なんて人なんだろう。
 薄暗い街の冷たい石畳の上で、エンジュは呆然と立ちすくんでいた。
 振り返れば、すぐ目の前に地下へと続く階段。エンジュをそこから追い出した人物の姿はもう見えない。今この階段をもう一度下りても無駄だろう。途方にくれたようなエンジュの心に、つい先程までの出来事が次々と浮かんできた。
 この宇宙の光の守護聖候補に会いに来たら、その人は地下クラブでバーテンダーをしていた。聖地から来たと言ったら大笑いされて、それから凄まれた。タンタンが説明してくれたけど、信じてくれたのかくれなかったのか、馬鹿にした態度のままだった。守護聖になんかならない、帰れと言われて居座ろうとしたら、かつぎあげられて追い出された。
 さっきまでは夢中だったけど、今になってみると怖くもなってくる。
『よォ、逃げんな!』
 唸るような低い声と同時につかまれた手首に、強い力の感触がまだ残っていた。
(あんな人が?)
 これまで、聖地で会った守護聖たちとはまるで違っていた。本当にあの人が、この宇宙の守護聖になるのだろうか。
「何をぼーっとしとるか。今日はもう帰るぞ」
 まだぬいぐるみの姿のままのタンタンが、エンジュの背中を前足でぺしぺし叩いた。
「追い出された上、寒くて物騒。長居する理由なんぞ一つもないじゃろ」
「あ、うん」
 寒いと言われて初めて、肌を刺す冷気を意識した。聖地とは時間の流れが違うこの街の、今の季節は冬。日が傾き、船を下りた時よりもさらに気温は下がっている。神器であるタンタンに寒そうな様子はないが、どうやら気温の低いことはわかるらしい。一つため息をつき、歩き出そうとしたエンジュの視界に、ちらりと白いものが入った。
「あ」
 空を見上げ、思わず声に出してつぶやく。
「雪……」
 雪が降るのを見るのは、子供の頃から好きだった。実家の牧場では雪のために大変な思いをしたこともあるが、それでも一面の雪が舞いおりてくる白い空や暗い空を見上げると、心がふわふわ浮き立ってくる。いつもならば、そうだった。
(雪……)
 けれどもこの日、惑星ブラナガンの暗い空から降る雪は、エンジュの心を浮かびあがらせてはくれなかった。それはこの星の沈んだ空気のせいなのか、それとも今の自分の心のせいなのか。
 エンジュは歩き出しながら、腕輪の形を取ろうとしている神器に話しかけた。
「ねえタンタン……本当に、本当の本当に、あの人が守護聖候補なの?」
「おう、残念ながらな。光のサクリアがバリバリじゃ」
 エンジュはもう一度ため息をついた。かじかんできた指先をぎゅっと握り、船までの道を急ぐ。雪は少し降る早さを増して、薄暗い街はよりいっそう暗く見えた。


*                        *


「あ」
 前髪に落ち、つうと滑ったものに気づき、エンジュは空を見上げた。
「雪ですよ、レオナード様!」
「おーおー、どォりで寒ィワケだ」
 エンジュの弾んだ声とは対照的に、レオナードは嫌そうに言って顔をしかめた。
 セレスティアは今、真冬だった。寒いのは苦手だとぶつぶつ言いながらも、レオナードはエンジュと自然の園で、彼曰く『俺様に似合わない』健康的な一日を過ごした。日が傾き、2人で自然の園を出て土の道を歩いていた、雪が降ってきたのはそんな時だった。
 エンジュは足を止め、空を見上げた。ああやっぱり雪が降るのを見るのは好きだな、と思った。心がどこか切なく、ふわふわと浮き立つ。夕刻の薄暗い空からちらちらと降ってくる白いかけら。
(あ、そういえば)
 あの時の雪が降ったのもこれくらいの時刻、こんな色の空だった、とエンジュはふと思い出した。
「なァに固まってんだよ。凍っちまったかァ?」
 レオナードがコートごしの肘でエンジュの頭を軽くこづいた。エンジュはむっとふくれて身長差のあるレオナードを見上げたが、表情をゆるめてくすりと笑った。夕刻の雪は、ブラナガンに降った雪と同時に、あの日のレオナードも思い出させた。からかうように面白がっているようにエンジュを見下ろしている今のレオナードは、あの時のように怖くはない。
「レオナード様」
「ああ?」
「レオナード様と私が初めて会った日、雪が降ってたの知ってます?」
 レオナードは少し意外そうに片眉を上げた。
「ブラナガンでか? 知らねェなァ。店ン中にいたら分かんねェよ」
「降ったんですよ。私がお店からつまみ出されたすぐ後に」
「つまみ……お前、意外と根に持つな」
 苦笑したレオナードに、エンジュは違いますよ、と首を振って続けた。
「もしあの時、お店から投げ出されるのがもう少し遅かったら」
「投げちゃいねェだろ」
「もう少し遅かったら……あの時の雪もレオナード様と一緒に見れたのにな、って思ったんです」
 短い沈黙の後、レオナードが口を開いた。
「見てたらどうなった? 俺は今も昔も、雪なんか好きじゃねェぜ」
「……えーと……うまく言えないんです、けど……」
 あの街で見た雪は、エンジュも好きにはなれなかった。けれど今、同じような暗い空から降っているこの雪は好きだ。あの街で見た雪よりも、今まで見たどんな雪よりも好きだと思う。その理由は、きっと。
「もしもあの時、あの雪を一緒に見ることができたら……あの街のことも、レオナード様のことも、少しは違って見えたかもしれないって……そんな、ふうに……」
 話しているうちに、よく分からない上に何か恥ずかしいことを言っているような気になってくる。あわてて何か言い足そうと考えたが、レオナードはそんな気持ちに気づいた様子もなく、エンジュをまじまじと見て「へーえ」と感心したように言った。
「それじゃひとつ、一緒にこの雪をジックリ見てくコトにするかァ。お前、俺の第一印象あんまり良くねェだろ? あン時の分までこの雪見て、ソイツを塗り替えとこうぜ」
 面白そうに言うレオナードに、エンジュはなんとなく安心して言い返した。
「第一印象はもう変わりませんよ! あんまりどころか最悪だったんですから」
「ひっでェの」
「お互いさまじゃないですか? レオナード様だって、私の印象悪かったでしょう?」
「いーや、ゼンゼン。カワイイのが来たなァって思ってたぜェ」
 ぬけぬけと言い放ち、レオナードはエンジュの頭に手を置いて髪をくしゃっとかき乱した。
「まァ今でも思ってるけどな、お前が執務室に来るたびに」
「わ、もう! やめてくださいよー!」
 エンジュは自分の両手でレオナードの遠慮のない手をつかみ、頭から外そうとした。手が触れると、レオナードは「お」と声をあげた。
「お前、手冷てェなァ」
「え、そうですか?」
「冷てェよ。ナンだこりゃ」
 そう言ってエンジュの手を包むように握る。一日同じ場所にいたのに、レオナードの手は不思議なほど温かかった。
「早ェトコどっか暖かいとこ入ろうぜ。憩いの園にでも行くか」
 このままココにいても、もう印象変わらねェらしいしなと笑い、レオナードはエンジュの手を離して歩き出した。エンジュは離れたぬくもりを少し残念に思いながら、レオナードの隣を並んで歩いた。
(第一印象、なんて……)
 そんなものを今さら変える必要なんてない。だって、今はもう……。
 あの時には、思いもしなかった。本当に守護聖候補なのかと疑いすらした人と、休日にこんなふうに一緒にいるなんて。それが時間を忘れるほど楽しいなんて。使命によって出会えたことが、嬉しくて、切なくて、ほんの少しだけ悲しい。触れた手にまだ残るあたたかさが、胸をぎゅっとしめつける。
(レオナード様にとって私は、エトワールで、年下の子供で……)
 それでも、こうやって一緒に過ごせるのが嬉しい。彼にとっては退屈な場所かもしれない聖地で過ごす、暇つぶしにでもなれればいい。そう思うのはエンジュの本心でもあり、同時に少し心の痛む思いでもあった。
 道の前方に、憩いの園に建ち並ぶ店のあかりが見えてきた。
「オイ、なんか食いたいモンあるか?」
「え? えーとえーと」
 突然話しかけられ、エンジュは急いで頭を切り換えた。
 切ない思いもあるけれど、食欲もそれに負けずにある。
「あったかいもの……そうだ、ちょっとからいものが食べたいです。先月行ったあのお店、もう一回行きませんか」
「先月……水魚食房か? うまかったな。よォし、行くか」
「はい!」
 降る雪は少し密度を増したようだった。足を速めながら空を見上げたレオナードの横顔を、エンジュはそっと見つめた。