秘密の場所
『 ゆもと先生へ。
先生は、とてもいい先生でした。先生がきてくれたのは、とてもうれしかったです。
先生は、きょういくじっしゅうなので、まだほんとの先生じゃないけど、ほんとの先生より、じゅぎょうが、おじょうずでした。それから、ほんとの先生より、やさしくて、しんせつだったです。
だから、先生は、ほんとの先生になって、またこの学校にきて、わたしたちをおしえてください。
先生は、ほんとの先生になりたいですか? それとも、なりたくないですか? だけど、先生が、またこの学校にきたくなるように、わたしは、いいことをおしえます。
先生は、この学校のせいとだったから、ごぞんじかもしれないけど、この学校の、うらのところから、いいところにいけます。すごく、きれいなけしきが見えます。このまちで、いちばんだとおもいます。とくに、ゆうがたがきれいです。
それを見ると、きっと、またこの学校に、きたくなるとおもいます。だから先生は、見にいくのがいいです。ぜったいひみつのばしょだけど、先生にだけ、おしえます。だれにもないしょにしてください。
わたしのおきにいりのばしょなので、きっと先生も、おきにいるとおもいます。』
教育実習の最後の日に、2年1組の生徒たちに書いてもらった手紙、その中にそれはあった。
教員になる気はなかった。僕には向いていないと思う。けれどもこういう手紙はやはり嬉しい。こんな手紙をもらう機会なんて、そうあるものでもない。
この手紙をくれたのは、秋山夕子という子だった。大きな目が印象的な、かわいらしい顔立ちの子だ。どういうわけか休み時間には、外にも出ず他の子たちと話すこともなく、いつも1人でぽつんと座っていた。
仲間はずれにされているわけではなく、1人でいることを本人が望んでいるらしい。そう思ったのは、彼女がいつも真剣な顔で何か考え込んでいるようだったからだ。時々、何か思いついたように大きな目を輝かせる。そしてすぐまた考え込む。
(似てるなあ)
僕は少し困ったような気分になった。子供の頃に好きだった女の子が、ちょうどこんな感じの子だった。というか、大人になった今に至るまで、僕はそういうタイプの子ばかり好きになってきたように思う。
だからといってこの子をそういう対象に見るつもりはもちろんないが、やはり少し気になる。つい、視界の端に置いてしまう。
別にいいのだろうけど、なんとなくうしろめたかった。
彼女が何か考え込んでいるのは休み時間だけではなかった。授業中にもやはり考え込んでいる。窓の外をながめたり天井を見たりしながら、明らかに授業とは違うことを考えていた。
窓の外を見ていた目が輝いて、嬉しそうな顔になった。ああ何か思いついたんだな、と僕が思った時、
「秋山さん」
担任の鈴原先生が彼女の名を呼んだ。なぜか僕は、自分が当てられたようにぎくりとした。
「…………」
「秋山さん!」
「…あ」
「今の問題、わかった?」
「ええと。わかりません」
「いまどこやってるか、わかる?」
「…わかりません」
「だめよ、ちゃんと聞いてないと」
「はい」
うつむいたまま席に座った。よそ見をしていた顔が今度はきちんと黒板に向けられているのを見て、僕はなんとなく残念な気がした。普通に注意しただけの鈴原先生が、横暴に思えた。
その日の昼休み、図書館で彼女を見た。本を開いてはいたが、読まずにまた何か考え込んでいる。
「秋山さん」
「……あ。えっと、湯本先生」
「お、名前覚えててくれたんだ。ありがとう」
「いいえ……」
困ったような顔をしていた。邪魔されたくないのかな、と思ったが、僕はもう少しこの子と話してみたかった。
「授業中、他のこと考えてたね」
「…ごめんなさい」
ひどくしょんぼりした顔になったので、僕は慌てた。そんなつもりではなかった。
「あ、違うんだよ。どんなこと考えてたのかなあと思ってさ」
「え…」
「休み時間にもいつも何か考えてるみたいだしさ」
「うーん……色々…」
「たとえば?」
しつこいかな、と思いながらも聞いてみた。
「えーと……面白いこと……とか」
「面白い? どんなふうに?」
「…ひみつ…」
「そっか」
それ以上何も言えなくなって僕が黙ると、彼女は僕を大きな目でじっと見上げた。
「……先生、ほんとに知りたいの?」
「知りたいよ。教えてくれる?」
「…うーん。じゃあ、今度…」
多分教える気はないだろうな、と思った。
けれどそれから、あの子と僕は時々話をするようになった。
この学校は海から近い。窓から見える海の、波打ち際の白さがわかるほどだ。
僕がこの学校の生徒だった時から変わっていない景色。あの頃僕は、学校から海を見るのが大好きだった。
「先生」
職員室の前の窓から海を見ていたら、後ろから話しかけられた。あの子だった。
「先生は、海が好きなの?」
「うん、好きだよ」
「先生は、泳ぐのうまいの?」
「うん。高校の時は水泳部だったんだ」
「へえー」
あの子も窓の外の海に目を向けた。
「先生は、ほんとの先生になってこの学校来るの?」
「ん? そうだね、来るかもしれない」
「そしたら、水泳の時間に海で泳ぎを教えてくれる?」
「担任になったらね」
「なって」
「それは自分じゃ決められないんだよ」
「ふーん」
あの子は少し悲しそうな顔を残して、その場から去っていった。
「ずいぶんなつかれてるわね、湯本くん」
いつから見ていたのだろうか、鈴原先生が近づいてきて言った。
「いや。ははは。かわいい子ですね」
「顔はね」
ぼそっと出たその一言に、僕はぎょっとして鈴原先生を見た。横顔が苦笑いを浮かべている。その表情がひどくいやなものに見えた。
「…頭もいい」
先生はまたぼそっと付け加えた。フォローを入れたという感じではなかった。
鈴原先生は優しくて教育熱心な人だ。あんな突き放した言い方をするなんて、何かあったのだろうか。
あの子を他の子たちの輪の中に入れようとして失敗したとか、そんなことでもあったのかもしれない。鈴原先生は僕と違って、あの子が1人でいることをよしとはしないだろうから。そして気持ちが通じ合わずこじれてしまった、そんなことではないかと思った。
相性の問題なのだろう。あの子と鈴原先生は合っていないのだ。だからあの子が僕のことを、「ほんとの先生よりやさしくてしんせつ」などと書くのだ。あの子を不憫に思うのと、少し嬉しいのがないまぜになった気持ちで、僕は何度も手紙を読み返した。
それにしても……。
手紙の裏には「秘密の場所」の位置を示した地図が書いてあった。校舎の裏にある小さな山、しげみの中に入っていくと、そこに洞窟。僕もあの学校にいた頃にはよく校内探検をしたものだが、こんな場所は全然「ごぞんじ」ではなかった。
行ってみるか、と思った。
地図は簡単なものだったけどわかりやすく、洞窟はすぐに見つかった。
(こんなところがあったのか)
子供の頃が戻ってきたような、わくわくした気持ちになる。懐中電灯の光を当てながら中に入った。
さほど急でもない上り坂、一本道。あの手紙には景色がいいと書いてあったが、どこに通じているのだろう。10分ほど歩いただろうか。いつまで歩くのか、不安になる前にそれはあった。
外が見える穴がぽかりとあいていた。出口、と思ったが体が通れるほどの大きさではない。
波の音が聞こえた。海だった。
(この穴……海に面した崖にあいてるんだ)
こんな場所があったのか。子供にとってこれがどんな場所か、これを自分だけの秘密の場所にするのがどんなに誇らしいか、僕にはよく分かった。そんな場所をあの子は、僕に教えてくれたのだ。
穴から見える外の景色。海に、夕日が沈もうとしていた。
「とくに、ゆうがたがきれいです」
手紙の言葉を思い出しながら、僕はもっと外をよく見ようと、穴に近づいた。
突然、地面が消えた。
なぜか水の中にいた。溺れている。しょっぱい。海水だ。海の中だ。
何が起こったのか分からないまま必死に手足を動かす。海面から顔を出し、辺りを見回した。ずいぶん遠くに砂浜が見える。
一体何が起こったんだ。僕は落ちたのか。どこから。上を見た。出窓のように岩がせり出した先にさっきの穴があり、その下にもう一つ、その穴より大きな穴があった。
(あそこから落ちたのか? なんであんな穴に気づかなかったんだ)
その理由はすぐにわかった。穴からひらひらと何かが出ている。黒い布のようだった。あれが穴の上に張ってあった。だから気づかなかったのだ。
(誰が張ったんだ。何のために。誰が)
混乱していた。張ったのが誰かなんて、考えなくてもわかることだった。あそこは「秘密の場所」なのだから。
(あの子が? なぜ。俺を海に落とすために? あの手紙もそのために? なぜだ。何のために。なぜ)
浜に向かって必死で泳ぐ僕のごちゃごちゃになった頭の中に、あの子の言葉やその時々の顔が浮かんでは消えた。
(えーと……面白いこと……とか)
(面白い? どんなふうに?)
(…ひみつ…)
(わたしは、いいことをおしえます)
(先生、ほんとに知りたいの?)
(知りたいよ。教えてくれる?)
(…うーん。じゃあ、今度…)
(先生にだけ、おしえます)
(かわいい子ですね)
(顔はね)
(きっと先生も、おきにいるとおもいます)
(…頭もいい)
(おきにいるとおもいます)
(先生、海が好きなの?)
(先生、泳ぐのうまい?)
(きっと先生も)
(沖にいると思います)
「…! クソガキ…!」
服が邪魔で泳ぎにくい。必死に手足を動かして、なんとか前に進む。どうやら溺死することはなさそうだ。
子供の頃に好きだった女の子の面影が、頭の中にふと浮かんだ。なんだか、僕を笑っているように思えた。
やっと着いた砂浜に、あおむけに倒れた。
息が荒い。心臓の音が大きい。
本当に馬鹿馬鹿しい。なんて馬鹿馬鹿しい目にあったんだろう。
ようやく普通に呼吸ができるようになって目を開けると、とっくに日が沈みきった空にたくさんの星がちらばっていた。
(すごく、きれいなけしきが見えます)
また、あの手紙を思い出した。
「…きっと先生も、おきにいるとおもいます」
声に出して言ってみたら急に笑いがこみ上げてきて、僕は寝転んだまま声をあげて笑った。
「死んだらどうすんだよ……あのやろ」
笑いが止まらなかった。笑いすぎて涙が出た。せきこんだ。それでも止まらなかった。
授業中、休み時間、いつも1人で考えこんでいた真剣な顔。
あの子は、あの手紙の文面を思いついた時にも、あの大きな目を輝かせたのだろうか。
(…教師になるってのも、悪くないかもなあ)
その時なぜかふと、そう思った。
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