名簿
終わった、と聞いた。
魔王バラモスを倒した喜びもつかの間、現れたという異世界の大魔王、ゾーマ。だがそのゾーマも、2人の勇者の手で滅ぼされた……。ルイーダの前に現れた男はそう語った。
「ゾーマが倒されるところを見たわけではない。じゃが大魔王が滅びんことには、あの世界に朝が来ることはないからのー…。オルテガもライオットも魔王の城を目指しておったし、きっと力を合わせて倒したのじゃろ」
「力を合わせて?」
ルイーダはちょっと目を瞬かせた。
「……力を合わせて、ねえ」
ライオットはともかくオルテガは、誰かと協力して敵を倒すような、そんな男ではなかったと思う。実は生きていた、という話にも驚かされたが、そんなに性格が変わっているとしたら、そっちの方が驚きだ。
「それで…、2人とも、もう戻ってくることはできないんですね?」
ルイーダの問いに、男は身を縮めるようにしてうなずいた。
男の名はギアガ。30年前、魔王バラモスがこの世界に送り込まれた時、彼の住むギアガの塔は地の底深く沈んだ。しかし大魔王が滅び、その力も消えた時、塔は中にいるギアガもろとも元の場所に浮かび上がった。
「すまん…。わしだけが戻ってきてしもうた…」
頭を下げるギアガに、ルイーダは首を振った。
「いいえ。知らせていただけて、よかったです」
息子が勇者として旅立ってからずっと、ルイーダが恐れ続けていた最悪の知らせは、息子の死の知らせだった。ギアガがもたらしたのは、死んだはずの夫が実は生きていて、夫も息子もおそらく元気で、大魔王を倒して、けれどももう会うことはできないという知らせだった。
最悪の知らせではなかった。どちらかといえば、いい知らせの方に入るかもしれない。バラモスを倒してからまた旅立った時、もう帰ることはできないだろうと言って息子はルイーダに頭を下げた。覚悟していたことではあったのだ。
(元気でいるっていうなら、それでいいわ…)
たとえもう二度と、会えないとしても。
魔王が滅びても、ルイーダの酒場は冒険者が出会う場所であり続ける。また冒険者の登録名簿が一冊埋まり、新しいものを用意しなければならなくなった。ついでに以前の名簿を整理していた時、ふとルイーダは一冊の名簿を目にとめた。
「あ、これ…」
棚からそれを取り出した。15年前の名簿だ。
ルイーダはなつかしくその表紙をなでた。開いて見るだけでも苦しかったページが、この名簿にはある。傷めないように気をつけながら、そっとそのページを開いた。
(おれがやります!)
あの時、王の間に響いた幼い声が、耳に蘇ってくる。
(父さんのかわりに! おれが魔王を倒します!)
オルテガが火口に落ち、命を落としたという知らせ。絶望と虚脱に沈んだあの空気を何とかしようとした、世間の厳しさを何も知らない子供のたわごとだった。彼はまだ5歳だった。けれども周囲は、子供のたわごとと受け取ってはくれなかった。その宣言を待っていたとでもいうように、その場で16歳での旅立ちが決まってしまったのだ。
(母さん、おれ、冒険者のとうろくする)
城から戻った時、未来の勇者はルイーダに言った。戦いに旅立つ者たちが、酒場で仲間を見つけるために登録しているのを、ライオットは見ていたのだった。しかし、登録にどんな意味があるかはわかっていない。こんな子供に魔王討伐の命令が下ったのだ。
(おれ、がんばるからね)
ルイーダの暗い表情を、オルテガの死の知らせのためだと思ったのだろう。ライオットはルイーダを励ますようにそう言った。ルイーダは何も言わずにライオットを抱きしめた。この子はまだ、父親の死の意味もよく分かっていないに違いない。あの場の人々の、母親の、悲しい顔を見て、なんとかしなければと思っただけなのだ。そんな幼い思いから出た言葉の重さが、これからこの子をどれほど苦しめるのだろうか。
名簿を目の前に広げてやると、ライオットは真剣な顔でペンを握った。
(なまえは……ライオット)
小さな手が、覚えたばかりの汚い字を名簿に書き込んでいく。
(しょくぎょうは、ゆうしゃ!)
15年前、元気よく宣言した声を思い出しながら、ルイーダはその文字を指で追った。
「……?」
ふと、なぞる指が止まる。職業欄をはみ出すように書かれた、幼い「ゆうしゃ」の文字の後ろに、薄くシミのような汚れがついていた。
「あったかしら、こんなの…」
なにしろ15年前の名簿だ。保存には気をつけなければと考えながらそのシミを見直して、ルイーダの口元に笑みが浮かんだ。よく見ると、薄いシミはまるで文字のような形だった。「ゆうしゃ」と書かれたライオットの筆跡と同じような、幼く汚い文字。
「ゆうしゃ…ロ…ト?」
続けて読んでみて、ルイーダはもう一度笑った。
そうだ。この汚い字の登録者は、世界を闇に包もうとしていた大魔王を倒してしまったほどの勇者なのだった。彼のことは、きっと伝説として語り継がれるのだろう。もはやただ「勇者」というだけではない、特別な称号が必要なのかもしれない。
「大切にしないとね。伝説の勇者様の直筆だもの」
ルイーダは楽しそうにつぶやき、古い名簿をていねいに棚にしまった。