名前



 音を立てて窓が揺れる。


「風が強いわね、今日は」
「ああ」
「リルムは外で遊んでるのかしら?」
「多分な」
「今頃飛ばされてるかもね」


「何か食べるか?」
「あら、気が利くようになったじゃないの」
「…………」
「今後もその調子で尽くすように」
「お前、本当に病人なんだろうな」
「うう、胸が苦しい」
「食うのか食わないのかどっちなんだ」

「食べるわよ。あ、あれが食べたいな」
「あれじゃ分からん」
「夫婦なのに?」
「関係ない」

「ほら、あのスープ。玉葱と人参が入ってて黄色い透明なスープ」
「ああ……あれか」


「ねえ! ちょっとー!」
「……何だ」
「病人に大声出させないでよ」
「何の用だ」
「そっちで何してるの?」
「作ってる」
「こっちで作ってよ。寂しいじゃないの」
「どうやってそっちで作るんだよ」
「野菜切るのくらいできるでしょ」


「ああ馬鹿馬鹿しい」
「ふふ。見てるのって楽しい」
「…………」
「もっと心を込めて作ってよ」
「味は同じだ」
「もうすぐ私、何も食べられなくなるんだからね」

「だから何だ」
「皮むきの手を止めもしないのね……あんたって人は」
「…………」
「私が死んだらこの村から出て行くつもりでしょ」
「ああ。そうするだろうな」
「冷たい」
「死んだらな」


「あの子はどうするの」
「この村にいた方がいいだろう」
「…………」
「もう話してあるんだろ」
「……あの子は何も知らないわ」
「リルムにじゃない」
「お父さんには話した。私が死んだら夫は悲しさに耐えかねて村を出るかもしれないって」
「おい」


「言ったっけ? お父さんと私って血のつながりはないのよ」
「いや、初めて聞いた」
「昔お父さんは、仲間と珍しいモンスターを探しに行ってね。その仲間っていうのが私の本当のお父さんだったの」
「…………」
「で、ターゲットのモンスターが凶暴だったので襲われて死んでしまったというわけよ」
「ふーん」
「責任を感じたお父さんは私を引き取って……ちょっと聞いてる?」
「聞いてる」

「人が真面目な話をしてるってのに」
「聞いてたよ」
「それでね……お父さんはああいう人だからあまり家にはいなかったんだけど」
「…………」
「でも、私はお父さんが好きだった」
「何が言いたいんだ」

「あの子もけっこうパパが好きよ」
「そうか?」
「ちなみにパパっていうのはあんたのことよ」
「……知ってるよ」


「そんなにこの村にいるのが嫌?」
「……これは言ってなかったんだが」
「うん」
「俺はお尋ね者なんだ」
「またまた」
「本当だよ」


「まあ、本当だとしてもそんなには驚かないけど」
「だろうな」
「傷だらけで村はずれに倒れてるなんて、あまり穏やかじゃないものね」
「…………」
「しかも純情な村娘をたらしこむ始末」
「誰のことを言ってるんだ」
「わかってるくせに」


「この村からそんなに離れてなかった」
「事件を起こした現場?」
「ああ」
「よく今までのうのうとここで暮らせたわね」
「まったくだ」

「怒ってる?」
「何を」
「怪我が治って村を出て行こうとしたあんたに、子供できたって嘘ついたこと」
「……そんなこともあったな」
「忘れてたの? まあその後本当にできたしね」

「どっちにしても、その程度で住みつく方がおかしかった」
「懐かしいな。あの頃の私は、1日でもあなたの出発を延ばそうと毎日策を練ってたっけ。愛してたから」
「…………」
「大丈夫。今も愛してるわ」
「そんなことは聞いてない」


「あの頃は仮病もよく使いました」
「……仮病だったのか」
「命の恩人が病気の時に出て行くようなことはないだろうと思って」
「よく倒れるなと思ってたが」
「あんたって優しいよね」
「おい」

「ちなみに今は本当に病気だから。信じて」
「信じられなくなってきた」
「この弱々しさを見てよ」
「仮病だな」


「罰かしらね。あんまり仮病使ったから」
「…………」
「神様がそんなに病気になりたいのかって」
「馬鹿馬鹿しい」


「話は戻るけど、5年も経てばほとぼりも冷めてるんじゃないの?」
「いや、今でもまだ相当まずい」
「そんな大犯罪? 何をやらかしたのよ」
「何でもいいだろ」

「そういえばあの頃、列車強盗団の残党狩りがこの村にも来てたけど……」
「ああ、それだ」
「それなんだ」
「やっぱり来てたんだな」


「ねえ。変なこと思い出した」
「ん?」
「残党狩りの人に、名前の入った人相書きを見せられたの。何枚もあった」
「…………」
「捕まった者も多いが、捕まってないのがこれだけいるって言ってた」
「あの時はそこそこ人数がいたからな」
「捕まえた人たちを取り調べて残党の人相書きを作ったらしいんだけど」
「…………」
「私も心当たりがあるし、この人相書きの中にあんたもいるかなと思って真剣に見たのよ」
「うん」

「あのさ、あんたの顔って地味よね」
「何をいきなり」
「特徴ないっていうか……似顔絵もあまりうまくなかったけど、どれも似てるような似てないような」
「…………」
「結局どれか分からなかった。というかあの中にあったのかどうかも分からなかった」


「私ね、村の人にはあんたのこと、お父さんのモンスター探索の仲間だって言ってたの」
「そうらしいな」
「お父さんもよく怪我してたからそれっぽかったし。お父さんの仲間ならよそ者でも見逃してくれるしね」
「どんなモンスターと闘って怪我したのか、よく聞かれたよ」
「でもあんたが特徴のある顔で、明らかにあの人相書きに似てたら危険だったと思う」
「そうだろうな」


「でも思い出したのはそのことじゃないのよ」
「じゃあ最初からそっちを話せ」
「ものには順序が……。さっきも言ったけど、人相書きには名前が入ってて」
「……ああ」
「でも、あんたの名前が入ってるのはなかったの」
「だろうな」

「どうして?」
「俺は、この村では本名を言ってない」


「私にも?」
「当たり前だろう」
「夫婦なのに?」
「関係ない」


「ひどい」
「…………」


「教えてよ。ほんとの名前」
「教えない」

「5年も一緒に暮らしてるのよ? 子供までいて」
「だから何だ」
「ひどいわ! あなたの子よ!」
「知ってる」
「ちょっと、何がおかしいのよ」
「笑ってるのはお前だろ」


「愛する夫の本当の名前も知らずに死んでいくなんて……」
「…………」
「どうしても教えてくれないの?」
「そんなに知りたいか?」
「知りたい」
「それじゃ、病気が治ったら教えてやる」


「意地悪」
「何が」
「治らないって知ってるくせに」
「なら教えられないな」


「野菜切れたの?」
「とっくに」
「じゃあスープ作ってきてよ」
「ああ」


「ねえ! ちょっとー!」
「……何だ」
「いいにおいがする!」
「大声出すな。できた」
「早く持ってきて」
「量は?」
「ちょっとでいい。ここで食べるから早く持ってきて」
「こぼすなよ」
「うるさい。病人をいたわる気持ちを忘れないでよね」


「おいしい」
「そうか」
「でも、きっともう二度と食べられないのね」
「お前な……」
「名前教えてくれたら治るかもしれないのに」


「本当か?」

「嘘よ」


「ほんとは名前なんか、別に知りたくないの。意味ないし」
「そうだな」
「そんな顔しないでよ」
「…………」
「おいしい」
「そうか」


「やっぱり、治ったら教えて」
「ああ、教える」
「約束よ」
「ああ」


「ただいまー!」

「おかえり」
「あ、いいにおいー! リルムも!」
「先に手を洗うのよ」
「はーい」