Eyes
 
 

 ディナーの席ではたいてい、その場にいない者が話題にのぼる。
「困ったものだ」
 ネモは重々しく言った。ソーヤーがスキナーの部屋から出てこない。困惑顔のクルーがそう報告してきていた。
 スキナーはあの火傷以来、まだ目を覚ましていない。彼のそばから離れようとしないのだという。
「傷の手当てをしなきゃいけない立場の人が、ここでおいしく食事をいただいているというのにね。あ、これはあたしも含めてのことよ」
 ミナは何の気なしに途中まで言い、急いであとの文句を付け加えた。ジキルは笑った。
「空腹でふらふらしながら診療するよりいいんじゃないですか」
「あら、仲間思いだこと」
 ミナはからかうような口調で言いながら、ジキルの態度に内心ほっとしていた。スキナーの傷の経過が順調なのだろう。少し前までは、ジキルもなかなかスキナーの部屋から出てこなかった。ミナが部屋を訪ねると、ひどく暗い顔の出迎えが待っていた。医者なら嘘でも頼もしい顔をしてほしいとミナは思ったが、それをジキルに望むのは酷な話かもしれないとも考えた。そしてそれより気になったのが、もう一人の様子だった。
 これまでいつも場違いなほどに明るかったソーヤーが、まるで石のように座り、人の形に布が巻かれているものをじっと見つめている。
「ミスター・ソーヤー?」
 呼びかけるとゆっくりと振り向き、初めてミナに気づいたような顔をした。しかし何も言わない。その目はミナを見ながら、どこか違うところを見ているようでもあった。
 ミナの心は痛んだ。クォーターメインはソーヤーを助けるために死んだと、それはソーヤー自身が言っていたことだった。クォーターメインをそのような形で失ったことで、この青年はどれほどの打撃を受けたのだろう。その上にスキナーもまた、ソーヤーを助けるために重傷を負い、ここに横たわっている。もしも、いやそんなことはないと思うけど、万が一スキナーまで……。そう考えるとなぜか、沈痛な表情のジキルに対して腹が立ってきたりもする。
「ミスター・ソーヤー。少しは休んだ方がいいわ」
「……大丈夫」
 ソーヤーの口の端が歪んだ。笑ったつもりらしいと気づくのに少し時間がかかった。
「ねえ、博士。坊やはずっとあの場所から動かないの?」
 その時のソーヤーの顔を思い出しながらミナが聞くと、ジキルは顔を曇らせた。
「正直言って、僕はスキナーより彼の方が心配ですよ。食事を持っていっても全然手をつけないし、多分睡眠もほとんどとってないと思う」
「スキナーは治るのでしょう?」
「ええ。絶対とは言いきれないけど、命の心配をする段階ではなくなったことはたしかです。実を言うと、最初はとても無理だと思ったものだけど……。本当に、驚くほどの回復力ですよ」
「透明人間の皮膚は回復も早いのかしら」
「研究の予知はありますね。今なら皮膚のサンプルも取れますが」
「あら」
 ミナは眉を上げ、口元に笑いを浮かべた。
「あなたらしくない言い方ね、博士。本気?」
「興味がないといったら嘘になるかな……。薬にも応用できるかもしれないし」
「彼が透明人間になる前から異常な皮膚の持ち主だったという可能性は?」
「もちろんあります」
 ジキルの声も笑いを含んでいた。
 話題はそれから、Mの要塞の科学者がどのような方法で透明な皮膚を解析したかなどという方向に移っていった。ネモはどこか楽しそうな二人の様子に、普段はさほど親しいようにも見えないがどこか共通するものはあるらしい、と感心するような思いを抱いたが、話が一段落したところでジキルにたずねた。
「命の危険は去ったということを、ソーヤーも知っているのだろう?」
「ええ。……いや」
 ジキルは視線を下に落として少し首を傾げた。
「言いましたが、信じていないかもしれない。というより、耳に入っていないような……」
「分かる気もするわ」
 ミナがため息をついた。
「彼はミスター・クォーターメインを失った。その前には親友を殺されたとも言っていたし……。スキナーも同じようになると、理屈より先に思いこんでしまっているのかもしれないわね」
「死にゆく仲間だ、と? それではあの場所から動くわけにはいかんだろうな」
「本当に死ぬのなら、そういうのもやむをえないかもしれないけど。なんとかならないかしらね、博士」
「うーん……スキナーが目を覚ませば……」
「そろそろ叩き起こしてもいい頃なのではないかな?」
 ネモが真顔で言った。

 目が覚めると、そばに人が座っていた。
 これは夢かな、とスキナーが思ったのは、その顔に見覚えがあるのかないのかよく分からなかったからだ。そんな人間が出てくる夢を昔からよく見る。これもそういう夢の一種だろうと考えた。
 けれど、よく見ると違っていた。これはあのアメリカ人だ。トム・ソーヤー。そして彼だと一瞬分からなかったのは、目を覚ましたばかりというだけの理由ではなかった。
(なんて顔だ)
 他人の目がないところでは、人は普段とまるで違う顔をしているものだ。スキナーはそのことを誰よりもよく知っていた。しかしこれはあまりにひどい。見てはいけないものを見てしまったという、長い間忘れていた感覚があった。
「おい、ソーヤー」
 声をかけると、ソーヤーは目を何度か瞬かせたが、姿勢も表情も変えなかった。
「聞こえてんのか、おい」
「あ……」
「よう。俺はどれくらい寝てた?」
「え……スキナー……だよね?」
「他に誰がいるんだ。あの時の透明人間か? あいつも連れてきたのか?」
「そういうわけじゃないけど……ええと……あれ?」
「何だよ」
「いや……スキナー……生きてたんだ」
「いい加減にしろ寝ぼけてんのかよ。まあ何でもいいや、とりあえず俺の快気祝いにだな、ここはノーチラス号だよな、だったらなかなかいい酒があるはずだからちょっと持ってきてくれ。確かキッチンの入り口の……ソーヤー?」
 ソーヤーは椅子に座ったまま、ぽかんとした顔でスキナーを見ていた。その体がゆっくりと横に傾き、まるで棒が倒れるように倒れて床に落ちた。
「ソーヤー!? おい!」

 ノーチラス号の甲板でマチルダを構えながら、これは夢だな、とソーヤーは思った。横にクォーターメインがいて、射撃を教えてくれている。海に浮かぶ的がみるみるうちに離れていく。
(まだ早い、もう少し待ってからだ)
 そう思うのに、なぜか撃ってしまう。弾ははずれた。
「もう一度だ」
 クォーターメインが言い、ソーヤーはマチルダを構え直した。
(あ、まずい)
 突然思い出した。ここで何か言うと、もうクォーターメインは教えてくれなくなる。
「息子にもこうやって教えた?」
 そのことが分かっているのに、言ってしまった。クォーターメインは無言で立ち去ろうとする。
「クォーターメイン!」
 扉の中に入ろうとしている後ろ姿にあわてて声をかけた。
「待ってくれよ、僕はそんなつもりじゃ……」
 クォーターメインは振り向きもせずに言った。
「目を開けてろ、坊や」
 その一言とともに扉が閉まり、冒険家の姿は消えた。ソーヤーは呆然と立ちつくす。
 扉が閉まった瞬間、夢の場面が変わったようだった。もうここは甲板ではない。どこだっけ、と考えた。分からない。どこでもいいような気もする。
「目を開けてろ、坊や」
 すぐ開けるさ。だけど今はもう少し休ませてくれよ。あんたはいなくなったし、あいつにももう会えない。けどさ、スキナーは死ななかったよ。起きて、僕に酒が欲しいって言ったんだ。ほんとだよ。
 まわりで人の声がしていた。自分に呼びかけているような気もする。
 すぐ開けるさ、とソーヤーはもう一度考えた。子供扱いするなよ。もう少し、もう少しだけだからさ。