父は私を手に取り、長い間黙ったまま見つめた。
「……ああ」
 うめくような声が聞こえた。
「結局、お前以上のものは作れなかったよ」
 奥さんがお茶を持ってきた。父は軽く頭を下げて言った。
「このバイオリン、どうするつもりですか」
「……あの人と一緒に、棺に入れようかと……」
「そうですか」
 初めて聞く話だった。最後まで、彼と一緒にいられる。嬉しかった。奥さんにしみじみと感謝した。
「実は、そうじゃないかと思って来たんです」
「はあ……」
「お願いです。それはやめていただけませんか」
「…………」
 私は腹を立てた。父は私を作りはしたが、この五十年間のことなど何も知らないのだ。
「このバイオリンは、私の最高傑作なんです」
「申し訳ありません、でも……」
「私は」
 父は奥さんの言葉をさえぎった。
「このバイオリンを、ある女性のために作りました」
「え……?」
「その女性が、息子がバイオリンを始めたがっていると言ったのです。だから私は、それを作って贈ったのですよ」
「…………」
「いや……、たいした話じゃありません。私は彼女が好きでしたが、彼女はそのことを知らないまま結婚してしまった。しかしその後もまあ、好きだった。それだけです」
 私はまたケースの中に置かれた。しかしふたは閉じられなかった。
「できあがったものを見て、自分で驚いたものです。自分が作ったとは思えなかった。傑作とは、そういうものなのかもしれません。私はたいした職人じゃない。また作れるだろうと思っていたんですが、こんなものは二度と作れませんでした」
「あの……」
「どうということのない、平凡な失恋でした。それなのに、なぜかこれは生まれた。そしてあなたのご主人と出会った。ご主人は亡くなったが、バイオリンはまだ生きています。これからまた誰かと出会って、そしてその誰かに弾かれてこそ……」
「でも」
 今度は奥さんが父の言葉をさえぎった。
「あの人は、このバイオリンを愛していました。それに……お笑いになるかもしれませんが、このバイオリンもあの人を愛しているんです」
「笑いませんよ。私は演奏会にもよく行きましたから、そのことはよくわかりました……」
 父は私に視線を落としていた。
「だからこそ、お願いに来たんです。このバイオリンを、これからまた別の誰かが弾けば、もっとすばらしい音が出る」
「…………」
「私には、それがよくわかるんです」
 父の顔にはたくさんの深いしわが刻まれていて、表情はよくわからなかった。


百歳

 少し揺れている。電車の振動だろう。なぜか、昔のことを思い出していた。
 奥さんは結局私を棺に入れず、楽器屋に売ってしまった。前の持ち主のことを何も言わなかったためか、私にはあまり高い値段はつかなかった。それを中年の女性が買った。金持ちの衝動買いだったようだ。あまりケースを開けられることもなく、ひさしぶりでケースを開けたのは若い男だった。私を譲り受けたらしい。時々私を弾いてくれたが、数年で売られた。それからまた別の人に買われた。その後数人、所有期間は長かったり短かったり、そして今は、十四歳の女の子が私を持っている。去年、子供用のバイオリンから私に換えたのだ。
 ケースの向きが変わった。駅についたようだ。彼女は多分これから、祖父と祖母の待つ家に行く。彼女に私を買い与えたのはその二人だ。二人とも彼女のバイオリンを聴くのを楽しみにしている。私も彼女が好きだ。まだあまりうまくないが、彼女に弾かれた時の音がなんとなく好きだ。
「こんにちはー!」
「おお、よく来たね」
 彼女は挨拶もそこそこ、テーブルの上のお菓子を少し食べて、手を洗う。目に見えるようだった。
「食べるのと洗うの、順序が逆だろう」
 笑い声が聞こえて、ケースが開いた。祖父と祖母が座って、もう聴く体勢になっている。
「さあ、どれくらいうまくなったのかな」
「あんまり期待しないで」
 そう言いながらも、彼女は楽しそうにぴんと背筋を伸ばしてかまえる。背が伸びたな、と思った。

 静かな音がつむぎだされてゆく。こんなにうまかったかな。少し驚いていた。そういえばバイオリンの先生も、最近上達が早くなったと彼女をほめていたっけ。
「このバイオリンになってから、練習が楽しくなったんです」
 彼女は嬉しそうに言っていた。
 観客の二人は目を細めて聴いている。ふと、父のことを思いだした。あれから五十年。当然死んでいるはずだ。奥さんも死んだだろう。私だけが残って、今でも音を出している。何もかもが私を置いて去っていった。けれどあの時愛した彼は私の中に溶けて、私の出す音のどこかに彼がいる。今、彼女が弾く曲の中にもそれははっきり聞こえて、私を遠い世界へ連れていくようだった。
「まったく、不思議だ」
 曲が終わり、彼女の祖父が感心したように頭をふった。
「大人の音だ。大人の悲しみだ」
「へへへ」
 彼女は照れ笑いしながら私をケースにしまった。闇の中に、楽しそうな話し声が聞こえてくる。私はふかぶかと落ち着いて、さっきの演奏の余韻にじっくりとひたった。


(終)

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