裏通りの店



 セレスティア憩いの園の裏通りに、小さな店がある。女王補佐官レイチェルの、誰にも秘密のお気に入りの店だった。
 お気に入りと言ってもそうたびたび足を運んでいるわけではない。ただ、今日は行きたい気分だった。土の曜日の夕刻。宮殿にいる時の衣装からすっかり着替え、白いブラウスと黒いスカートの地味な姿で裏通りに入る。表でも裏でもセレスティアに危険な場所などないが、それでも表通りと裏通りとでは、少し喧噪の質が違うような気がした。
「いらっしゃい!」
 店に入ると威勢のいい声がかかった。がやがやした店内。客同士で大声で笑い合う声も聞こえる。食べ物も飲み物も安い。本当は酒を飲むのが目的の店で、食べ物は皆つまみのポジションなのだが、レイチェルの目的は食べ物の方だった。串に刺した、そうそう、ヤキトリ。これがとてもおいしい。
 カウンターに座り、店内のざわめきに負けない声で注文する。ビールと辛く炒めた野菜のお通しがすぐに来た。瓶で頼んだビールをグラスについで、お通しをつまみにとりあえず半杯。あーおいしい。店内は相変わらず騒がしく、なにやら楽しげな乾杯の音頭などが聞こえていた。
(アンジェと来れたらな〜)
 補佐官らしからぬ無謀なことを考える。宇宙が安定して元気になった女王陛下と、実は何度かお忍びでセレスティアに遊びに来たことはある。しかしさすがにここは無理だろう。
(おいしいのに……)
「いらっしゃい!」
 店はだんだんと混み始め、新しく入ってきた客がレイチェルの隣に座った。
(アリオスを護衛に……いや、そもそもアンジェはお酒なんて飲まないよね。あのコはワタシより年上だしここではお酒に年齢制限もないけど……)
 無駄だと分かっている想像をしながらグラスを空にした。すると、隣に座った男がビール瓶を取り上げ、グラスについだ。
 やけに自然な動作に、思わず礼を言いそうになる。一瞬間をおいてからはっとして振り向くと、そこにいたのはレイチェルのよく知っている人物だった。
「レッ……レオナード!?」
「やっぱりお前かよ。似たヤツがいるなァとは思ったんだが」
「なんでアナタがここにいるのよ!」
「こっちのセリフだろ? まさか補佐官様がこういう場所で酒を嗜まれるとはなァ」
 緑色の目が面白そうに光っている。店内で顔見知りに会う心配をしたことがなかった迂闊をレイチェルは悔やんだ。レオナードも当然、宮殿内で見る執務服とは違ったラフな服装だった。茶色いシャツに黒っぽいジーンズ。店に入って脱いだらしい、すり減った革のジャケットが椅子の背もたれにかけてある。こうして見るとただのガラの悪い男だとレイチェルは思った。どこをどう見ても守護聖様には見えない。
「お酒じゃなくて、ヤキトリが食べたかったの!」
 やけになったように言い返すと、レオナードは笑った。
「それにしちゃいい飲みっぷりだったぜェ。お前、一人で来たのかよ?」
「しょうがないでしょ」
「あのカタブツでも誘やいいじゃねェか」
「エルンストはこんな……」
 言いかけて、引っかけられたらしいことに気づく。カタブツと言っただけで即エルンストが出てくるのはなぜだとレオナードの目が笑いながら言っていた。いけないいけない、驚いたせいで調子を狂わされたようだ。
(……あ)
 しかし、レイチェルの頭に、それがきっかけで浮かんだことがあった。もしかすると、これはいい機会なのかもしれない。

「お前、けっこう飲むなァ」
「そう?」
 いつのまにか、テーブルの二人の間あたりの位置にヤキトリが陣取っている。飲んでいるのは変わらずビールだ。
「ちゃんと限界ワカってんだろうな? つぶれたら置いてくぜェ」
「冷たいなー。まあ目安程度には分かってるからつぶれることはないと思うよ」
「へェ。その年ですでに何度か酒でしくじった経験があるってコトか」
「残念、ありません」
 レイチェルはグラスに口をつけたままくすりと笑った。
「ただね、天才少女なんて言われて育つと、自分の弱点になり得る点はしっかり把握しておこうなんて考えるもんなの」
「はーん? つまりしっかり酒量を計測しながら自分の体で実験してみたと」
「ま、そんなトコ。お酒の種類や体調にも左右されるから大変だったけど」
 レオナードはあきれた顔でレイチェルをまじまじと見た。
「くっだらねェことやってんなァ……天才と馬鹿は紙一重っていうが、そりゃ馬鹿の方だぜお前」
「ねえ、レオナード」
 レイチェルは改まった声を出した。
「アナタ、エンジュとはどうなの?」
「あぁ?」
 レオナードが目を見開いた。突然の話題変更に驚いたという理由だけではないだろう、とレイチェルは思った。今宇宙に出ているエトワールが彼にとって特別だからだ。
「お前、酔ってんのかよ」
「うん、もうべろべろ。酒の席で酔っぱらい相手なんだから本当のこと言ってよね」
 どうやら酔っていないと判断したらしく、チッと舌打ちの音が聞こえた。
「何を疑ってんだか知らねェが……安心しろ。手なら出してねェよ」
「なんで?」
「は?」
「アナタ、エンジュのこと好きだよね。なんで何もしないの?」
 しばらく二人とも押し黙った。店のざわめきだけが耳に入る。先に口を開いたのはレオナードだった。
「守備範囲外だとかガキに手を出す趣味はねェとか言いたいことは色々あるけどよ……」
 テーブルに静かにグラスを置き、レオナードの声も変わった。
「お前、なんでけしかけようとしてんだ? アイツが聖地にいるのは一年間だけだぞ」
 そうとは限らない、とはもちろん言えない。まだ決まった話ではないのだ。けれど、エトワールとしてのエンジュの活躍と、それによる聖獣の宇宙の発展を考えれば、ほぼ確実と言っていいのではないかとレイチェルは考えていた。
 この宇宙の意志が、彼女を聖天使として認める。そうなれば彼女をエトワールの使命が終わった後も聖地にとどめることができる。そうなってほしいと思う。生まれて間もないこの宇宙に、彼女の存在がどれほど助けになることか。しかし、もしも宇宙の意志が認めたとしても、彼女自身がそれを望むかどうかはまた別の問題だ。
(もし、エンジュ本人にも聖地に残りたいと思う理由があったら)
 まったく、自分は考えていることは嫌になるほど薄汚い。こんな画策をするのは自分だけでいい。親友である女王にはもちろん言わない。誰にも言わない。
「けしかけようとなんてしてないよ。ただ、ちょっと意外だった。アナタってもっと強引で、俺の女になれとか言い出しちゃうタイプかと思ってたからさ」
「ソレをけしかけてるって言うんだよ」
 レオナードの声に、じわりと怒りがにじんだ。
「お前、前からそうだよな。俺にだけじゃねェ。やたらとエンジュと守護聖連中の仲を取り持ってやがる。一体どういうつもりだ?」
「取り持つってほどのことはしてないよ。でも仲良くなってほしいと思うのは当たり前でしょ。拝受されるサクリアの質量は守護聖がエンジュをどれだけ信頼してるか、想っているかに左右されるんだから。こればっかりは守護聖本人の意志ではどうにもならない無意識の……」
「これまでは俺もそう思ってた。だがな」
 怒りはもう低い声の表面にも表情にもはっきり現れていた。
「お前、さっき俺に言ったようなことを、他のヤツらにも言ってんのか?」
 背筋の上から下に、恐怖が走り抜けていった。怒っているレオナードを見たのは初めてだ。惑星ブラナガンの荒れた街で恐れられていたというレオナード。今のレオナードは、その時の彼よりももっと恐ろしいのではないかと思う。
 それなのに、その目をにらみ返すことができたのが不思議だった。きっと、ここにいるのが自分であって自分ではないからだ。聖獣の宇宙を支える女王補佐官。補佐官が恐れることは、もっと他のことだ。
「あんなことは、アナタにしか言ってない。これからも、他の人に言う気はないよ」
 きっぱりと言い切り、さらにまっすぐに睨みすえながら付け加えた。
「だけどワタシは、この宇宙の発展のためなら、どんなことでもするつもりだよ」
 テーブルの上にあるレオナードの拳に力がこめられたのがわかった。しかし、レオナードはかすかに口の端をゆがめて笑った。怒りのオーラがすうっと消え、もういつもと変わらない少し崩れた雰囲気に戻っていた。
「お前に何を言っても無駄だってことは、知ってたんだがなァ」
 また二人とも黙り込んだ。次に沈黙を破ったのは、レイチェルの方だった。
「エンジュは、アナタのことが好きだと思う」
「まだその話かよ。けしかけてるようにしか聞こえねェぞ」
「だから、そんなんじゃないってば。ワタシはただ補佐官として、守護聖とエトワールが変に思いつめて宇宙を巻き込む危険な事態が起こったりしないように、きちんと事実を把握しておきたいだけ」
「ジジツ、ね。ご安心ください、マジで何もねェよ」
「けどこれから先、エンジュがアナタに、好きですって言うかもしれない」
 レオナードが首を回してレイチェルに顔を向けた。また怒らせたか、と思ったが、その表情に怒りはない。レイチェルは戸惑った。一体何を考えているのか、その表情からまるで読み取ることができなかったからだ。
「……なあ、レイチェル」
「ん」
「お前、アイツが聖地に来る前……どんなふうに暮らしてたか、聞いたことあるか?」
「どんなって……あんまりそういう話はしたことはないけど……」
 エンジュが生まれ育ったのは、神鳥の宇宙の惑星タジス。実家は牧場。知識としてそれは知っているが、本人の口からそういう話を聞いたことはなかった。彼女と話すのはたいていこの宇宙のことと聖地のこと、たまに守護聖たちのことだ。
「自然の園に、野ばら牧場ってトコあるだろ。あそこに行くと、アイツは色々話すんだ。……アイツが話したがってるわけじゃなくて、俺が聞くから話すんだけどよ」
 レオナードの声はいつもと違って小さく、店内のざわめきのために時々聞き取りづらかった。
「親父が牧場主で、牛だの馬だのいて……あと農園もあるとか言ってたなァ。……親父や牧場に雇われてるヤツらがどんなシゴトしてて、アイツがそれをどう手伝うかとか、あの野ばら牧場とどこが似ててどう違うとかよォ……アイツ、意外と話すのうめェぜ。聞いてるだけで、アイツが育った牧場ってのが、目の前に見えるような気がするくらいだ」
 レイチェルは黙っていた。レオナードが何を言いたいのか、少し分かってしまったような気がした。
「……俺にも、昔は家族がいてよ」
 いらだったように歪んだ口から、言葉が続いた。
「両親と、弟妹が4人……俺がガキの頃に全員死んで、その頃のことはろくに思い出すこともなかったんだが……」
「…………」
「聖地に来て……まァこんなのんびりしたトコだからだろうなァ、たまに思い出すようになった。そろってメシ食ってた時のこととか、兄弟ゲンカして泣かせたこととか、それで叱られて今度は俺が泣いたとか、本読んでもらったとか、色々」
 レオナードはそれ以上言わず、つまらなそうな顔でグラスを傾けた。レイチェルもそこまで聞けば十分だった。
 エンジュから故郷や家族を奪うことは、レオナードにはできない。少なくとも、今は。
 レイチェルは自分が家族と別れを告げた日のことを思い出した。それは痛みを伴う記憶ではあったが、決してそれだけではなかった。大部分は笑顔で彩られていた。子供は、いつかは親元を巣立つ。どんな家族にも、いつかは避けられない別れがやってくる。そのことは以前から知っていたし、実際にその日が近づいてきた時にいっそう深く考えたことでもあった。
 けれどレオナードは、それを知る前に家族を奪われたのだ。巣立ちのことを考える前。家や家族というものが絶対で、自分がずっとその中にいるということに何の疑いも持っていなかった頃に。
 ふと、野ばら牧場で自分の家のことを話すエンジュと、それを聞いているレオナードが眼前に浮かんだような気がした。何に対してなのかわからないが、ひどく胸が痛んだ。レオナードにとってエンジュの家族は、記憶の中にある彼自身の家族と同じように絶対のものだろう。レオナードは、エンジュが故郷に帰ることを止めはしない。そしてきっと、彼女が何の曇りもない心で帰ることを望んでいる。もしかしたら、エンジュが聖天使になることに反対さえするかもしれない。エンジュを聖地から追い立てるようなことを言い出したら……それは困る……何かいい手は……。
「あーもう! やだやだやだ!」
 レイチェルは思わず大声をあげ、勝手に進んだ思考をそこでストップさせた。レオナードがぎょっとしたような顔でレイチェルを見る。
(汚い! 薄汚い! 別にいいけど、いいけど……今日はもう、なんか……)
 グラスに残ったビールを一気にあおった。
(もう考えたくない、こんなことは)
「おいおい」
 突然ペースを上げたレイチェルを、レオナードが軽く制した。
「さっきも言ったが、つぶれたら置いてくぜェ」
「ご心配なく。ワタシの体調と経験から計算すると、あとビールをグラス四杯で、今のワタシが望む酔い心地が得られるの。歯止めがきかなくなるにはそこからさらにビール瓶二本分! つぶれるまでにはさらに一本分! まだ全然ヘーキ!」
「にしちゃ目が座ってんだが……」
「アナタも飲みなさいよ! ワタシの酒が飲めないっての!?」
「うわ、お前そのセリフはやべェ!」

 結局その後、レイチェルはそれまでの話とは何の関係もない馬鹿話をしながらレオナードと酒を飲み、平気の宣言通りつぶれることなく自分の部屋に戻り、そして翌朝にひどい二日酔いで目を覚ました。
「……アタマ痛いー……」
 こんなのは自分の限界量を測った時以来だ。こうなることは分かっていたのに。分かっていても飲まなきゃやってられない時もあるのね、などと年齢と立場にそぐわぬことを考え、レイチェルは痛む頭を押さえながら苦笑した。
 ああ、でも、少し楽しかった。
「うう……痛い……」
 日の曜日でよかった、今日はもうずっと寝てしまえ。明日にはまたきっちり補佐官様に戻らないと。そんなことを考えながら、ごそごそと毛布をかぶり直した。