ここは薬の国。大多数の国民の三度の食事は粉薬と錠剤です。食前と食後にも薬を飲みます。その繰り返しで平均寿命三百歳を誇ります。
 けれど薬は高い。良い薬はさらに高い。貧乏人は飯を食え、という言葉もある通り、薬を買う金のない者は、なるべく体にいい材料で料理をし、それで腹を満たします。
 僕が生まれ育った家もあまり余裕がなかったので、食前食後の薬は飲んでいたものの、食事はたびたび飯になりました。母は料理上手だったので、幼い頃の僕は味のない薬よりも飯を歓迎する子供でした。
「飯食いたい。明日は飯にしてよ」
 薬を腹に流し込みながらそう言うと、母は少し嬉しそうな、でも困ったような顔をしたものでした。薬などほとんど買えない家庭で生まれ育った母。薬には及ばなくても体にいいものを、といつも努力していた母。おいしかった食事。忘れられない味がいくつもあります。
 その母は、125歳の若さでこの世を去りました。どれほど努力しても、飯は薬に及ばない。悲しい現実です。葬式の最中、僕は飯の味を一つ一つ思い出し、心の中でごちそうさまと何度もつぶやきました。
 母にはいくつか料理を教わりました。お金がある時には薬を買うのよと何度も念を押されていたけど、僕はその日、薬が買えたのに料理をして飯を食い、うまいなあと思いました。
 きっと僕は、いつでも薬が買えるようになっても、時にはこうして飯を食うでしょう。だから僕も、平均寿命までは生きられないと思います。このようなわけで、貧乏な家に生まれると、なかなか短命からは抜け出せないのです。

 ここは薬の国。ここの薬には一つの傾向があります。良い薬ほどまずい。どれほど研究をしても、それだけはどうにもならないのだそうです。
 僕が普段買っている安い薬などは何の味もしませんが、以前に僕も一度だけ、高価な薬を口にしたことがあります。
 昔通っていた学校の同級生に、貴族の子供がいました。普通貴族はそんなところに通ったりはしませんが、父上の教育方針だと彼は笑っていたものでした。
 ある日の昼食の時間、僕が飯の弁当を広げると、彼は不思議そうな顔でそれをじっと見ました。僕が「何?」と聞くと、彼は少しきまりわるそうにしました。
「僕はそういうものを食べたことがないんだ」
「へえ……」
 別に驚きませんでした。貴族なら当然のことです。貴族でなくても、一生飯を食わない人は珍しくありません。
「食べたいんだったら少しあげようか? 薬よりは体によくないだろうけど」
 僕がそう言うと、彼は目を輝かせました。
「いいのかい? あ、それじゃ僕の昼食の薬と交換しよう」
 そして彼は初めての飯にうまいと驚きの声をあげ、僕は初めての高価な薬の苦まずさに声も出ませんでした。
「高い薬はまずいとは聞いてたけど、これはすごいなあ」
 ようやく口の中が落ち着いてそう言った僕に、彼はうなずきました。
「うん、たしかにその薬はまずい。でも王族が飲んでいる薬ほどじゃないよ」
「そうなの?」
「前に皇太子殿下と薬の交換をしたことがある。あの薬、忘れられないな。口に入れた瞬間、気絶するかと思ったものさ」
 僕は目を上げ、窓の外、彼方にかすんで見える王城を仰ぎました。今の国王陛下が742歳だということを思いだし、遠い何かを感じたのでした。
 もっとも黄金に近いと言われた錬金術師クルギ。彼の研究所には弟子入り志願が絶えることがなかったという。クルギは常にあっさりとそれを受け入れたが、彼は弟子が錬金術の本道から外れることを許さず、少しでもその兆候が見られればすぐに破門していたため、長期間研究所に在籍できた者はごくわずかだった。

「破門です」
「そんな! なぜですか、先生!」
「今の君が行っているのは錬金術の研究ではない」
「いえ、錬金術です! 金属を製錬する研究なのだから錬金術と呼んでもいいはずだ! 見てください、この刃を。これほどの切れ味の刃物はこれまで作れなかった。研究の成果でここまでできたんです!」
「君が何と言おうと、それは錬金術ではない。錬金術の金は金属ではなく黄金の金なのだから。今すぐここを出て行きなさい」
「先生! この技術はたくさんの人達が認めてくれたんですよ!」
「それも関係ない。錬金術の研究とは別のところで君が発見した技術です。これからはその道で生きていくといい。今後一切、ここへの出入りを禁じます」
「先生ー!」
 他の物質から黄金を作り出す方法は誰も知らない。様々な分野で試行錯誤する錬金術師たちが、その過程で見つけたものに黄金以上の輝きを感じることもしばしばだった。しかし錬金術師クルギは、それに惹かれることを許さなかった。
「破門です」
「そんな、先生!」
「それは錬金術の研究ではない」
「錬金術ですとも! 明日から連休という金曜夜の幸せな感覚を人工的に作り出す薬物の研究! これが錬金術でなくて何だというのですか!」
「君が何と言おうとそれは錬金術ではない」
「先生!」
「字も違う」
「先生ー!」
 錬金術師クルギ。彼は黄金を。
「破門です」
「そんな、先生! 私、たくさん練習して金メダルを」
「それは錬金術の研究ではない」
「先生ー!」
 ただ、黄金だけを。
「破門です」
「先生!」
「破門です」
「破門です」
「破門です」

 錬金術師クルギは、生涯黄金を作り出すことはできなかった。彼が破門した弟子たちの中には、それぞれの分野で偉大な功績を残した者も数多い。
 かつての師がこの世を去った時、彼らは忙しい中駆けつけて一堂に会した。そして「先生は認めてくれなかったが自分は今でも錬金術師だ」と口々に言い合い、それぞれの錬金術の成果を亡き師に語りかけながら泣いた。
 私の勤め先の会社は、主に「他のものに偽装した武器」の開発・販売を行っています。例を挙げれば、傘型マシンガン、携帯電話型吹き矢、メガネブーメラン等。
 私は開発部の所属で、主に試作品をテストして、改善すべき点などを挙げる仕事をしています。扱う製品が製品なので、嫁入り前の体に生傷が絶えない毎日です。

 朝。定時に出社して、まずは机の上に新たに積まれている資料をチェックします。
 たいていはできあがった試作品のマニュアルです。この会社はとりあえず試作品を作ってテスト、いけそうなら本開発という流れが多いため、試作品はかなり数多く、毎日のように新しい物ができています。そして当然のことなのかもしれませんが、そのような試作品は怪しげで使いにくく、使用者にも危険が及ぶ物が大部分です。今回もどうやらその類の気配がしました。一番上にあった資料の表紙の「スナック菓子の空き袋型催涙ガス噴射装置」という一行に、軽くため息が出ます。
 しばらく資料を読み込んで、使いどころや使う瞬間の無駄のない動作などを頭の中で組み立てたりしてから、実験場に向かいます。実験場は会社と同じ敷地内ですが、少し離れた場所の地下にあります。
 中に入るとマンションの廊下風にいくつかの扉があり、そのうち一つの扉を開けると、やはりマンションの一室風の、一見何の変哲もない部屋があります。しかし雑然と置いてある家具のほとんどは試作品、つまり武器です。偽装武器系の製品は、生活空間に紛れこませる使用方法が多いため、実験場もこのような部屋に作られています。

 さて、テストです。偽装武器製品は相手への不意打ちに使う場合がほとんどですが、その状況は様々です。この実験場では多くの状況を再現し、その状況での製品テストができます。状況を選ぶこともできますが、今日は特に選ばず、ランダムのボタンを押します。
 とたんに、床や壁から十数体の人形がせり出してきます。手には銃。どうやら多勢に無勢、絶体絶命という状況のようです。
「フフフ、お前もとうとう年貢の納め時だな」
「ワハハハハ」
 必要なのかよく分からない小芝居の音声が流れます。私は手を上げて降参のポーズを取りながら、足下に落ちていた新しい試作品、さっき資料で見たスナック菓子の空き袋型催涙ガス噴射装置のスイッチ部分を踏みつけます。次の瞬間ガスが噴射され、バリエーション豊富なリアクション音声が驚きの声をあげます。
「おっぷ」
「何だこれは!?」
 スナック菓子の空き袋型催涙ガス噴射装置。これは意外といけるかもしれません。空き袋の口からガスが噴射されるのですが、口の方向を前もって自分で変えられるし、そのまま固定することもできます。自分も催涙ガスの被害に遭わないように、一定以下の濃度では催涙効果が全くないガスを採用しているということですが、これは賛否あるところでしょう。
 敵がひるんだ隙に横っ飛びでその場を逃れ、戸棚の化粧水とクリームを取ります。クリームのふたを開けて化粧水を数滴注ぐと2秒で爆発。クリーム型爆弾です。注ぎ、投げつけ、伏せる。爆発音。敵は2体ほど壊れたようです。
 クリーム型爆弾。化粧水の量で爆発の規模が調整できる等、見るべき点も多い試作品です。混ぜる手間が必要なので、本来はこのような状況で使うことは命取りになりかねませんが、それは状況に応じて使えば問題ないと思われます。ただ、このクリーム型爆弾は、「本物の化粧品と間違えて顔に塗ると爆発してしまう」という点が社の方針に合わず、試作の前段階でも問題になっていたので、製品化は難しいかもしれません。化粧水の後にクリームを塗ると、やはり2秒後に爆発が起きるのだそうです。
「逃がすな、撃て撃て」
 人形たちが私に向けて発砲します。私はその場にあったアイロン台型盾で身を守りながら、アイロンの隠しスイッチを押します。アイロンの先から剣が出てきて、アイロンソードとアイロン台型盾のセットになります。
 ただ、このアイロンソードは正直なところ使い勝手がよくありません。構造上、アイロンの握りをつかんで剣を振ることになるからです。重さも力の伝わり方も、剣としては最悪の部類ではないでしょうか。
 しかしアイロン台の方は素晴らしい。アイロンとアイロン台を武器にするという発想は、おそらく剣と盾に似ていることからの連想かと思いますが、このアイロン台型盾は強度・重さともに優れている上、衝撃を受けるとふちから刃物が出る仕様です。盾ですが武器としても使えるわけです。
 アイロンソードが使いにくいので、左手にアイロン台型盾を持ち、右手は別の物を持つ形になりがちです。今日はメジャー型鞭を持ち、振り回します。刃がついた鞭なので殺傷力は抜群。3メートルまで伸ばせますが、もっと短く使うことも可能です。使い勝手はなかなかいい武器です。
 しかし、まだ3回しか使っていないのに刃こぼれがひどい。この手の商品は不意打ちに使うことが多い特性上、あまり耐久性は求められませんが、それにも限度があるというものです。これでは高い評価はつけられません。
 襲い来る敵の弾丸を避けてソファ型火炎放射器の後ろに隠れ、ソファの裏側にある放射装置を起動させようとしていた時、ふとすぐそばに落ちている物に気づきました。
 針山クッション型毒針飛ばし装置。クッションを指で押すと毒針が飛び出す装置です。何度かテストをして、そのたび低い評価になっています。押す位置によって針の飛び出す向きが変わるのですが、その位置設定があまりにシビアすぎるのです。少しでも押す位置がずれると、あらぬ方向に針が飛び出します。落ち着いてゆっくり押しても正確に飛ばすことは難しい厳しさです。ましてやこのような敵に囲まれた状況で目標に当てることは不可能に近いと思えます。
 少しは改善されたかもしれないと考えながらクッションを押すと、毒針が私の顔に向かってまっすぐ飛び出しました。あわててよけたところに敵の銃の弾丸。ペイント弾で私の頭が赤く染まってゲームオーバーです。やはりこの針山クッションの製品化は、現状では無理だと評価せざるをえません。

 長い時間実験場で過ごした後、私はデスクに戻り、実験場で書いたメモを元にレポートを作ります。
 一番気になるのはアイロンとアイロン台です。もう一工夫でいい製品になると思います。この分野の製品では、盾がついているのはかなりポイントが高いのです。以前販売されたペンタブレット型レーザー銃とスキャナ型盾セットも、予想に反してかなりの売れ行きだったと聞きます。
 アイロンソードが使えれば、製品化できるはずです。しかし、こう改善すればよいのではないかという提案がなかなか思いつきません。悔しい思いにかられます。私は武器の扱いに熟達しているということでこの仕事を担当していますが、こういう発想力がないのではあまり意味がないのではないか、という気もします。考え込んでいる私のデスクに、同僚が不機嫌な顔でやってきました。
 この同僚は、先ほどの実験場で私を悩ませた針山クッション型毒針飛ばし装置の発案者であり、試作の責任者でもあります。私がテストで高い評価を出さないことが不満らしく、この件ではこれまでも何度か口論に近い話し合いをしています。私はあの試作品を「目標に正確に針が飛ばせない」と評価していますが、「それはあなたの技術不足のせいだろう」というのが彼の言い分なのでした。
 このあたりはいつも製品開発でもめる原因の一つです。他の会社の製品開発ならば、きっとどんなお客様でも使えるような簡単な操作方法を追求するのでしょう。しかしここの会社は違います。お客様は武器の扱いに熟達した方が多く、そして誰でも簡単に扱えるような製品は敬遠されます。何かのはずみで敵の手に渡った時、簡単に使えてしまうようでは困るというわけです。操作がシビアで、慣れている自分だけが使える、お客様はそういう製品を求めておられます。
 しかしもちろん、操作が難しすぎて誰も使えなければ問題外です。私は針山クッションはそれに当たると思うのですが、彼はそれを否定し、これこそお客の求めるシビアな操作にぴったりである、武器扱いの未熟さを製品に責任転嫁するとは何事かと主張するのでした。
 テストをしているのは私だけではなく、そして他の人がテストしても同じような評価が出ているのだと、私は前にも言ったことを繰り返します。話しているうちに二人ともだんだんと声が大きくなり、彼は癖なのか自分のスーツのボタンをいじり始めました。私があわててそれを指摘すると、彼もはっとしたように手を離します。
 彼のスーツのボタンはボタン型毒針飛ばし装置です。数年前にこの会社から発売され、かなりのヒットを記録しました。彼はこれを買い、この製品に魅せられて入社したと聞いています。彼の針飛ばし装置へのこだわりは、その頃からのものです。いずれは彼の手からいい製品が生まれるような気もします。

 なんだかんだと時間を食い、夜遅くにへとへとになって帰宅します。
 試作品を社外に持ち出す事は禁じられているし、自社製品を買ったこともないので、私の家に特殊な家具は何もありません。
 私は何の機能もない椅子に座り、どこに触れても変形しないテーブルに肘をついて食事をします。水とお湯しか出ないシャワーヘッドの下で体を洗いながら、今日新しくできた傷を数えます。テレビの機能しかないテレビを見て、パソコンの機能しかないパソコンでインターネットなどをします。なんだか物足りない気持ちになり、何もしない家具というのはまるで死んでいるみたいだなどと考えたりします。私はあの実験場に慣れすぎたのかもしれません。
 今日も疲れました。レポートもなかなか追いつかないので、明日も実験場に行かなければなりません。疲れを残せば大怪我の元だし、早く寝なければ。磨く機能しかない歯ブラシで歯を磨きながらそう考えます。
 何もしないベッドに飛び込むと、たちまち眠くなってきます。ああ、やっぱり眠るのはベッド専門のベッドが一番だと思いながら、私は眠りに落ちていきます。
 それは、世の中に異様なチームワークがはびこっていたというある時代の話さ。

「警部。本当に怪盗パスキャッチは現れるんでしょうか」
「来る。奴が予告状通りに現れなかったことは一度もないのだからな」
「しかし、いくら奴でもこの厳重な警備の中を……」
「現れたぞー!」
「怪盗パスキャッチだー!」
「フフフ、予告通りクレオパトラの水瓶をいただきに参上したよ」
「馬鹿め、今日がお前の命日だ。逮捕しろ!」
 駆けよろうとする警官たち
 にやりと笑って銃を取り出す怪盗
 一瞬ひるむ警官たち
 かまわず発砲する怪盗
「あっ!」
 警官たちをかすめ、水瓶を載せている台座に命中する弾丸
 台座が傾き、宙に浮く水瓶
「クレオパトラの水瓶が!」
「あぶなーい!」
 飛びつき、床に落ちる寸前で水瓶を受け止める警官
 しかし重さによろけて水瓶を落としそうになる
「あ、ああ……はいっ」
 とっさに近くの警官にパス
「お、お……はいっ」
 受け取った警官も同じくよろけ、別の警官にパス
「はいっ」
 同じくよろけて別の警官にパス
「はい」
 よろけてパス
「はい」
 よろけてパス
「ありがとう」
 涼しい顔で水瓶を受け取る怪盗
「あ!」
「あーっ!」
 我に返る警官たち
「フフフ、たしかに受け取ったよ」
 水瓶をかかえて窓から飛び降りる怪盗
 バラバラバラバラ
 ヘリコプターから垂れ下がった縄ばしごにつかまり、去っていく
「あ、あれが……怪盗パスキャッチ」
「そうだ、あれが奴の手口! その場にいる者がぎりぎりで拾える位置を計算し、美術品を床に落とす。拾った者が別の者に美術品を渡し、最終的には自分のところに来る、その軌跡も計算し尽くした上でな!」
「な、なんてやつだ……!」

 怪盗パスキャッチの活動期間は数年で、最終的には逮捕されている。警察の作戦勝ちだとか怪盗の慢心や腕の衰えのせいだとか、当時色々と言われたそうだが、結局のところ世の中にはびこっていたチームワークが薄れてきたのが最大の要因なんだろう。
 当時を知る人々は口をそろえて言う。「妙な時代だった」「みんなおかしかった」。だけどそう語る人たちの顔はどこか楽しそうで懐かしそうで、なんだか少しうらやましくなるんだ。
 うまいコーヒーが飲みたいなあ、とよく思う。コーヒーが好きだ。嬉しい時も悲しい時も、疲れている時も満ち足りている時も、何かというとコーヒーが飲みたくなる。
 だけど僕は無精者で、自分でコーヒーを入れるのは苦手だ。全自動の小さなコーヒーメーカーを持っているので、いつもそれを使っている。
 ペンギンを模しているようなそうでないような色合いの、小さな円筒形の装置で、一度にコーヒー一杯しか入れられない。上蓋を取ってブレンドした豆を入れる。もう一つの上蓋を取ってミネラルウォーターを線まで注ぐ。
 スイッチを入れると豆を挽く音が始まる。水をわかし始める気配がする。中は見えないけど、フィルターをセットして粉を載せたりしているらしい。いい頃合いに水をわかすのを止めたり、粉を蒸らしたりしているらしい。
『できたよー』
 ちょっと笑いを含んだ声が再生される。これで入れるコーヒーはいつもうまい。

 2年前、デパートの家電品売り場でこれを買った。コーヒーの香りに誘われてふらふらと寄っていった僕に、店頭で実演していた売り場のお姉さんはにっこり笑ってカップを差し出した。
「うまい…」
 僕は思ったことをそのまま口に出して、そしてそのままこれを買った。

『できたよー』
 横蓋を開けて、カップを取り出す。コーヒーの香り。多分僕がこの世で一番好きな香りだ。
「一人用?」
 買って半年くらい後、つきあい始めて間もない恋人にこのコーヒーメーカーを見せた時、彼女はその大きさを見て少し首をかしげてそう言った。
「うん。これで作るとうまいよ」
「ふうん、私にも入れてよ。あ、でも一緒には飲めないね」
「ま、時間差で」
 話しているうちにコーヒーの香りがして、ピーという音がコーヒーが入ったことを告げる。僕はその時、このコーヒーメーカーのまだ使ったことない機能のことを思い出した。
「これ、コーヒー入ったの知らせる音声を、自分で設定できるんだよ」
「へえ。変なとこ多機能だねー」
「なんか吹き込んで」
「私が?」
 彼女は笑って、ちょっと考えてから、笑い混じりの声で吹き込んだ。
「できたよー」
 それから何ヶ月か経って、僕と彼女はなんだかうまくいかなくなって、お互いなぜだかわざと気持ちを傷つけるようなことを言い合って、彼女は僕に「もう会わない」と言った。彼女がいなくなった時、僕はとにかくうまいコーヒーを飲みたいと思って、いつものようにコーヒーメーカーの上蓋を取ってブレンドした豆を入れ、もう一つの上蓋を取ってミネラルウォーターを線まで注いで、そしてしばらく待っていたら、
『できたよー』
 コーヒーの香りと一緒に笑い混じりの声がして、僕はその瞬間から、どうしたら彼女と仲直りできるかを考え始めたのだった。

 窓の外に桜が見える。近所の公園の桜だ。そういえば今年は花見をしていない。コーヒーメーカーを持って行ってベンチに座って、一杯分の時間だけ花見をしようか、と思った。そういえば、桜の花には香りがないから、花見では何を飲み食いしてもいいんだと聞いたことがある。コーヒーで花見も、きっといいものだろうな。
 いつもあまり人がいない公園だ。桜が咲いていても同じだろう。人気のない公園の桜の下で、コーヒーメーカーのあの声が『できたよー』と言う光景がふと頭に浮かんだ。
 ちょっとため息が出た。時計を見る。今頃は、と思った。
 結局仲直りできなかった彼女のことを考えた。彼女はあの後、他の人とつきあって、きっと僕の時と違って順調に愛を育んだんだろう、今日は結婚式だそうだ。
 当たり前なのだろうけど呼ばれていない。共通の知人に教えてもらった。今頃は両親に花束でも渡しているんだろうか。そんなことを考えてたら、さっき飲んだばかりなのにまた、コーヒーが飲みたいなあ、と思った。

 うまいコーヒーが飲みたいなあ、とよく思う。コーヒーが好きだ。嬉しい時も悲しい時も、疲れている時も満ち足りている時も、何かというとコーヒーが飲みたくなる。
 だから今、コーヒーが飲みたいなあと思っても、自分がどんな気持ちなのかは、よく分からないのだった。
「魔女にとって、ホウキは命なんだよ」
 何百年も生きているのだろう、しわだらけの顔と手だ。そのくせ声は小娘のように澄んでいた。魔女ってやつはみんな、何かしらわかりやすいアンバランスを抱えている。
「それを仕事にしようってんなら、あんただって命をかけなきゃいけない」
「どこか、お気に召しませんでしたか」
「召すわけがないだろう。魔法が乗らない」
 そう言って、魔女は俺が作ったホウキを突き返してきた。当然優しく渡してくれるはずもない。ホウキの柄で俺の心臓の上をドンドンと叩いた。息がつまり、変な咳が出た。
「安けりゃいいってもんじゃないよ、え? まあ、ちゃんと魔法が乗ってりゃ、あんたは今あたしの魔法でくたばってた。せいぜい自分の作ったホウキがポンコツだったってことに感謝するんだねえ」
 なぜか急に機嫌が良くなり、あははははと楽しそうに笑いながら魔女は出て行った。ポンコツとののしられた俺のホウキだけが、床にぽつんと残された。

 俺はただ、ホウキが好きだっただけだ。ホウキの美しさは奇跡のようだと初めて思ったのがいつなのか、もう思い出せない。あの形。動き、しなり。握る部分。縦、横、斜めから見た時。離れた場所から見た時。触り心地。掃き心地。柄を軽く持って穂先を引きずり歩いた時に地面に描かれる線の具合。なぜこんな素晴らしいものが当たり前のようにこの世に存在しているのだろうと不思議に思う。
 ホウキが好きで、好きが高じてホウキ作りを仕事にした。けれどあらゆる部分に自分でも馬鹿馬鹿しいと思うくらいこだわってしまうから、結局はそれで稼ぐことなんかできなかった。それでもホウキが好きで、いいホウキを作りたくて、あちこち旅をして材料も作り方も探求し続けて……。
「無駄なことに打ちこんでいるようだね、あんた」
 そんな時、材料を探すために入った森の奥で、俺は魔女に出会った。
「大きなお世話だ」
 なぜか恐れもなく、そう言い返した。
「別に世話するつもりはないが。気づいてるかい? あんたはもう二度と、今までいたところには戻れないよ」
 嘲笑を含んだ声に胸をつかれて振り返ると、あったはずの道がなかった。木の間から見えていたはずの明るい青い空は、今は暗く不自然な紫色だ。
「……どこなんだ、ここは」
「あんたのその思いが、無駄にならない場所さ」
「…………」
「戻れやしない。生まれ育った場所にそのままいたいと望むのなら、無駄なことにそこまで心を傾けるべきじゃなかった。無駄ってのはつまり、あんたのそのばかでかい熱が、同じ場所に生きている他の連中にとっては何の意味もないってことさ」
「俺は」
 ただ、ホウキが好きだっただけだ。それが言葉にならない。ただ立ちつくすだけだった。
「もう手遅れだよ」
 魔女は顔を歪めて笑った。
「誰にも届かない熱をまきちらしていれば、いずれはそれが無駄にならない場所に引っ張られる。まあ、喜んでおくんだね。これからは、あんたの思いを笑う者は誰もいないだろう」
 呆然としたのは一瞬だったと思うが、我に返ると目の前に魔女はいなかった。けれど森から出ても、町を見つけてそこに入ってみても、俺は変わらずに紫色の空の下にいた。もう戻れないというのはどうやら事実のようだった。
 ここは魔法使いの国だ。そして俺は初めて、魔女のホウキというものを見た。魔女のホウキは多種多様だったが、どれもこれも俺が思い描いていたホウキの美しさそのものだった。俺が求めるものを形にすれば、それは強い力を持ったホウキになる。それがはっきりわかった。
(あんたの思いを笑う者は誰もいないだろう)
 そして俺は、ここでもホウキを作り始めた。魔法なんてものには縁のない場所で生まれ育った俺には険しい道だし、今はまだたいした物は作れない。だがこのまま精進すれば、いつかきっと誰もが欲しがるような素晴らしいホウキを作ることができるだろう。ここは、俺の思いが無駄にならない場所なのだから。
 しかし……。

「ホウキをください」
 かけられた声で、もの思いがとぎれる。いつのまにか目の前に小さな女の子が立っていた。魔女の卵だということはなんとなくわかる。
「あ、はい……」
「これも売っているんですか?」
 床に落ちていたあのホウキを拾って、女の子が尋ねた。
「ああ、すみません。それはちょっと」
「だめなの?」
「魔法が乗らないんだそうです。失敗作なんですよ」
「え?」
 女の子は少し驚いたように首をかしげて、それから笑って言った。
「いいんです。わたしまだそういうホウキは使えません。おそうじをするためのホウキがほしいの」
 俺はただ、ホウキが好きだっただけだ。
 ふいに腹の底から、その気持ちが吹き出してきた。
 ホウキが好きで、好きで好きで、好きすぎたせいでこんなところに来てしまった。魔女のホウキはどれもこれも素晴らしくて、強い力を持つホウキほど見るからに素晴らしくて、自分が求めるものにまっすぐ進めば、いずれは誰もが感嘆するような強い力のホウキを作れるようになることはよくわかっていて。
 けど本当は、ただホウキが好きなだけだったのに。
 ホウキへの思いは分かってもらえなくても、俺には家族も友人もいた。いやそんなことはどうでもいい。生まれ育った場所に二度と戻れなくなるほど、俺の思いは無駄なものだったのか。ただ好きだった、大好きだった、それだけだったのに。
「どうしたの? どこか痛いんですか?」
 女の子が心配そうに俺を見た。よほどひどい顔をしていたに違いない。
「いえ、大丈夫です。そのホウキならお代はいいですよ。持ってってください」
 女の子は心配そうなままだった。
「わたし、すこしなら魔法使えますよ。どこか痛いんなら……」
「本当に大丈夫ですよ。ありがとう」
 なんとか笑って礼を言った。これでよかったのだということを誰よりも分かっているのも自分自身だった。女の子が持っているホウキを見た。ポンコツと言われるような、こんなホウキを作ることも、これから先はどんどん減っていくのだろう。
彼は地獄で生まれ育った悪魔で、私はこの灰色世界の生粋の死神。
 二人の出会いは偶然にそして突然に、あの日一人の人間の魂を巡って、

「待ちなさい!」
「何だてめえは」
「その人の魂は私のものよ!」
「ああ!? 何言いやがる、こいつは俺に魂を渡す契約をしたんだよ! なあ、おい!」
「は…はい…」
「あなたは黙ってて! 3つの願いと引き換えに魂を渡す、汚らわしい悪魔の契約! だけど今回の契約は無効よ!」
「何だと!?」
「この人は今日の午後3時23分15秒、過労による突然死がすでに決まっていた! 私はそれを迎えに来たの! この人の魂は私たち死神の領分だわ!」
「ハイエナの死神風情が! 寝言は首吊って言え! 俺はこいつとの3つの願いの契約を果たしたんだ、小役人にギャアギャア言われる筋合いはねえよ!」
「果たして本当に契約は成立しているかしら!」
「何を!?」
「私は見ていたわ。この人の3つ目の願いは『この世で最高の美味を味わいたい』だった。けれどもあなたが出した至高の料理をたった一口食べた時点で、ちょうどこの人は寿命を迎え死去…。それでその願いを叶えたと言える!?」
「馬鹿馬鹿しい。ああ、言えるさ! 最高の美味は一口で十分だ! なあ、おい! うまかったよなあ!?」
「は、はい…とてもおいしく…」
「本当にそれで満足なの!? 真の美味は一口ごとにさらに口の中で豊穣を加え…ハーモニーをかなで…今まで知らなかった歓喜の別世界へあなたを誘う…。それを本当に一口だけで味わいつくしたと言えるの!?」
「…そ、それは…。確かに、そこまでの感激は…」
「待て待て待て! 丸め込もうとしてんじゃねえ! 第一、俺がここにその料理を出した時点で契約は成立してんだよ! 例え一口も食えなかったとしても、それはそいつの都合だ、契約とは関係ねえ!」
「あなたは顧客満足を何だと思ってるの!?」
「ほざくな役人が!」
(この隙に…)
「あ、待て! 逃げるな人間!」
「ちょっと、まだ話は…きゃっ」
「あ」

 さえぎろうとした私にぶつかってつまづく彼。巻き込まれて一緒に転ぶ私。起き上がろうとしたら思いの他近くに彼の顔があって、

 ドキ

 見つめ合う目と目。高まる鼓動。私、私、あなた、私。この気持ちに名前をつけるならば、それは。 

 言葉はあまりいらなくて、私たちはすっかり遠距離恋愛状態になってしまった。お互い自分たちの世界から、なかなか自由に出ることができない。だからあまり会うこともできない。会って、「またね」と別れて、7日目くらいが一番苦しい、という自分のペースに最近気づいた。
 どうしてこんなことになったんだろう、と時々思う。彼のことは大好きだけど。私たち死神のことを、何の苦労もなく魂を手に入れていると思って敵視している、そんな彼でも大好きだけど。
「俺たち悪魔は、魂一つ持ってくるのにそりゃもう泣けるような苦労してんだぜ」
 そうね、そういえばあの時の料理もとてもおいしそうだった。
 ほとんど手つかずで残されていた、「この世で最高の美味」。そのそばで出会い、言い争い、恋に落ちた私たち。人間ではない私たちには、あの料理を食べることはできないけど、目と目が合った時のあの気持ちは、あれはきっと食欲に似ていた。