「レオ! レオってば!」
 目線のはるか下からの声に顔をうつむけると、自分の半分ほどの背丈の少女のまっすぐ見上げる視線に出会った。
「これ、あげる」
 差し出されたのは、この「天使の家」の庭でつんだとおぼしき花を束にして、皺の入った派手な柄の紙で包んだもの。小さくて貧相な花束だった。
「オイオイ……気持ちは分かるがよ。まだちーっと早ェんじゃねェの、こういうのは」
「バカ。勘違いしないでよ」
 少女はませた口調で言ってレオナードをにらんだ。
「園長先生の病気が治ったから、そのお礼だもん」
「あぁ、そうですか」
 レオナードはくるりと振り返って建物を見上げた。ついさっきまで園長と会っていた部屋の窓。まだあの部屋に園長はいるだろうか。
(いねェだろうな。昔からやたら動きまわってたもんなァ)
「レオはお店を持っているんでしょ? これを飾るといいと思うよ」
 差し出された貧弱な花と、その台詞と、少女の幼さ。ちぐはぐなのか、そうでないのか。レオナードは笑う気にもなれなかった。
「おう。じゃあもらっとく」
 レオナードの手に花束が渡ると、少女はひどく嬉しそうに、急に年齢相応の顔になって笑った。

 小さな花束は、カウンターの中で底の深いグラスに活けられている。花瓶は時々女性客が持ってくるが、すぐに酔っ払いに割られてしまうため今はこの店にない。もっとも、あったとしてもこんなみすぼらしい花束にはそぐわなかっただろう。
 開店準備を始めるにはまだ少し早い。レオナードはテーブル席に座り、花を視界の端にとどめたままぼんやりしていた。
(園長先生の病気が治ったから、そのお礼だもん)
 治った、か。
 口の中でつぶやいた。園長がそう言っていたのか、あの子供が園長を見てそう思ったのか。確かに園長は一時期より顔色も良くなり、元気になったように見えた。
(ありがとうよ、おかげでだいぶ楽になった)
 園長は自分が世話になっていた頃より一回り小さくなったように見えたが、笑った顔はあの頃とちっとも変わっていなかった。
(だがな、レオ……)
 ぱたぱたと軽い足音が扉の外の階段を駆け下りてきて、レオナードの思考はそこで中断した。ち、と舌打ちが出る。誰が来たのかはすぐわかった。
 しかし、足音は扉の前で止まった。いつもなら足音がしたらすぐに扉が開き、「こんにちは!」というあの場違いな明るい声がするのに、今日はなかなか入ってこない。
(何やってんだ? 今さら怖じ気づくようなタマでもねェよなァ)
 店から放り出してやったのに、何度も懲りずにやってきて、聖地だの守護聖だのという話をしていく赤い瞳の使者。エンジュという名のその少女は、こんな街で生まれ育ったレオナードを、こともあろうに聖地に連れて行くと言いだした。馬鹿馬鹿しくてまっすぐな誘いが、それから数日おきに続いている。
「こんにちは!」
 ようやく扉が開いて、いつもの声がした。どこかほっとした自分への苛立ちもこめて、レオナードは不機嫌な大声を出した。
「開店前だ! 出てけ!」
「ごめんなさい、お客さんじゃないんです!」
 そう言って笑いながら入ってきた姿に、レオナードは少し目を見開いた。エンジュは頭から靴までずぶぬれだった。
「お。雨か?」
「そうなんですよ、いきなり降り出しちゃって。今もすごいですよ、外。ここだと全然聞こえないんですね」
 入ってくるまでに間があったのは、扉の外で服をしぼっていたためらしい。それでも新たにこぼれる水滴が、服のすそから床へと落ちていく。冷たい雨が全身にしみた姿は寒そうだったが、エンジュはいつもと変わらない明るい顔でレオナードに話しかけてきた。
「お店の準備中ですか? 何かお手伝いできることがあれば……」
「ねェよ。ついでに、用もねェ。しつこい女は嫌われるぜェ?」
「そんなふうに言わないでくださいよ……レオナードさんは本当に、この宇宙の守護聖様なんですから。そうだ、何か守護聖様のお仕事のこととか、聞きたいことありませんか? といっても私もくわしく知ってるわけではありませんけど」
 いつもは図々しくカウンター席に腰を落ちつけるくせに、エンジュは今日は立ったままだった。椅子が濡れるなどとどうでもいいことを考えているに違いない。これまで酒だの何だのでさんざん汚れた椅子だというのに。
 レオナードは一つ息を吐き、カウンター脇の棚から大きめのタオルを出してエンジュに放り投げた。
「座れよ。ココア入れてやる」
 エンジュは目を丸くして、受け取ったタオルとレオナードを見比べている。
「あ、ありがとうございます」
 あわてたようにカウンターの席に座り、タオルを頭からかぶった。

 レオナードがカップにココアを注ぎながら振り返ると、白いタオル地の下から赤い大きな目がこちらを見ていた。元々子供っぽい少女だが、その様子は普段よりもさらに幼い。
「この前はレモネードを作ってくださいましたよね」
 カップを受け取り、エンジュはにこにこしながら言った。
「あー。そうだったな」
 三日前、レオナードは店の前でエンジュにからんでいたチンピラを追い払ってやった。こんなところに不用意に来るからだとか馬鹿なガキだとか思いはしたものの、面倒だから放っておこうとはまるで思えなかった。さすがに青ざめていたエンジュを店に入れて、レモネードを作ってやった。
「あの時には怖い思いをしたし、今日はびしょぬれになりましたけど、結局は得してます」
「こんなもん一杯でかァ? 安いガキ」
「安くなんかないですよ」
 エンジュがむっとしたような顔で返し、続けて言った。
「だってこんなにおいしいんですから」
 そんな言葉に簡単に毒気を抜かれ、ああそォかよ、としか言えない。自分が彼女に甘いことは、とっくに自覚済みだ。
 エンジュがどう思っているかは知らないが、最初に会った時から自分は甘かった。見たこともないような、この街と違いすぎる空気をまとって彼女は現れた。レオナードを迎えに来たと言う。守護聖とやらの話をする。レオナードにこの星を、この宇宙を変える力があるのだと言う。
 追い出してもまた訪れる彼女の話を結局毎回聞いているのは、その誘いに惹かれているからだ。もしも彼女があきらめて来なくなったら、どれほど救いようのない虚ろが自分を襲うのか、そんなことはもうとっくに分かっている。
「この街で何かやり残したことってありますか?」
「行かねェって言ってんだろ」
 何度も断った。「行かない」と口に出すたびに、重い塊を飲み込むような気分になる。それはどんどんひどくなるようだった。この使者はそのことに気づいているだろうか。
「でも、この街から出られない理由があるのなら、それを……」
「ここで楽しく暮らしたいから。何度も言わせんじゃねェよ」
 エンジュはなおも何か言いかけたが、ふとカウンターの一角に目を留めて微笑んだ。
「あ、お花」
 嫌なモノ見つけやがって、とレオナードは内心ぼやいた。だからこのガキは苦手なんだ。
「かわいい花。この前はありませんでしたよね?」
「あァ」
「レオナードさんがつんだんですか?」
「俺のドコ見て言ってんだ」
 売り物の花には見えないから、そう言ったのかもしれないが。これ以上つつかれたくなかったので、レオナードは珍しくエトワールの仕事内容について尋ねてみた。もっとも、まったく興味がないわけでもなかった。
 エンジュは意外そうな顔をして、けれども楽しそうに自分の家でもあるという宇宙船の話を始めた。それに時々口を挟んで、笑わせたり軽く怒らせたりしながらその話を聞く。
 この小さな体に、エンジュは重すぎる使命と巨大な力を背負っている。彼女の行動一つで、この宇宙の行く末が決まるほどの力。すべてを変える力だ。こんなガキがなァ、と思いながらくるくるとよく変わる表情を眺めていると、その中にちらりと深い光陰が垣間見えて、レオナードはぎくりと息をのんだ。
(すべてを変える力、か)
 ふと、ついさっき「天使の家」の園長と交わした言葉を思い出した。

「だがな、レオ」
 あの時園長は笑ったまま言った。
「私はもう長くないよ。あの薬はたしかによく効くが、自分の体のことはよくわかる。お前には言いたくなかったんだがね……」
「ヘッ、自分の体のことはわかるってセリフくらいアテにならねェモンはねェな」
 レオナードは鼻で笑ってさえぎった。
「後で恥ずかしい思いするだけだから言わねェ方がイイぜ」
「私がいなくなっても、ここはどうにか維持できそうだ」
「聞けよ、オイ」
「レオナード」
 園長に目を見て静かに名を呼ばれると、もう何も言えなくなる。家族を失い、ここで暮らすようになってからずっとそうだった。
 孤児院と園長には昔から様々な噂があった。当時の有力者を口車に乗せてここを建てたとか、その後もめまぐるしく入れ替わる街の勢力に巧みに取り入ってここを維持しているとか。こんな街で孤児院を運営していくことがどれほど難しいか。ここに世話になっていた頃も、子供心にそれは感じていた。しかし、園長がその苦労を表に出したことはない。
「お前、最近何かあったんじゃないか?」
「平穏な毎日ってワケにはいかねェなァ」
「そういうことじゃない。これまでの生活が全て変わりかねないような何かだ」
 レオナードは床を見ていた目を上げた。
「あまり、迷うなよ。レオナード」
 園長の声はいつも優しい。子供の頃、叱られた時でさえ、その声の優しさは消えなかった。
「お前にはわかるはずだ。自分にとっての正しい道が」
 その言葉に答えず、レオナードはまた来るとだけ言って部屋を出た。そして庭で、あの花をもらった。

 この街で力を得ても、結局は何もできないのだということは身にしみて分かっている。聖地からの使者は、レオナードにしかできないことがあり、その力がこの星や宇宙すら変えると言った。
 そんなことを言う誰かが来るのを、ずっと待っていたと思う。それなのに、行くと言えない。
 レオナードの視界にまたあの花が入ってきた。店のよどんだ空気の中で、ただしおれるのを待つばかりのみすぼらしい花は、あの孤児院や、そこで暮らす誰かや、この街で自分に頼ってくる馬鹿どもや、自分を恐れて目をそらす人々を連想させた。
 この星の人々の目がうつろで、この街がいつも腐った臭気を放っている原因が、守護聖とやらがまだ揃っていないことにあるのなら、本当は一刻も早くここを出てその力を使えるようになった方がいい。自分にとっても、こんな花から連想されるようなものたちにとっても。そんなことはもうわかっている。
 それなのに、行くと言えない。
「雨、まだ降ってるのかな……」
 ココアを飲み終えたエンジュが、天井を見ながら少し困ったように言った。
「別に雨ン中追い出したりァしねェよ。もう一杯ナンか飲むか?」
 レオナードがそう聞くと、エンジュは驚いたように目をぱちぱちさせた。
「なんだか……今日のレオナードさん、優しいですね」
「俺はいつだって優しいぜェ」
 突然降ってきたという外の激しい雨は、きっともうやんでいるだろうと思った。
 けれどあと少し、彼女にここにいてほしかった。
 長い長い間、この街で自分の無力に病んでいた。自分の力でどうにもならないことが多すぎて、何かをしようという心までがすり減っていく。そのくせ、その思いはすべて消えてしまうことはなく、レオナードにつきまとっていた。
 力を持ちながらも無力で、自暴自棄になりきることもできなかった。こんな花を放り捨てることができないのは、この花のようなものにずっとすがって生きてきたからだと思う。一時自分の無力を忘れ、また思い出させる小さなものにすがりながら、みっともなく何かを待っていた。その何かは、今本当に目の前に現れて、けれど自分はすがっていた手を離すのをためらっている。
「その花、な」
「はい」
「もらったんだ」
「そうなんですか」
 エンジュは首を傾け、似合います、と言った。
「あぁ? 何が。何に」
「レオナードさんが、その花に」
 返ってきた答えに、ナンだそりゃ、と力なく笑う。その顔を見てどう思ったのか、エンジュは少し心配そうな表情になった。
「私、今日帰ってもまた来ますからね」
「ああ、来いよ」
 レオナードは、今までとは違う答えを何の気なしに返しながら、この件に決着がつく頃には、もうこの花はしおれているだろうかと思った。