十字路
 
 
 

 小さな女の子を踏みつけるとやわらかいということをジキルは知っている。
 あの十字路でぶつかった女の子を、ハイドは平然と踏みつけて歩いた。自分だったら反射的に止まる。他のことを考える前に相手を案じる。口から自然に謝罪の言葉が出る。しかしハイドにはそれがなかった。そのまま歩いていく。
 ハイドの体はジキルの意志では動かない。だが、感覚はあった。右足の下の、やわらかい感触。
 それ以来その感触は、何かの象徴であるかのように何度もよみがえってきた。
「やめろ! やめろ、エドワード!」
 繰り返されるハイドの凶行を止めようとして、ジキルは叫ぶ。
 望んだのはお前だ、ヘンリー。
 馬鹿にしたようにハイドが答える。
「違う。違う」
 必死に否定する。ハイドはただ笑う。その笑い声を聞くと、ジキルの右足にあのやわらかい感触がよみがえる。
 お前が望んだんだ、ヘンリー。
 繰り返されたその声に、今度は何も言うことができない。
 やわらかい。やわらかい。
 小さな女の子の体は、なんてやわらかいのだろう。

 船を救って以来、ハイドは姿を見せていなかった。ジキルはノーチラス号の廊下を歩きながらそのことを考え、ふとまわりを見回した。そういえばここだった。この場所でハイドが数日前、俺を出せと騒いだのだ。
 今日はまったく静かだった。窓に映るのも自分の顔だけだ。
「エドワード。一体どうしたんだ?」
 返事はない。
「みんなが必要としているのは僕じゃない。君なんだ」
 本心だった。最初は恐れていた水夫たちでさえ、今はハイドを船を救った英雄として見ている。
「薬を飲めば出てくるのか? けど、試すわけにもいかないじゃないか」
 返事はない。窓に映るのは自分の姿だった。探すようなつもりで、窓の中をにらみつけた。
 その時、足音が聞こえた。
「ジキル博士」
「あ、ネモ船長」
 ジキルは慌てた。
『私の船に野獣を野放しにするわけにはいかん』
 あの時、ここでネモにそう言われた。また同じような状態になっていると思われただろうか。
「いや、違うんです。これは」
「わかっている。それに、もしそうだったとしても止める気はない」
 何が違うのか言わなくても、ネモにはわかったようだった。
「船を救った恩人に、直接礼を言いたい気持ちもあるからね」
「あれは……船長。彼は船が沈めば自分も死ぬからそうしただけですよ」
「船が沈めば、死んだのは彼だけではなかった」
 ネモはその目に穏やかな笑みを浮かべていた。
「彼に伝えてくれ。もしも出てきたくなったら、この船の中ならば私が許可すると」
 ジキルはあ然として口を開けた。
「……船がどうなっても知りませんよ」
「沈むようなことはないだろう」
「ないと言いきれないのが残念です」
 そう言ったジキルが深刻な顔をしても、ネモの目の笑みは消えなかった。
「彼とのつきあいは長いのかね」
「ええ、まあ。……5年ほどですね」
 本当は違う、とどこかで思った。エリクシルを作ったのは5年前だ。だから間違ってはいないはずだが、きっとハイドはその前からいた。あの薬によって何かを得ただけだ。
「彼のことは君が一番よく知っているのだろうから、無理にとは言わないが」
 ネモは歩き出しながら言った。
「さしつかえなければ彼にそう伝えておいてくれ」
 ジキルはその場から動かず、ネモの後ろ姿を呆然と見つめた。
 ヘンリー。
 別の声に驚いて窓を見た。見覚えのある恐ろしい顔があった。
「……エドワード。今の話を聞いていたのか」
 ああ。出たければ出てもいいらしいな。
「出たいのか?」
 船長の許可があるんじゃお前も止めるわけにはいかないな、ヘンリー。
「……今は薬を持ってない。これから部屋に戻るよ」
 出たいとは言っていない。今はまだいい。
 その言葉を聞いて、ジキルは部屋に向かおうとした足を止めた。ほっとした気持ちの中に、どこか寂しさがある。その寂しさの正体については、今は考えないことにした。
「しかし、驚いたよ。ネモ船長があんな事を言うとはね」
 自信があるんだろう。
「自信?」
 俺が暴れても止められるという自信だ。
「止める? どうやって」
 ネモは強いぞ。俺より強いかもしれない。
「まさか」
 ジキルはネモが闘うところを見たことがなかった。たしかに小柄な体ながら迫力はある。しかしハイドより強いとはとても思えなかった。
 お前にはわからないんだ、ヘンリー。
「そうなのかな」
 そうだ。この船が今無事なのは、ネモが船長だからだ。
「船を救ったのは君だろう」
 うぬぼれるな、ヘンリー。
「僕じゃない。君が救ったと言ったんだ」
 同じことだ。俺はお前が望むことをやっただけだ。
「…………」
 今までにも何度か聞いた言葉だった。だが、今日は否定する気にならない。
 はっきり覚えている。あの時自分は確かに望んだ。他のことは何一つ考えていなかった。
 ──誰か。誰かこの船を助けてくれ。
 助けるんだ、ヘンリー。俺とお前ならやれる。
 そうだった。僕が望むことはいつも叶った。そして僕はいつもその喜びと恐怖の間にいて、どうしたらいいのかわからなかった。
 俺がやったのはいつもと同じことだ。だが、お前が喜んだのは初めてだった。
「……エドワード」
 何か言おうとしたが言葉にならず、ジキルはただ窓の中のハイドを見つめた。肥大して醜く歪んだ顔、体。それは心に浮かぶ望みが叶うことで、いよいよ肥大して醜く歪んだ、ジキル自身の欲望の姿だった。本当はそのことも、ずっと前から知っていた。だからジキルはハイドと離れることも、ハイドを直視することもできなかったのだ。
 だが、今ジキルが考えたのはそのことではなかった。
(お前が望んだんだ)
(俺はお前が望むことをやっただけだ)
 それなら、エドワード。
 君自身は、何を望んでいる?
 ヘンリー。
 窓に映るハイドが、ジキルの目をのぞきこむようにして言った。
 何を考えている。
「いや、別に」
 言えるわけがない。ジキルは苦笑した。
「……君にそんなことを聞かれたのは初めてだ」
 いつもは聞かなくたってわかる。
 ハイドは戸惑うような声を出した。
 今はわからない。
「いいんだ、それで」
 またよみがえってきた右足の下の感触を振り切るようにジキルは言った。
「わからないこともあって当たり前だ。僕だって、ネモ船長が強いってことがわからない」
 ネモは強い。
 ハイドがまた言った。
 その声がなぜか嬉しそうだったので、ジキルは少し笑った。