獣ヶ原の雨



 獣ヶ原の太陽は、他の場所の太陽とは別のものみたいだ。そういえば同じ花でも、獣ヶ原に咲いていると別の花に見える。空も風も、どこかが違う。
(ガウはここで育ったんだなあ)
 リルムはそんなことを考え、一度うーんと伸びをした。獣ヶ原に来るのは好きだ。いつも見ている景色と何もかもが違うこの場所は、いつも頭から離れないことも忘れさせてくれる気がした。
 迎えに来るはずのガウはまだ来ない。獣ヶ原のはずれにある大きな岩、待ち合わせは毎回ここだった。獣ヶ原のモンスターも、外のモンスターも、縄張りから外している場所なのだそうだ。もっとも、瓦礫の塔が崩壊して以来、モンスターもずいぶんとおとなしくなっている。ここでなくてもさほど危険はないだろうが、それでもなんとなく、この岩には安心感があった。
「リルムー!」
 大きなアダマンキャリーが現れた、と思ったら、その背中にガウが乗っていた。笑いながら手を振り、身軽に飛び降りる。
「久しぶりだな! 元気だったか?」
「うん。ガウも相変わらずだね」
 瓦礫の塔の闘いから2年。ガウとリルムはちょくちょく顔を合わせていた。今日は3ヶ月ぶりくらいになるだろう。2年前に比べると2人とも背が伸び、ガウは言葉遣いがだいぶ流暢になっていた。
「あれ? ストラゴスは来なかったのか?」
「そうなんだよ。つまづいて足くじいちゃってさー。年だね、やっぱり」
「へえ、大丈夫なのか?」
「平気平気。憎たらしいのは相変わらずだよ。じじいから伝言、『約束したのに行けなくてすまん』。というわけで今日はあたしだけ」
 抱え持ったスケッチブックを見せ、リルムは苦笑する。ガウは不思議そうな顔をした。
「けど、いつもはストラゴスの用で来てるんだろ」
「今日もじじいの用だよ。スケッチしてきてくれって頼まれちゃった。じじいはいないけどいつもと同じようにお願い」
「ああ、わかった」

 モンスターの謎を解明することを生き甲斐にしているストラゴスにとって、世界中のモンスターが集まる獣ヶ原は魅力的という言葉では言い表せないような場所だった。これまではモンスター密集地帯としての危険性、また広い中にモンスターの種類が多すぎてかえって目当てのモンスターに出会えないという理由からあまり行くことはなかったが、今はどちらの問題もなくなっている。この広い獣ヶ原に住み、モンスターと心を通わせるガウの存在があるからだ。
 瓦礫の塔が崩壊して以来、ストラゴスはリルムを連れて獣ヶ原をたびたび訪れた。ガウを通してモンスターに取材を敢行し、リルムにモンスターのスケッチを頼み、実に幸せそうな顔で生態を調査していた。
「じじいはほんと悔しがってたよ。今日来れなくてさ」
「治ったら来いって伝えてくれ。いつでもいい。おれもストラゴスに会いたいぞ」
「うん、ありがとう。ええと次は……」
 リルムがストラゴスに渡されたメモを開く。スケッチを頼まれたモンスターの一覧だった。
「キマイラとゴーキマイラ……の、足の裏、詳細スケッチ……?」
「わかった、頼んでみる」
「ごめんね。変なお願いで」
「はは、いつもだろ」
 依頼対象の居場所がもうわかるのか、ガウが笑いながら駈けだした。リルムはその後を追う。
(やっぱり大きくなった)
 走る背中を見ながら思う。元々リルムより背が高かったが、今のガウはもう「野生児」の「児」の部分が似合わない体格になりつつあった。
(ガウは……ずっと獣ヶ原にいるつもりなのかな)
 カイエンが、ドマで一緒に暮らそうとガウを誘っていることは知っていた。実際にガウは復興作業を手伝いに行き、しばらくドマに滞在したりもしている。
「その間に学校に通って勉強したんだ。面白かったぞ」
 以前、ガウは屈託なく笑いながらリルムにそんな話をしたことがあった。
「へええ。それであんた、前より人間らしくなったのかな」
「ああ、そうかもしれないな。きゅうくつな服にもコツがあるってわかって、前よりは着るのがつらくなくなった。獣ヶ原ではあんなの着ないけど」
「……ねえ、ガウ」
「ん?」
「どうして、獣ヶ原に帰ってきたの?」
 聞いてはいけないのかもしれない、とちらりと思ったが、リルムは頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「そのままドマにいてもよかったんでしょ?」
「カイエンは、そうしろって言ってくれた。でも……」
 言葉にするのが難しいらしく、ガウはしばらく考えこみ、
「……やっぱり、おれは獣ヶ原なんだ」
 答えになっているのかなっていないのかわからなかったが、なんとなく納得したような気分でリルムはうなずいた。
「そっか」
「うん。でもドマにはこれからもたくさん行くよ。もっと勉強もしたいんだ、おれ」
 そう言ってガウはまた笑った。
 リルムはその時、ファルコンの動力部でガウがセッツァーに色々と質問していたことを思い出した。意外にもセッツァーは面倒がらずに丁寧に説明してやっていて、ガウは「すごいな」と目を輝かせていた。
(あいつは見どころがあるぜ。勘もいいしな)
 見かけによらず親切だね、と後でからかったら、セッツァーは照れもせずにそう言ってたっけ。

 快く足の裏を写させてくれたキマイラとゴーキマイラに礼を言い、リルムはまたストラゴスからのメモを開いた。
「ええと、これが最後かな。モ……」
 声に出して読もうとして、リルムの表情がいっぺんに曇った。
「どうしたんだ?」
「モルボルグレートの……口内スケッチ……歯形、舌の付け根及び裏は特に重要……詳細に……」
「うわ」
 ガウは一瞬目を見開き、それから腹を抱えて笑いだした。
「ストラゴスも人使いが荒いな!」
「笑いごとじゃないよ! クッソジジイ……」
「どうするんだ? やるのか? くさい息は吐かないように頼めるけど、普通の息だって相当くさいぞ。変な言い方だけど」
 面白がっているらしいガウを横目でにらみ、リルムはため息をついた。
 獣ヶ原に行けずにしょんぼり落ちこんでいるストラゴスに、スケッチしてきてやるからまかせなよと胸を叩いて請け負ったのは自分だ。
「今回は色々と計画していたからのう……お前には難しいのもあるかもしれんゾイ」
 渡されたメモをきちんと確認せず、リルム様をバカにすんな、と拳を固めてウインクして見せたのも自分だ。
(今思うと、あの落ち込み方も演技だったような気が……)
 しかし、さすがにここは引き下がるわけにはいかない。
「……やる」
「おお」
「やるよ! 案内して!」

 モルボルグレートも、不躾な頼みを快く引き受けてくれた。ありがたかったが、ありがたくないのも本心だ。旅の供にしていた万能薬やイエローチェリーを念のためにガウに渡し、リルムは普段よりさらに大きく開けてくれたモルボルグレートの口をのぞきこんだ。
 鼻で息をするのをやめているのに恐ろしいにおいがして頭がくらくらし、これは本当に大丈夫なのかと心配になった。親切なモルボルグレートに失礼だと思いつつ、ついリルムの表情が歪んでしまう。しかしそれは最初だけだった。スケッチに没頭するうちに、不快感は次第にリルムの心から忘れ去られていった。かがみこんでくれているモルボルグレートの口の中に、しまいには頭をつっこむようにして観察し、スケッチブックに鉛筆を走らせる。
 ガウはすぐそばの地面にあぐらをかいて、そんなリルムの様子を感心したように見つめていた。
「ねえ、ガウ」
「え。あ……何だ?」
 突然話しかけられ、ガウは少し驚いたように答えた。
「くさい息って、この舌の裏のふくらんだところから出るの? 多分じじいはそれも知りたがってると思うんだけど……」
「ううん、おれは知らない。くさい息を吐いてくれるように頼むか? 万能薬もあるし」
 ガウは冗談のつもりだったが、リルムは考えこんだ。
「そう、だね……せっかくだし……」
「本気か? さっきはあんなに嫌がってたのに」
「今はそんなに嫌じゃないよ」
 さすがはストラゴスの孫だ、とガウは感心しながら、モルボルグレートに追加依頼を申し出た。
「……少ししか出さないようにするから息を止めていれば何ともないってさ」
 親切なモルボルグレートの気遣いに、リルムは感謝して頭を下げた。
「それじゃ、おれが合図する。リルムは息止めろよ。……3、2、1」
 しゅう、と目にしみるものがリルムの顔の前から後ろに通り過ぎた。
「リルム、平気か?」
「…………」
 リルムは息を止めたまま口の中から顔を出し、ぷは、と空にむかって深呼吸した。
「うん、平気。やっぱり舌の裏から出てた」
 すぐさま、スケッチブックにその瞬間の器官の動きを描きだしていく。
「本当にありがとう」
 笑顔で礼を言ったリルムに軽く会釈し、モルボルグレートはゆっくり歩み去っていった。

「うっわあ。ぐしょぐしょ」
 さっきまで平然としていたリルムが、我に返って自分の服の惨状に悲鳴をあげた。
「そりゃそうだ。口の中に入ってたもんな」
「ううう。やっぱりにおいもすごいよこれ……」
(さっきはもっとすごいにおいを全然気にしてなかったくせに)
 変なやつだ、こいつ。ガウは不思議に思ったが、リルムは半泣きになっていた。
「着替えは持ってきたけど、体にしみてる……ねえガウ、ここらへんに体洗えるとこある?」
「すぐそこに水がわいてるぞ。こっちだ」
 案内された場所は木々に囲まれたきれいな泉で、リルムはほっと息をついた。
「悪いけど見張っててね、ガウ」
「え?」
 ガウが目を丸くした。その意味をしばらく考え、リルムは真っ赤になった。
「違うよ! モンスターが近づかないように外を見張っててって意味!」
「ああ。……びっくりした」
「こっちがびっくりするよ!」
 言いながら、リルムはおかしくなってくすくす笑った。

 木々のざわめく音が心地いい。肌に触れる水も美しく、柔らかい。
(いいとこだなあ)
 体を洗うという目的を忘れ、リルムはすっかりくつろいでいた。
「おい、リルム」
「う、わっ」
 突然のガウの呼びかけに慌てる。
「ごめん、もうちょっと待って! すぐだから」
「一雨きそうだ」
「え……」
 見上げた空はただ青い。
「多分すぐ来るぞ。早く出て雨宿りしないと、着替えの方もぬれてしまう」
「あ、うん」
 空は青いが、ガウが言うのなら多分間違いはないのだろう。リルムは急いで水から上がり、持ってきた衣服に袖を通した。

 15分もしないうちに激しい雨が降りだした。
「まあ、すぐやむさ」
 洞窟で外を見ながら、ガウはのんびりと言った。
 リルムも外の景色をじっと見ていた。
「獣ヶ原の雨って、いつもこんなにすごいの?」
「これくらいなら珍しくないぞ」
「こんなの、初めて見た……」
「そうか?」
 ガウは視線を獣ヶ原からリルムに移した。リルムはまだ、雨に叩かれる獣ヶ原から目が離せないでいる。
「リルム、描かないのか?」
「え……」
 かけられた言葉に驚いて、リルムは振り返った。
「みんなでファルコンにいた頃も、リルムは時々『こんなの初めて見た』って言った。そんな時は、いつも紙を広げてそれを描いてたぞ」
「…………」
「今は、ストラゴスに頼まれた時しか描かないのか?」
「そんなことは……ないけど……」
 それ以上言葉を続けることができず、リルムは唇をかんでうつむいた。
「おれは、お前はもしかしたら絵を描くのがそんなに好きじゃなくなったのかと思ってた。でも今日、くさいのも忘れて絵を描いてたから、やっぱり違うと思った。だからわからなくなったんだ。なんでお前がここに来ても、いつもストラゴスに頼まれた絵しか描かないのか」
 顔を上げると、ガウの目がリルムを見ていた。ガウの目は優しい。昔から、まだ自分の絵に魔法が宿っていた時から、そう思っていた。なぜあの頃、もっと描いておかなかったのか。魔法を自分の力だと思いこみ、いつでも描けると信じていた。ガウの優しい目も、多分今はもう描けない。
 きゅっと胸にせり上がってくるものを感じた。泣いてしまうかもしれない。
「リルム?」
「……あのね。あたし……絵が描けなくなったんだ」
 ガウがきょとんとした顔をした。
「じゃあさっき描いてたのは何なんだ?」
「ああいうのは描けるんだけど。なんていうか……」
 人の心を動かす力が、自分の絵から消えてしまった。瓦礫の塔が崩れ、世界から幻獣がいなくなったあの日から。
 描いてみて、愕然とした。これが、自分の絵なのか。こんなにからっぽの、ただ紙に描かれた線の集まり。これが、自分の絵なのか。自分の力だと信じていたものは、自分の力ではなかった。一番のよりどころにしていたものが、手の中から溶けて流れ去っていた。
「世界から魔法がなくなって、その後で描いてみたら……あたしの絵、は、あんな……」
 あたしの絵、と言ったところで涙があふれた。ああ、やっぱり泣いてしまった。自分の嗚咽を聞きながら、リルムはどこか他人事のように思った。思い出すたびに泣いているような気がする。自分の描く絵が自分の絵ではなくなっていることに気づいたあの瞬間。あたしの絵。本当はあたしの絵ではなかった。最初は信じられなくて、ただ呆然として、涙も出なかった。何度も描いて、けれどもそんな絵は見るのも嫌で、もうやめたと投げ出した。それでも時々もしかしたらと描いてみて、そのたびに絶望した。これが現実なのだとだんだんと身にしみて、涙が出るようになった。魔法が消えた後初めて絵を描いた時の、心が凍るような思い。かつて描いていた自分の絵は、こんなものではなかった。何度も脳裏に蘇らせては泣いた。あたしの絵。二度と戻ってこない、あたしの絵。
「リルム」
 ガウの声がした。一緒にファルコンにいた頃より、彼の声は低くなった。泣きだされて、困っているだろうかと思った時、温かい手がそっとリルムの頭をなでた。リルムは一瞬呆けたようになって、その後さらに激しく泣いた。

 泣き疲れて、ため息をついた。
「ごめ、ん」
 いつのまにかすがりついていた体を起こし、リルムは恥ずかしそうに笑った。
「謝ることなんかない。悲しい時はたくさん泣くんだ」
 ガウはいつもと同じようににこにこ笑っている。
 そういえば、絵のことを思い出すといつも泣いてたけど、人前でこんなに泣いたのは初めてかも、とリルムはもう一度ため息をついた。
「雨ももうあがってるぞ」
 ガウの声に洞窟の外を振り返り、リルムの目は釘付けになった。
 雨のことなど忘れ去ったような青い空。けれども緑色の地面はしっとりと濡れ、渡る風にぱらぱらと水滴が飛ぶ。
「……きれい」
「うん、おれも雨の後の獣ヶ原はすごく好きだ」
 リルムはじっとその景色を見つめた。胸の底の方から、何かがわきあがってくる。その気持ちの正体は知っていたが、いつものようにあまり考えずに無視しようとした。
「リルム」
 ガウが、楽しそうな声で言った。
「描かないのか?」
 リルムは驚いてガウを見た。ガウは笑っている。
(これはあたし、怒るところかな)
 泣きすぎたせいでまだはっきりしない頭で、リルムはそんなことを考えた。しかし、怒りなどちっともわいてこなかった。
「魔法がなくたって、リルムの絵はいい絵だ」
 当たり前のことのようにガウが言う。
「見たことないくせに」
「あるよ。ゴーキマイラの足の裏も、モルボルグレートの口の中も、やっぱりリルムの絵だ。すごくいい絵だ」
「かえって落ちこむよ、そんなの」
 リルムはそう言いながらけらけら笑った。そしてスケッチブックの、白いページを開いた。
 描いてみよう、と思った。洞窟の中から見た、雨上がりの獣ヶ原。鉛筆をどんどん動かした。紙の上に獣ヶ原が写されていく。別にへたなわけではない。けれど、やはりからっぽだと思う。
 ただ、いつもと違っていたのは、そのことがさほど悲しくないということだった。こんなものが自分の絵かと破り捨てる気にもならない。この景色はきれいだし、今は写せればそれでいい。
(でも、いつか)
 心にわいた初めての気持ちに、自分自身で驚いた。
「ねえ、ガウ」
「なんだ?」
「サマサに時々、ジドールのアウザーさんから使いが来るの。ラクシュミの絵を仕上げてくれって」
「へえ」
 リルムはいつも、理由も言わずにその依頼を引き延ばしていた。そして使いが帰るたびに泣いていた。あの時に最後まで描き上げていれば、という後悔に押しつぶされそうだった。自分の力を過信していたせいで、あの絵は永遠に仕上がることはない。約束したのに。
「今はまだ描けないって、今度アウザーさんにちゃんと話そうと思う。それで、いつかきっと仕上げに行くって、もう一回約束するんだ」
「そうか。それはいいな」
 ガウは嬉しそうに言った。
「今日はありがとう、ガウ。また、来るね」
「ああ、いつでも来い」
 洞窟の外でまた風が吹き、雨の滴がきらきらと舞った。リルムの目がとらえたその瞬間は、スケッチブックのからっぽの絵に、かすかな彩りを添えた。