* *
「あ」
前髪に落ち、つうと滑ったものに気づき、エンジュは空を見上げた。
「雪ですよ、レオナード様!」
「おーおー、どォりで寒ィワケだ」
エンジュの弾んだ声とは対照的に、レオナードは嫌そうに言って顔をしかめた。
セレスティアは今、真冬だった。寒いのは苦手だとぶつぶつ言いながらも、レオナードはエンジュと自然の園で、彼曰く『俺様に似合わない』健康的な一日を過ごした。日が傾き、2人で自然の園を出て土の道を歩いていた、雪が降ってきたのはそんな時だった。
エンジュは足を止め、空を見上げた。ああやっぱり雪が降るのを見るのは好きだな、と思った。心がどこか切なく、ふわふわと浮き立つ。夕刻の薄暗い空からちらちらと降ってくる白いかけら。
(あ、そういえば)
あの時の雪が降ったのもこれくらいの時刻、こんな色の空だった、とエンジュはふと思い出した。
「なァに固まってんだよ。凍っちまったかァ?」
レオナードがコートごしの肘でエンジュの頭を軽くこづいた。エンジュはむっとふくれて身長差のあるレオナードを見上げたが、表情をゆるめてくすりと笑った。夕刻の雪は、ブラナガンに降った雪と同時に、あの日のレオナードも思い出させた。からかうように面白がっているようにエンジュを見下ろしている今のレオナードは、あの時のように怖くはない。
「レオナード様」
「ああ?」
「レオナード様と私が初めて会った日、雪が降ってたの知ってます?」
レオナードは少し意外そうに片眉を上げた。
「ブラナガンでか? 知らねェなァ。店ン中にいたら分かんねェよ」
「降ったんですよ。私がお店からつまみ出されたすぐ後に」
「つまみ……お前、意外と根に持つな」
苦笑したレオナードに、エンジュは違いますよ、と首を振って続けた。
「もしあの時、お店から投げ出されるのがもう少し遅かったら」
「投げちゃいねェだろ」
「もう少し遅かったら……あの時の雪もレオナード様と一緒に見れたのにな、って思ったんです」
短い沈黙の後、レオナードが口を開いた。
「見てたらどうなった? 俺は今も昔も、雪なんか好きじゃねェぜ」
「……えーと……うまく言えないんです、けど……」
あの街で見た雪は、エンジュも好きにはなれなかった。けれど今、同じような暗い空から降っているこの雪は好きだ。あの街で見た雪よりも、今まで見たどんな雪よりも好きだと思う。その理由は、きっと。
「もしもあの時、あの雪を一緒に見ることができたら……あの街のことも、レオナード様のことも、少しは違って見えたかもしれないって……そんな、ふうに……」
話しているうちに、よく分からない上に何か恥ずかしいことを言っているような気になってくる。あわてて何か言い足そうと考えたが、レオナードはそんな気持ちに気づいた様子もなく、エンジュをまじまじと見て「へーえ」と感心したように言った。
「それじゃひとつ、一緒にこの雪をジックリ見てくコトにするかァ。お前、俺の第一印象あんまり良くねェだろ? あン時の分までこの雪見て、ソイツを塗り替えとこうぜ」
面白そうに言うレオナードに、エンジュはなんとなく安心して言い返した。
「第一印象はもう変わりませんよ! あんまりどころか最悪だったんですから」
「ひっでェの」
「お互いさまじゃないですか? レオナード様だって、私の印象悪かったでしょう?」
「いーや、ゼンゼン。カワイイのが来たなァって思ってたぜェ」
ぬけぬけと言い放ち、レオナードはエンジュの頭に手を置いて髪をくしゃっとかき乱した。
「まァ今でも思ってるけどな、お前が執務室に来るたびに」
「わ、もう! やめてくださいよー!」
エンジュは自分の両手でレオナードの遠慮のない手をつかみ、頭から外そうとした。手が触れると、レオナードは「お」と声をあげた。
「お前、手冷てェなァ」
「え、そうですか?」
「冷てェよ。ナンだこりゃ」
そう言ってエンジュの手を包むように握る。一日同じ場所にいたのに、レオナードの手は不思議なほど温かかった。
「早ェトコどっか暖かいとこ入ろうぜ。憩いの園にでも行くか」
このままココにいても、もう印象変わらねェらしいしなと笑い、レオナードはエンジュの手を離して歩き出した。エンジュは離れたぬくもりを少し残念に思いながら、レオナードの隣を並んで歩いた。
(第一印象、なんて……)
そんなものを今さら変える必要なんてない。だって、今はもう……。
あの時には、思いもしなかった。本当に守護聖候補なのかと疑いすらした人と、休日にこんなふうに一緒にいるなんて。それが時間を忘れるほど楽しいなんて。使命によって出会えたことが、嬉しくて、切なくて、ほんの少しだけ悲しい。触れた手にまだ残るあたたかさが、胸をぎゅっとしめつける。
(レオナード様にとって私は、エトワールで、年下の子供で……)
それでも、こうやって一緒に過ごせるのが嬉しい。彼にとっては退屈な場所かもしれない聖地で過ごす、暇つぶしにでもなれればいい。そう思うのはエンジュの本心でもあり、同時に少し心の痛む思いでもあった。
道の前方に、憩いの園に建ち並ぶ店のあかりが見えてきた。
「オイ、なんか食いたいモンあるか?」
「え? えーとえーと」
突然話しかけられ、エンジュは急いで頭を切り換えた。
切ない思いもあるけれど、食欲もそれに負けずにある。
「あったかいもの……そうだ、ちょっとからいものが食べたいです。先月行ったあのお店、もう一回行きませんか」
「先月……水魚食房か? うまかったな。よォし、行くか」
「はい!」
降る雪は少し密度を増したようだった。足を速めながら空を見上げたレオナードの横顔を、エンジュはそっと見つめた。