パノラマ
 
 
 

 周囲はすべて海だった。変わらない光景を見ていると、船がまったく進んでいないように思えてくる。
 スキナーはそんな錯覚をそのままに、甲板の手すりに寄りかかっていた。ファントムは死んだが、この一件が完全に終わったというわけではない。この中途半端な状態を持てあましているのか楽しんでいるのか、自分でもよく分からなかった。
「あ、いたいた。スキナー!」
 声に振り返ると、船内に通じる扉からトム・ソーヤーが現れた。
「おう。何か用か」
「さっき下で探してたよ」
「誰が? ミナか?」
 コートの襟を正しながらスキナーは言った。
「いや、ジキル博士」
「……だろうと思った。期待はしてなかった」
「また勝手に包帯取っていなくなったって。怒ってたよ」
「あの人は大げさすぎるんだ。騒ぐほどのものじゃないのによ」
 その言葉に、ソーヤーは少し顔を曇らせた。
「そうかな」
「そうさ。見ろ、火傷があった時は見えてたけど、今はまた透明人間だ。治ったんだよ、もう」
「嘘だろ? いくらなんでも早すぎる。あんな……」
 ソーヤーが口をつぐんだ。彼はスキナーが炎に包まれた瞬間を見ていた。目に見えないはずのスキナーの体が、炎によってその姿を現した瞬間。苦悶の表情さえはっきり見えた。
『もう火遊びはしねえ』
 部屋の外に倒れてそう言った時のスキナーは全身焼けただれ、今にも息絶えそうだった。
 あんなことになったのは自分が未熟だったからだとソーヤーは思っていた。アランが死んだのもそのためだ。
「俺の皮は特別なんだ。ファントムが欲しがったくらいだからな」
 スキナーが肩をすくめて言った。ソーヤーはかすかに口の端を上げた。
「まあ、たしかにそういう実用性も高いかもしれないね。雪山に裸でいても平気なくらいだし」
「……言っとくがな、あれは本当につらかったんだぞ。誰もねぎらいの言葉一つありゃしねえ。裸でいるのなんか慣れてるだろうと思ってやがる」
「だってほんとに慣れてるじゃないか」
「おい」
「ははは」
 ソーヤーは面白そうに笑い、それから少し表情を変えて言った。
「分かってると思うけど、みんな君には感謝してるよ。特に僕は、命の恩人だから多分一番感謝してる」
 何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。そんなスキナーを見てソーヤーはにやりとした。
「よけいなことを言ったね」
「いや、そんな優しいことを言うのがミナだったらなと思っただけさ」
「それは無理だと思う」
「俺もそう思う」
 ソーヤーも手すりに寄りかかった。
「アフリカに着いたら、この旅も終わりだね」
「そうだな」
「アランは早く帰りたいと思ってるのかな。それとも仲間と別れるのは名残惜しいってちょっとは思ってるかな」
 その言葉が、さっきまで自分が考えていた内容にどこか似ているように思い、スキナーは少し戸惑った。しかしよく考えてみれば全然違うような気もした。
「ホームシックにかかるような可愛げのあるじいさんだったか?」
「さあ。でもアフリカの話、時々してたよ」
「へえ」
 ノーチラス号はアランを帰すためにアフリカに向かっている。それが終わってようやく一段落つくと、誰もが思っている。そのためか、その後どうするかという話はあまりされていなかった。
 もうすぐ終わる。その後はどうなるのだろう。
「ソーヤー。お前、アランの葬式が済んだらよ」
「……うん」
「アメリカに帰って昇進か?」
「は? 昇進?」
「ないのか、そういうの。世界大戦を未然に防いだってのに」
「ああ……。まあ、多分ないよ」
 ソーヤーは曖昧に笑い、それからうつむいて「大海の剣」に切り裂かれてゆく海をじっと見た。
「スキナー。僕がこの船に残りたいと言ったら、ネモ船長は承知してくれるかな」
 承知するだろう、とスキナーは思った。何も言わなくても自分はすでに残る気になっていたし、ネモがそれを拒むとも思わない。ミナとジキルもきっと残るだろう。けれど、ソーヤーには帰る場所がある。今まではそう思っていた。
「ネモに直接聞けよ。まあ俺はだめだと言われても居座れるから聞かないけどな」
「そうか、スキナーもやっぱり残るんだね」
「他にどこか行くところがあるわけじゃない。船を下りるのなんかいつでもいいんだ」
「僕は」
 ソーヤーは下を向いたままだった。
「僕も、できればこの船に残りたい」
「アメリカのスパイなんだろ、お前」
「そうだよ。でもあまり帰る意味がない。ファントムが死んだからね」
 スキナーがその言葉の意味を測りかねていることに気づき、ソーヤーは付け加えた。
「アメリカで、仲間がファントムに殺されたんだ。だから僕は来た。正直言うと、かなり勝手な行動だった」
 スキナーにとっては初めて聞く話だった。しかしその話について何か思うより先に、ファントムはアメリカにも行っていたのかというあきれたような感慨が先にやってきた。
 イギリスやドイツの騒ぎも、自ら出向いて起こしたという。ドリアンの館にも来ていた。
『おれはファントム。貴様らは世に言う超常紳士同盟だな』
 脳裏にあの時聞いた言葉が浮かび、スキナーは苦笑をかみ殺した。あの後ファントムは館から必死で逃げ、ベニスの爆破計画で自ら陣頭指揮を取り、そこからもやはり必死で逃げた。むやみに壮大な計画と、それを自分自身の手で行わなければ気が済まない性格。おかしなやつだったと思うが、まったく理解できないというわけでもない。
「アメリカであいつが何かやったという話は聞いてないけどな」
「イギリスやドイツやイタリアの時とは違ったんだ。あいつがアメリカに来たのは……なあスキナー、フランケンシュタイン博士って人を知ってるかい」
「聞いたことはある。死体をつなぎ合わせてモンスターを造った科学者だろ? けどアメリカ人じゃなかったはずだぜ」
「うん、たしか生まれたのはスイスだったかな。ドイツで人造人間を作って、イギリスでもう一体……もっともそっちは途中でやめたらしいけど。アメリカに来たことは多分ないと思う」
「その博士とファントムがどう関係あるんだ?」
「フランケンシュタイン博士も、彼が作った人造人間も死んだ。博士は人造人間の製法は残さなかった。けど、ヒントを残してしまったんだよ。博士から聞いた身の上話を書きとめた男がいて、その話の中に、同じような研究をしている者が見ればわかってしまうヒントが含まれていたらしいんだ」
「へえ。わかってしまったやつがアメリカにいたってわけか」
「そうなんだ。そして作ってしまった」
 ソーヤーは水平線を見ながら少し目を細めた。
「ファントムがアメリカに来た目的は、その人造人間だった」

*                  *

 アメリカで人造人間を作った科学者とフランケンシュタイン博士との違いは、1体作っただけで満足するかしないかというところだったと思う。何が目的だったのか、今となってはさっぱりわからないけど、そのアメリカの科学者が作った人造人間は全部で12体。うん、12。作るだけ作ってあとは運任せ、いかにもアメリカ式だってアランなら言うだろうな。
 12体目を作ったところで、科学者は殺された。深夜だった。おそろしい絶叫が地下室から響いて、近所の人たちは目を覚ました。窓から外を見た何人かは、いくつもの巨大でいびつな人間の影が街に散っていくのを目撃している。大騒ぎになって、それでようやく科学者の研究は明るみに出たんだ。
 警官隊が入った時には、地下室には研究の残骸と科学者の死体が残っているだけだった。科学者の死体は原型がどんなものだったのかまるで分からないようなひどい状態だったけど、それは素手でねじ切り、つぶされたものだった。
 僕とハックが……うん、それが僕の仲間の名前だ。ハックルベリー・フィン。子供の時からの親友だった。
 僕とハックが上司に呼ばれたのはそれからだいぶ経ってからだ。事件のことは聞いてはいたけど、その頃僕らは別の任務で忙しかった。ちょうどあのイギリスとドイツの騒ぎがあった頃さ。ファントムは必ず目撃者を残していたから、あの事件に何かの組織が関わっていることははっきりしすぎるほどはっきりしていた。僕らの任務はファントムとあの組織の調査。イギリスで調査することにもなっていたけど、なぜか出発の予定が何度か延期されていた。
「君たちのイギリス行きのことだがね」
 呼ばれた僕らが部屋に入るのとほとんど同時に上司は言った。
「延期することになった」
「またですか。一体……」
 抗議しようとした僕を、上司は片手を上げて止めた。
「君たちの任務はファントムの調査だ。ところが、そのファントムが今アメリカに来ていることが分かったのだ」
 僕とハックは思わず顔を見合わせた。
「何のために?」
「それを調べるのが君たちの任務だ……と言いたいところだが、おおよその見当はついている」
 上司は机の上に資料を積み重ねた。
「ファントムはこれ見よがしに超近代兵器を使い、国家間に火種をばらまいている。目撃者もわざと残しているのだ。やつの目的は強力兵器を持つ自分の存在を知らしめ、各国にその兵器を売りつけることのようだ。もっと大きな野望もあるかもしれんがね、たとえば世界征服といった」
 隣にいるハックが顔をしかめている気配があった。
「アメリカにも火種をばらまきに来たってわけですか」
「いや、どうやらそうではないようだ。あまり一度にやっても逆効果だろうからな」
 上司はファントムの資料の上にノートを一冊重ねた。
「やつの目的はおそらくそれだよ。君たちも知っているだろう? アメリカ版、フランケンシュタインの怪物だ」
 話にしか聞いたことはなかった。パニック抑止のために箝口令がしかれているらしく、僕が聞いたのも情報局内部でのことだった。詳しい話はまだ知らなかった。
「科学者の日記が残っていたおかげで、完成した人造人間が12体いることがわかっている。研究ノートも別にあったらしいんだが、それは人造人間たちに破棄されたようだ」
 僕はノートを手に取りぱらぱらめくった。日付とそっけない走り書きだけの日記だった。
「12体の人造人間のうち8体はすでに始末し、死体を回収した。どれもとんでもない怪力の上、痛覚がないらしく傷を負っても平然として向かってくる。これまでに民間人が17人、警官が10人犠牲になったが、怪物同士徒党を組んでいないのが幸いだ」
「銃で撃っても死なないんですか?」
「いや、死ぬ。ただ死ぬ直前まで暴れているというだけだ。不死身だったらこの程度の犠牲ではすまんよ」
 8体殺すまでに犠牲になった警官が10人。少なくはないけど、たしかに大怪物というほどでもないのだろう。
「だが、戦争に使う兵器としては有用に違いない。原料になる死体はそこらへんから拾ってこれるだろうしな」
 上司は本気なのか冗談なのかよく分からない口調で言った。
「今までの動きは兵器を売るための営業、今回は新製品の開発というわけだ。いいかげんにあのやり手社長を止めねばならん。残り4体をファントムより先に見つけて始末する。それが君たちの任務だ。事は急を要する」
 その目はハックに向けられていた。
「特にフィン。君はこういうことには向いているだろう」
「そうですね。多分」
 ハックは気のなさそうな表情で答えた。
「いいな。人造人間を決してファントムに渡してはならない。1体残らず始末し、死体を回収するのだ」
「はい」
 今度は僕が返事をした。

「ああ、いやだなあ」
 部屋を出て扉を閉めた瞬間、ハックはため息をついて言った。
「おい、弱音吐くのが早すぎるぞ」
「吐きたくもなるさ。死体をつなぎ合わせた怪物だって? 冗談じゃない、死体なんか大嫌いだ」
 ハックは恐怖や嫌悪感を隠そうとはしないやつだった。そのせいで仲間内では臆病者呼ばわりされることもあったけど、その能力は誰もが認めていた。あいつはちょっとした雰囲気の違いや不穏な空気におそろしく敏感で、他のやつらにはまるでわからない何かをいつも感じ取ることができたんだ。あいつは気の進まない顔をしたまま、僕と街をうろつきまわった。
「トム」
 いつもより少し低くて固い声であいつが言う。そんな時は、必ず何かが近くに潜んでいた。
「どこだ?」
「路地の奥」
 小声で言いながら、親指をそっちにちょっと向けた。
「人造人間?」
「……かもな」
 ちょっと鼻をひくつかせてハックは言った。においで分かるものなのかな、ああいうの。僕にはよく分からない。
 路地に入ったが、誰の姿もなかった。
「どこにいる?」
 ハックは無言で路地の奥のゴミの山を指さした。その指が震えていた。
「トム、他のやつら呼んでこよう。背中の毛が逆立ちそうだ」
 その時には僕にも、ゴミの中にいる何かの気配が感じとれた。銃を構えて呼びかけた。
「出てこい」
「おい!」
 ハックは青ざめて僕を非難するような声を出した。でも、あいつの直感だけで仲間を呼び集めるわけにはいかなかった。ゴミの中の気配が人間のものという可能性を考えれば、無言で弾丸を撃ち込むわけにもいかない。それに僕は、人造人間がそれほどの強敵だとは思っていなかった。もともとは人間の死体だし、それまでにもう8体が始末されているという経緯もあったから。
 沈黙は短かったと思う。大砲から弾が飛び出すみたいに、ゴミの中から黒いかたまりが飛び出した。頭上はるか高く20フィートくらいまで飛び上がり、壁を蹴って僕をめがけて隕石みたいに落ちてきた。
 何か爆発したみたいな音がした。間一髪よけた僕がさっきまでいた場所に大穴があいている。ゆっくりと立ち上がり、穴の中から出てきた人造人間を見て僕は肝をつぶした。身長が9フィート近くあり、それに見合う幅、つぎはぎだらけで筋肉や血管が透けて見える体、瞳は変に濡れて輝いていて、顔からこぼれ落ちそうに見えた。そいつがまっすぐ僕を見て、次の瞬間吠え声をあげて襲いかかってきた。僕は自分が銃を持っていることをやっと思い出し、撃った。当たったはずだ。肩と腹。まったくそれに反応しないでこっちにやってくる。また撃つ。焦ったためか今度は外した。銃声がまるで水がはねるような音に聞こえた。怪物がまっすぐに向かってくる。
 別のところから銃声があり、人造人間がバランスを崩した。足に当たったのだ。ハックが撃った弾だった。人造人間がよろけながら腕を振り回し、よけた僕のかわりに壁にヒビが入った。
 があ、と人造人間が吠えた。耳がびりびりするような声だった。逃げる僕をまた追ってくる。どうする、と一瞬考えた。怪物を引き連れて表通りに出るわけには行かなかった。
「こっちだ!」
 僕はそう言いながらせまい通路に飛び込んだ。ハックが挑発するように人造人間にもう1発撃ってから僕の後ろに続いた。
 ばかでかい体の人造人間は通路に入って来ることはできない。しかし吠えながら無理に入ろうとしていた。僕は通路の中から人造人間を撃った。僕の前でハックが座って撃っていた。人造人間はそれにかまわず、巨大な体を通路にねじこもうとしていた。
 え? うーん、大きいと言ってもハイドとはちょっと違ってたよ。あんなに筋肉が盛り上がった感じじゃなくて、なんていうか、ただやたらに大きいんだ。でも力もすごかったけどね。あいつが通路にむかって体当たりしたら、両側の建物がグラグラ揺れて、屋根の上のものがずいぶん落ちてきた。
「おいトム、こりゃお前の計算外なんじゃないか!」
 ハックがわめいた。
「いいや、全然問題ないね」
「崩れたら生き埋めだぞ!」
「そこまでの力じゃないさ」
 その間にも、弾丸はいくつも人造人間の体に当たっていた。こんなに当てやすい的はなかった。よけもしないし防ごうともしない。胸にも、頭にも当たっている。けれども倒れる気配はなかった。最初と同じように、吠えながらこっちに腕を伸ばしてくる。もう倒れるはずだ、と思ってからだいぶ時間がたっていた。
 銃で撃てば死ぬ、という上司の言葉をそろそろ信じられなくなった時、人造人間は突然糸が切れたように崩れ落ちた。そのまぴくりとも動かない。
「やれやれ」
 僕が息をつくと、ハックは不安そうに倒れた体を見た。
「死んだふりじゃないのか?」
「そんな頭があったらこれまでに使ってるさ」
 体にあいた穴から血があふれ出ている。よく今まであんなに動けていたものだ。こんなものが兵器に使われたらと思うと鳥肌が立つ。
 人造人間というものを見くびっていたと思った。死体をつなぎ合わせた怪物。元が死体。死にかけたようなのろのろした動きをするものだと、僕はどこかで勝手に思っていたのだ。絶対こんなものをファントムに渡しちゃいけない。
「思ってたほどじゃなかったな」
 死体に戻った人造人間を見下ろしていたハックが、僕が考えていたのと逆のことを言った。
「やっぱりお前はすげえよ、トム。おれはちょっと怖がりすぎてた」

 その2日後、僕らは次の1体を見つけた。2度目だったからか、前のやつより運動能力が低かったのか、今度はそれほどてこずらなかった。もっとも、それはそれで嫌な気分になったけど。
 さらにその次の日は、探すまでもなく人造人間の方から姿を現した。昼間に街に現れて大暴れをしたらしい。僕らはそこにいなかったけど、他の諜報員と警官たちがすみやかに始末した。ファントムの一味が先に駆けつけなかったのは幸運だった。
 残りは1体。しかし、それから手がかりがまるでなくなった。目撃者も気配もないまま何日か過ぎた。ファントムとその部下たちはあきらめていないらしく相変わらずうろうろしている。諜報員の中にはそっちを追いかけているやつらもいたけど、なかなかうまくはいかないみたいだった。
「人造人間のやつがこの街から出たって可能性はないかな」
「出られるかな? 目立つだろ、あれじゃ」
「まあね」
「他の街に行ったって見られたらすぐ大騒ぎだ」
「そうなんだよな。それなのにそんな騒ぎがどこにも全然ない。どういうことだろう。なあハック、この街にいるかどうかだけでもぴんとこないのか」
「おれは占い師じゃねえよ」
 ハックはむっとしたようだった。
「でも、そうだな。もしかしたら、もういないかもしれないな」
「出たってことか、この街を」
「いや」
 ハックは少しためらってから言った。
「ドイツで生まれた人造人間は自殺したって聞いたからさ」
「ああ、そうか」
 フランケンシュタイン博士が死んだ後、人造人間は海に飛び込んで自らの命を絶った。その場にいたという探検家の手紙には、その時の人造人間の言葉も書いてあった。
『自分のようなものが二度と作られないように』
 ささやかな願いだと思う。でも、叶わなかった。
 しばらくの間、二人とも黙っていた。
「あと1体か」
 ハックがぽつりと言った。
「ああ、いやだなあ」

 最後の人造人間を見つけたのは偶然みたいなものだった。
 夕方、諜報員とファントムの手下とのこぜりあいがあった。手下のやつらは例によって鉄板なんかつけてて、例によって逃げ腰だった。追われて街外れの川のそばに林の林に逃げこみ、木で目くらましをしながらしばらくやり合った後にまた林から出て逃げていった。諜報員たちがそれを追う。
「おい、トム」
 一緒に追おうとした僕をハックが呼び止めた。その固い声を聞いて僕はぎくりとした。ハックが林の奥の方を見てじっと立っている。
「まさか、こんなところに?」
「多分」
「ここにいたんなら、そりゃ見つからないだろうけど」
 僕は伸びている枝を見上げた。実のなる木なんかは見あたらない林だった。
「こんなとこでどうやって生きてたんだ?」
「おれに聞くなよ」
 時間をかけて慎重に進んだ。やがて目標が見えてきた。
 木によりかかって座っている、筋肉や血管が透けたつぎはぎだらけの体。人造人間だった。今までのやつらよりは小さい。といっても7フィートくらいありそうだった。ただ、今までの人造人間を見た時みたいな、肌にぴりぴりするような緊張感はなかった。
 けど人造人間であることは間違いない。僕はウィンチェスターを構えようとした。
「ちょっと待て、トム」
「なんだよ」
「あいつ、何食ってるんだろう」
 一体何を言いだしたのかと、僕は顔を上げてハックを見た。それから木の根元に座っている人造人間を見た。何か黒くて平べったいものを両手で持ってかじっていた。
「何だと思う? うまそうに食ってるな」
 ハックは状況を忘れているようだった。でも僕も忘れてたから人のことは言えない。
「ここからじゃよく分からないな……」
「もう少し近づいてみるか」
「今は動かない方がよさそうだ。多分見つかる」
 ながめているうちに人造人間はそれを食べ終わった。しばらく何か考えているようだったが、やがて立ち上がり、寄りかかっていた木からていねいに皮をはぎ始めた。10インチくらいの皮をはがして嬉しそうな顔をした。また座って食べ始める。
「木の皮……みたいだ」
「あんなもの食えるのか? おれでも食ったことないぞ」
 人造人間は本当にうまそうな顔で食べていた。途中まで食べたところで空を見上げ、幸せそうに一息つくのが見えた。
 そういえば本家の人造人間は木の実を少し食べるだけで満腹になったとかいう話だった。木の皮を主食にする人造人間がいてもおかしくない、のかもしれない。
「見つからないわけだ。ここで暮らしてれば、あいつ全然食うのに困らないんだな」
 ハックはそう言いながらかがめていた身を起こした。見つかるぞ、と言おうとする間もなく、あいつは散歩でもするみたいな歩き方で人造人間に近づいていった。僕は止める言葉も出なくなって、ただあきれて見ていた。人造人間は近づいてくるハックに気づき、
「ウオン」
 驚いたらしく、犬が吠えるような声をあげた。
 ハックは20フィートくらいの距離まで近づいて立ち止まり、自分の口を指さした。人造人間は納得したような顔をして、持っていた木の皮を裂いて差し出した。ハックがためらう様子もなく、その皮を取りに近づいていく。僕はその後ろからついていって、さっきハックが立ち止まったあたりで立ち止まった。
「まずい」
 受け取った木の皮を一口食べて、ハックは言った。人造人間は言葉が分からないらしく、不思議そうな顔をして木の皮を食べ続けていた。ハックは黙って人造人間を見ている。その時僕はようやく、こいつを殺さなくてはならないことを思い出した。
 でも、そんなことをしていいのか。こいつはきっと、何も悪いことをしていない。
「トム」
 呼ばれて我に返ると、ハックは人造人間の前に座っていた。まずいと言った木の皮をまた少しかじっている。
「こいつさ、このままここにいた方が安全かな。それともこの街から離れた方がいいかな」
「おい、ハック」
「おれ、こいつは殺さないよ」
「…………」
 こんなことになるような予感が、ずっと前からあったような気がした。
「どうするつもりなんだよ」
「他にどうしようもねえな。守るさ。ファントムからも、局の連中からも」
「けど、それは」
 ハックは人造人間を見たまま、低い声で一言つぶやいた。
「ニャーオ」

 ああ、それだけ言っても分かるわけないね。
 僕とハックは子供の頃からの仲間だった。子供の頃に僕らはよく冒険に出かけたけど、その時の合図はたいてい猫の声だった。夜中に窓の下に行って猫の声で合図をする。猫の声が返ってきて、それで冒険に出かけるんだ。
 誘いに行くのはたいてい僕の方だった。ハックはいつも僕の誘いに喜んで乗ってきた。一緒に山賊になる約束をした。宝探しをして本当に大金を見つけたこともあった。でも、ハックは冒険なんか好きじゃないのかもしれないって、僕は時々思っていた。少なくとも、僕が思っている冒険とハックが思っている冒険は違うものだったと思う。
 時が経つにつれて、僕は宝探しとか山賊とか海賊とか、そういうものから離れていった。冒険を求める気持ちに変わりはなくても、近所の山に入っただけで山賊になったと思えた頃とは違ってくる。
 その頃から、街でハックを見かけることがあまりなくなった。どこか遠いところに行っているらしかった。僕は時々戻ってくるあいつを見かけるたびに、心が変にざわめいた。僕がなくしたものをあいつは持っているんだと思った。あいつが冒険を好きかどうかは分からないけど、冒険の方はあいつのことが大好きで決して離れようとしない。そんなふうに見えた。
 ハックに旅の話を聞こうとしたけど、あいつはだんだんくわしい話をしてくれなくなった。旅先でハックは波瀾万丈の日々を過ごしている。そのことを僕は疑ったことはなかった。話してくれないのは、僕が冒険から離れているように見えるからだろうと思った。僕もいつだって冒険の旅に出たいんだと言いたかった。でも、冒険から離れているのは事実だった。どれくらいの年月離れているのか、そんなことは考えたくもなかった。
 それから色々あって、あいつも僕も諜報員になった。命がけの仕事だ。でも僕は、それを冒険だとは思っていなかった。

 人造人間を前にして聞いた猫の声は合図だった。冒険が始まる合図だったんだ。子供の頃の冒険とは色々な意味で違っていたけど、でもあの頃と同じ何かだった。
 不思議な感覚だった。胸の中に、なくしていたいろんなものがいっぺんに戻ってきたみたいだった。僕はウィンチェスターを地面に置いて、その場に座りながら言った。
「ニャーオ」
 ハックはぎょっとしたような顔をして、口を開きかけた。その時、僕とハックを見比べていた人造人間が分かったような顔をして言った。
「ニャーオ」
 僕とハックは思わず顔を見合わせて笑った。すると人造人間も笑った。
 僕らは3人で笑って、それで僕は、もう決してこの人造人間を殺すことはできなくなったのだとわかった。

*                  *

「あ、あれがアフリカかな?」
 ソーヤーが突然声をあげた。水平線の上に薄く浮かび上がる陸地が見える。
「違うよ、ありゃ。あと2日くらいで着くって今朝ネモが言ってたろ」
「ああ、そうか」
 沈黙が流れた。話の続きを催促すべきなのか、スキナーは少し考えてから口を開いた。
「……じゃあ、ファントムはその頃から超常人間のコレクターだったってわけだな?」
「うん。そこのところをよく考えれば、もっと早くあいつの正体もわかったかもしれないね」
「まったくだ。スパイとしてはどうかと思うぜ、ソーヤー」
「うん」
 ソーヤーは近づいてくる陸地をじっと見ながらうなずいた。小さな島のようだった。
「あいつもスパイとしては失格だったけど、少なくとも有能だった。僕は有能ですらないな」
 同じ人間の手で、大切な仲間を2人失った。けれども今のソーヤーの横顔には、そんな陰があるようには見えなかった。
 スキナーはあの要塞の中で見たもののことを考えた。家族を人質に取られた科学者たちが没頭していた、世界を滅ぼしかねない数々の研究。けれども科学者たちが忙しく働くあの場所には奇妙に生き生きとした熱気があった。それは人質を取られたというだけでは説明がつかない熱気だった。あれが科学者というものなのかもしれない。透明人間になる薬や善と悪を切り離す薬を作り上げた科学者と同じように、彼らもまた、たとえ破滅の予兆があっても、偉大な完成に突進せずにはいられなかったのだろうか。
 けれど、そんな科学者の一人だったはずのフランケンシュタイン博士の研究の続きは、あの場所では行われていなかった。死体をつなぎ合わせて造られた、怪力で痛覚のないモンスターはどこにもいなかった。
 ファントムの手によるものだったというソーヤーの親友の死は、そのこととかかわりがあるのだろうか。
「なあ、ソーヤー」
「スキナー! こんなところにいたのか!」
 背後から声がかかった。振り返るまでもない。スキナーを探していたという人物だった。
「よう、博士」
「君は! 自分の体がどういう状態なのか分かっているのか? こんな強い日差しに当たったりして、これじゃ治るものも……」
「大丈夫だよ、もう治ったんだ。ほら、透明だろ」
「まだ全然治ってないよ! まったく、少し回復するとすぐ見えなくなってしまうんだからな……こんなやっかいな患者は初めてだよ」
 ジキルはため息をついた。
「君はまだ全身に薬と包帯が必要なんだよ。頼むから勝手に取るのはやめてくれ」
「勘弁してくれよ。アフリカに行くったってピラミッドが目的じゃないんだぜ」
「ふざけたことを言ってる場合じゃ」
「あら、おそろいでこんなところにいたの?」
 ジキルの後ろからミナの顔がのぞいた。
「ランチの時間だそうよ、紳士の皆さん」
「やあ、ちょうどいい時間だ」
 ソーヤーが嬉しそうに船内に飛び込んだ。それまでしていた話はすでに忘れ去ったかのようだった。
 まだ途中だったんだがな……。スキナーは話が途切れる原因になった小さな島を振り返った。
 しかしまあ、たしかにランチにはそぐわない話だ。
「スキナー!」
「ああはいはい」
 島はすぐにノーチラス号の横にそれて、見えなくなった。