日のおそろしさ、すさまじさがないのは、少し寂しくもあるけれど。

 ビンの中の波は穏やかだった。きっとこれが、船出にちょうどいい波、なのだろう。 

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