夫はサンタクロースなので、イブの夜には出かけなくてはなりません。
 私は夫の帰りを待ちながら、こたつの上にきず薬や包帯をたくさん並べて、じっとそれを見ています。こんなものは気休めにもならないってわかってはいるけど、やっぱりじっと見ています。

 三年前のクリスマス夜明け前、夫は血まみれで帰ってきました。瀕死の状態で、トナカイに抱えられて家に入ってきたのでした。
「奥さん、止血を」
 トナカイが患部をヒヅメで押さえながら言いましたが、私はすっかり動転して、救急車、救急車とうわごとのように言いながらおろおろするばかりでした。
「だめだ……病院には知らせるな」
 意識がないとばかり思っていた夫が苦しい息の中から言いました。
 なんでこんなことに。涙が勝手にあふれ出して、止まらなくなりました。
 私はサンタクロースのことをよく分かっていませんでした。イブの夜、世界を一巡りする。それが夫の役目です。「サンタクロース」というものが実在し続けるためには、誰かがそれをしなければならないのです。プレゼントを配ったりする必要はありません。誰かがサンタクロースとして、空飛ぶトナカイが引くソリに乗って世界を一周する。そうすることで世界中の人々の心の中に、サンタクロースが生き続けることができるのだそうです。
 けれども空を飛んで世界一周するなど、やはり無謀な話なのです。領空侵犯容疑で夫は毎年激しい攻撃にさらされます。銃弾の雨の中をトナカイとともにかいくぐりながらイブの夜を過ごします。
(視界が)
(振り切るぞ)
(死角に入れ)
 手綱を引き、ゆるめる。一瞬も気の抜けない狂った夜です。
 夫もトナカイも、その分野では一流です。それでもこういう事態は起こりうるのです。そしてそんなことが起こっても、病院に連絡もできない。まるで指名手配中の犯人みたいだ。あんなに血が。赤い服がますます赤く。
 私は泣いて泣いて、まわりがぐるぐるして見えるくらいでした。自分が何の役にも立たないことも、夫がこのまま死ぬかもしれないことも、何も考えられなかったし、多分考えたくなかったのだと思います。
「奥さん、落ち着いて。大丈夫だから」
 トナカイが熟年の渋みを帯びた優しい声で言いました。

 今度あんなことがあったら。
 その時はあんなに取り乱したりはしないでしょう。あの時の私はあまりに幼稚でした。今は家で一人、もっと悪いことを想像しながら、ただじっと座っています。想像したことは現実にならないような気がするので、悪い想像を止める気にもなりません。ひとりぼっちになった自分、夫の遺体に泣きながらすがりつく自分を何時間も思い描き続けます。
 鈴の音。
 私はこたつから飛び出しました。窓を開けると宙に浮くトナカイとソリ、それに乗る赤い服の太った男。一瞬、のどがつまって声が出なくなります。
「…………」
「た、だいま」
「おかえり」
「み、水、水くれ」
 凍りつくような空気の中で夫もトナカイも汗だくで、荒い息を吐いています。私はあわててコップと、トナカイ用に深い皿に水を入れます。
「おかまいなく。それではまた来年」
 トナカイはそれを飲まず、急ぐように去って行きました。彼にも帰る場所があるのです。
 夫はサンタの衣装を脱いでいました。重ね着していたので太って見えていましたが、本当はむしろやせ型です。ひげは付けひげです。プレゼントを配らないから、袋は最初からからっぽです。
 サンタクロースを形作ってる部分は全部嘘です。目の前にいるのはどう見てもサンタではありません。けれどこの人は、サンタクロースの実在のために命がけで働いているのです。
「ふー」
 水を飲み、夫は大きく息を吐きました。
「お疲れさま」
「疲れたねー」
「今年は怪我しなかったの?」
「服が少し焦げた。でもそれの出番はないな」
 夫はこたつの上の薬と包帯を見て笑いました。
「今年は多めに用意したのに」
 私も笑いました。
「あ、言うの忘れてた。メリークリスマス」
「ああそうだ、メリークリスマス」
 胸が痛く、熱くなりました。控えめに言って私は、この人を世界一愛しているのだと思います。
 ぼくのうちには三匹のお犬様がいらっしゃる。本当はこんなことを考えてはいけないのだろうけど、そのうち二匹のことは、ぼくはそんなに尊敬していない。気が向いた時に家を訪れて何か召し上がって、気が向いた時に外に出ていく。お犬様なのだから当たり前なのだろうけど、こっちの都合なんてちっとも考えてはくださらないのだ。
 だけど藤吾様は違う。藤吾様はたいがい家の中か、戸口の前にいらっしゃる。江戸の町のお犬様は年々増えているので、突然家の中にどなたかが押し入ってこられることも以前にはよくあった。けれど藤吾様がこの家を選び、この家の主となってからは、他のお犬様が近づくことは少なくなった。何度か決闘をされているのを見たことがある。藤吾様はとても強い。
「立派なお姿ね」
 いつだったか、戸口に座る藤吾様を見ながら母がぼくにささやいたことがある。藤吾様は外を見据えていた。灰色で、背中は黒っぽい。堂々としていて少し近寄りがたい。でもぼくらなら近寄っても許してくださる。本当に立派な姿だと思った。
 強くて立派な藤吾様は優しい方でもある。家の中の食べ物を何も言わずに召し上がったりしない。主なのに、ぼくらのことを考えてくださるのだ。ぼくらと同じ時間に、ぼくらと同じような貧しい食べ物を、不満ももらさず召し上がる。
 お犬様は何をしても許される。だから好きなことをするものなのだと思っていた。藤吾様に会って、そうとは限らないと知った。ぼくは藤吾様に心服し、こんな主に出会えたことを幸福に思った。

 時々、藤吾様のお供をして町を歩く。藤吾様を見ると他のお犬様方はたいていしっぽを低くする。ぼくは藤吾様のお供ができるのが誇らしくてならなかった。
 そんな気持ちが態度に出てしまっていたのかもしれない。他のお犬様を馬鹿にしていたつもりはないけど、やっぱり馬鹿にされたと思うお犬様もいたのだ。ある日、ぼくが少し遅れて藤吾様から離れた時、突然一匹のお犬様が飛びかかってきた。
 それが合図だったかのように、たちまちそばにいた他のお犬様方も襲いかかってきた。八つ裂きにされる。その時考えられたのはそれだけだった。
 何かぶつかり合うような音がしたが、ぼくは無傷だった。ただぼんやりと立っていた。目の前に背中を噛まれている藤吾様がいた。おそろしい吠え声があがった次の瞬間、目の前でつむじ風のようなものが起こり、まわりのお犬様が次々となぎ倒されていった。
 お犬様方が逃げ去って、ぼくはようやく藤吾様に近づいた。
「……藤吾様、大丈夫ですか」
 背中に傷があった。ぼくをかばってできた傷だった。震えが止まらなかった。お犬様が人間のために傷つくなんて。ぼくを守ったって何の得にもならないのに。
「ありがとうございます。ありがとうございます、藤吾様」
 藤吾様の傷から流れる血を見てぼくは泣いた。
「ご恩は一生忘れません。あなたのためなら、おれは……」
 藤吾様はぼくを見て鼻を鳴らした。笑ったように見えた。

 何もかもが変わったのは突然だった。突然ではなかったのかもしれないけど、ぼくはそうなるまでの経緯を何も知らなかった。
 家でくつろいでおられた三匹のお犬様の首に縄を巻き始めた父を見て、気が狂ったのだとぼくは思った。
「何やってんだよ、父ちゃん!」
 藤吾様は動じる様子もなかったが、他の二匹は暴れた。当たり前のことだ。首に何か巻かれるなんて、きっと初めての経験だっただろう。父は太い棒で二匹を殴りつけた。ぼくはもう言葉も出なくなった。こんなことをしたら死罪だ。一体父はどうしてしまったのだろう。
 二匹はぐったりとなった。そこに、近所に住む鉄五郎さんがたずねてきた。
「おい、大丈夫か」
「ああ」
 こんな光景を他の家の人が見たら大騒ぎになると思ったのに、鉄五郎さんも平然とした顔でお犬様と棒を持った父を見ていた。
「それじゃ、連れてくぜ」
「こっちの二匹はもう死んだかもしれねえ」
「ちぇっ、加減できねえのかよ」
「すまねえ。けどよ、何もひとところでいっぺんにやるこたあないと思うがな」
「こういうことは派手な方がいい。みんなずっと苦しんでたんだ。これで終わりだってはっきりわかるようなのがいいんだ」
「鉄五郎さん」
 ぼくはたまらなくなって叫んだ。
「お犬様をどうするの?」
 鉄五郎さんは父と顔を見合わせた。
「お犬様、か」
 二人とも苦笑いを浮かべている。
「終わったんだよ、こんなくだらねえことはな」
 鉄五郎さんは荒々しく縄を引っ張り、藤吾様は引きずられて戸口に倒れ込んだ。
「藤吾様!」
 駆け寄ろうとしたぼくを父が止めた。
「父ちゃん、どうして! このお方は!」
「ああ、そいつには本当に世話になった。野良犬からおれたちをいつも守ってくれた。藤吾がいてくれたからおれたちは、あんな頭のおかしい法がまかり通ってる中を、生き延びることができたのかもしれん」
 父がお犬様を呼び捨てにするのをぼくは初めて聞いた。
「けど、もう終わったんだ。今までは野良犬に襲われたって、殴り返せば死罪だった。今は違う。そいつに頼らなくたって追い払うことができる」
 何か途方もないことが起きて、一夜にしてこの世の仕組みが変わってしまったらしいことにようやく気づき、ぼくは呆然と立ちすくんでいた。
「さあ、行くぞ」
 我に返ると、藤吾様はもうずいぶん離れたところにいた。
「藤吾様!」
 追いかけようとしたぼくの腕を父がつかんだ。
「父ちゃん! 藤吾様が!」
「おれだってつらい。本当に世話になったからな。でも、もう決まったんだ」
「決まったって、何が」
「今の江戸には犬が多すぎる。いくつかの町内で犬を一匹残らず始末することが決まった。この町内の犬もだ」
 ぼくは頭が真っ白になった。始末? お犬様を? 藤吾様を? 振り返ると藤吾様はまるで逆らわず、いつものように淡々と歩いていた。
「行っちゃだめです、藤吾様!」
 ぼくは声を限りに叫んだ。藤吾様が遠ざかりながら少し首をこちらに向けた。その目を見てぼくは震えた。藤吾様はわかっているのだと思った。殺されることを、いやそれだけじゃなく、今まで敬われていたのは何か嘘の話だったことも、みんなわかっていたのだと思った。
 ご恩は一生忘れませんと誓った自分を思い出した。もうどうにもならないとわかっていても、ぼくは大声をあげるしかなかった。
「藤吾様!」

 宝永六年、生類憐れみの令廃止。当時のぼくは何も知らない子供だった。
 けれど、あの法令の時代を誰かが笑い話にするたびに、今も思い出すのはあの時の光景だ。ぼくが崇め敬っていた犬が、こちらを振り返った時のあの目。何も知らない子供だったからあの犬を敬っていたわけではないと、そのたびに思う。
「まさに、天下の悪法だったな」
 誰かの言葉にぼくはしみじみとうなずく。
 疲れた顔をした中年の女性だった。僕はその人が座っているすぐ前で、吊革につかまって立っていた。その人は丸中スーパーと書いてある袋を膝の上に乗せて、それに手を添えるようにして座っていた。
 僕はその女性をちらっと見て、何かおかしいなと思った。でも何がおかしいのか、最初はわからなかった。ちらちらと目をやり、考え、やっぱりわからずまた目をやり、考えた。
 10分くらいしてようやくわかった。おかしいのは袋の持ち方だった。スーパーの袋なのに、スーパーの袋の持ち方ではなかった。あれは葬式の時の遺骨の持ち方だった。そういえばその女性の表情も雰囲気も、葬式そのものだった。
 遺骨なのだ。遺骨に違いない。
 僕は吊革を離し、手すりにつかまった。あまり変わらないような気もしたけど、吊革にぶら下がってるより手すりの方がきちんとした態度に見えるだろう。遺骨を持っている人のそばなのだ。少しでも礼儀正しくいなければならない。
 女性は3駅くらい後に電車を降りた。僕の横を通る時、悲しそうな顔で小さく頭を下げた。僕はホームに降りる女性をずっと目で追い、階段を降りて見えなくなったのを確認してほっとした。

 スーパーの袋を持った中年の女性が改札を通ろうとしていた。しかし切符を出すのを忘れていたらしくもたもたしていた。私はその後ろにいたので少しいらだったが、それと同時にその女性を見て、何かおかしいなと思った。
 女性はスーパーの袋を持ったまま、コートのポケットを探していた。おかしいのはその時の袋の持ち方だった。決してぶら下げたりせず、そっと抱くように持っている。割れやすいものでも入っているのかと思って見ていたが、どうもそうではなさそうだった。何だろう。改札の他のところはもうあいていたけど、私は気になって女性の後ろにじっと立っていた。
 ようやく気づいたのは女性が切符を見つけ、改札を通った時だった。切符を改札に入れた女性は、スーパーの袋を両手でそっと体の前に抱え持った。それを見て私はやっとわかった。
 遺骨なのだ。遺骨に違いない。
 私は女性の後ろから改札を通った。女性はゆっくりと歩いていたので、追い抜いたりしないように気をつけた。
 改札の外で、出口は2つに分かれている。私と女性は別々の方向に進んだ。背を向ける寸前、私はそっと女性を見た。すると女性も私を見て、悲しそうな顔で小さく頭を下げた。私はそこに立ち止まって女性の後ろ姿を見送り、角を曲がって見えなくなったのを確認してほっとした。

 休日だが特にやることもなかった。借りていたビデオを返しに行く途中、駅前で知っている顔を見かけた。
 名前は知らない。俺が働いている丸中スーパーでよく見るおばさんだ。今日も丸中スーパーの袋を持っている。買い物帰りなのだろうと考えかけたが、何かおかしいなと思った。
 少し考えてわかった。おかしいのは袋の持ち方だった。あのスーパーにあんな持ち方をしなければならないような商品は置いていない。というより、あの持ち方は……。そこまで考え、俺ははっとした。
 遺骨なのだ。遺骨に違いない。
「あら」
 俺がそれに気づいたのと、あの人が俺の顔を見て声をあげたのはほぼ同時だった。顔見知りだ。けれど、今は少し気まずかった。
「今日はお休みですか?」
「ええ」
 俺はスーパーの袋を見て、店員なのにこれについて何も言わないのは不自然だろうかと考えた。
「それじゃ、また」
「はい」
 あの人は悲しそうな顔で小さく頭を下げた。俺も頭を下げた。後ろ姿を見送り、人混みの中にまぎれて見えなくなったのを確認してほっとした。
「星を自分のものにする方法を教えてあげようか」
 そう言ったのは誰だったか。すきまなくびっしりと星の光で埋めつくされていた、あれはどこの空だったか。
「どうするの?」
「簡単だよ。星を見て、自分のものにしたいと思えばいいんだ」
「なあんだ」
「でもその前に誰かがそう思っていたら、その星はその人のものだから、自分のものにはならないんだ」
「へー。じゃあ、もう僕の分は残ってないね」
「そうでもないよ。持ち主が死んだらその星はフリーになる。次にまた誰かが、自分のものにしたいと思うまで」
「でも、どれがあいてる星か分からないよ」
 僕は多分、小学校に上がる前。息が白かったことが、変に印象に残っている。
「それじゃあ、君に力をあげるよ。星を見ればそれだけで、その星に持ち主がいるかどうか分かる力だ」
「ほんとに?」
「ああ、あげる。自分の星を持つまで、それを使うといい」
「ありがとう」
「どういたしまして。ついでに、持ち主がどんな人で、どんな生活をしているかも、星を見れば分かるようにしておくから」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 その日から夜空は騒がしくなった。見上げるだけでそこに浮かぶ、たくさんの顔や彼らの日々が、頭に響いてうるさいほどだった。見るだけで疲れることもあった。それでも時々見た。
 フリーの星はいくつもあった。でも僕は、それを自分のものにしようとは思わなかった。
『自分の星を持つまで、それを使うといい』
 自分の星を持てば、この力は消えてしまうのだろう。にぎやかな空を見上げ、それは惜しいと僕は思った。だからあれから10年以上、ずっと僕の星はないままだった。
 一つ、好きな星があった。それはつまり、星の持ち主のことが好きだったということだ。同じ年頃の女の子だった。難しい病気で、いつも寝てばかりいた。ベッドから空を見ていた。
 たいていの星の持ち主は、星を自分のものにしたことなんか忘れてしまう。けど彼女は違った。寝たままで空を見て、自分の星を探す。彼女の星はそんなに明るくないから、見えない日の方が多い。見えた日はいい日だ。彼女は嬉しそうに笑う。
 星が見える日は彼女に会えた。彼女は僕を知らないけど、僕は彼女を知っていた。よく知っていた。病気がだんだん悪くなっていたことも知っていた。
 昨日空を見たら、あの星はフリーになっていた。
 僕は急いで、彼女のものだった星を自分のものにした。そのとたん、そこらじゅうにあったたくさんの顔も、彼らの日々も全て消え、今の夜空はただ暗い。たった一つの星をのぞけば、しんと静まり、何もない。
 六輪サーカスと描かれたテントの中には白けた空気が漂っていた。空中ブランコが2回連続で失敗したのだ。
 もともと、他の出し物もまるで盛り上がっていなかった。公演の目玉と銘打たれていた空中ブランコが失敗するに至って、観客も正当な権利を得たと言わんばかりにブーイングを始めた。
「皆さん」
 ステージの中央に一人の男が立ち、観客に呼びかけた。空中ブランコの片割れの男だった。
「お願いです。もう一度チャンスをください。僕は今日、今日だけはどうしてもこの空中ブランコを成功させなければならない理由があるのです」
「ふざけんな」
「今日だけって何だ、おい」
「できないのが普通か」
「金返せ」
「お願いです、皆さん。もう一度だけ」
 男は真摯な表情で叫び続けた。それをかき消すように罵声も続く。
「よせよ!」
 誰かが叫んだ。
「そうだ、やらせてやろう」
 また、どこからか声がした。なぜか、しんと静まった。
「ありがとう」
 男は、その方向に向かって頭を下げ、パートナーの女に合図を送り、それぞれの梯子を登り始めた。

 またも失敗。4回目だった。ネットに落ちた女が、とぼとぼとまた梯子に向かった。
「やる気あんのか」
 観客の野次にもすでに元気がなくなっている。
 5回目、またも失敗。6回目、失敗。野次を飛ばしていた観客も大声を出すのに疲れ、場内を覆う空気はひどくもの悲しいものになった。いいかげんに成功させてくれ。誰もに共通するのはその思いだった。
 7回目。観客の祈りが通じたのだろうか。体勢を崩しながらも、ついに2人の手は空中でつながり、空中ブランコが成功した。
 わあ。今日初めての歓声があがった。それがひとしきり続いた後、ブランコに足をかけたままの男が大声をあげた。
「ユリコ」
 歓声は不思議そうなどよめきに変わった。
「なあに」
 男と手をつないだ女が大声で答えた。
 なるほど、彼女がユリコなのかと観客が考えた時、
「結婚してくれ」
 男が叫んだ。
 片手を離し、胸ポケットから指輪を取り出した。
「君の誕生日の今日、どうしてもこうやってプロポーズしたかった」
 そのまま男は、パートナーの左手の薬指に指輪をはめた。
「嬉しい」
 女が叫んだ。
 今日だけは成功させたい。観客は男の言葉の意味を理解した。やけくそのような拍手と歓声、さきほどにも増した激しい罵声、そして今後の2人を案じるため息が場内に満ちた。
 メガロポリス東京。
 ここは地下鉄マグマ線の中でも最も地底深い駅、本町太夫駅。朝のラッシュアワー、プラットホームに着いた電車から、今日も大量の人々が吐き出される。
「危険です、走らないでください」
 駅員の制止もむなしく、人波の動きの激しさは変わらない。高速エレベーター口に向かって一直線に突き進む。高速エレベーターを使って地上に出るのは、乗客のほぼ8割。地上まで10分。エレベーター1台に乗れる人数は限られている。台数が多いからそれほど待ちはしないが、できるだけ早い一台に乗りたいのが人情だ。高速エレベーター口に人々は走る。

 俺は高速エレベーター口の横をすりぬけて走った。向かうのは超高速エスカレーター口。すでにまわりには顔を見知っている連中が多くなっている。俺達は乗客の約2割を占める、超高速エスカレーター使用客。
 超高速エスカレーター。地上まで5分で到達。肉眼では確認できないほどの超高速で、大きな螺旋を描きながら昇ってゆく。通常のエスカレーターとは違い、階段にはなっていない。足場にもなり、手でつかむのにもちょうどいい突起が、たくさん生えた坂道だ。
 改札まで30メートル。エスカレーターが見えてくる。毎日見ているというのに、この瞬間俺の胸はいつもときめく。
 よろしくな、相棒。今日も俺を高みに運んでくれ。
(まかせろ)
 頭の中で、そんな声が聞こえたような気がした。俺は、まわりを走っている奴らのことも少し考える。
 こいつらのことも頼むよ。今日も、誰もくたばらないように。
(知ったこっちゃないな)
 また声がする。
(そいつらの運次第さ)
 ああ、そうとも。最高だぜ。俺は定期を取り出しながら改札を駆け抜ける。定期は超高速エスカレーターの使用許可証も兼ねている。厳しい試験に合格した者のみがこの改札を通ることができるのだ。
 エスカレーターに乗ろうとした時だった。背中を押された、と思ったら、誰かが俺の頭のはるか上を跳び越え、エスカレーターに乗り込んだ。ジャンプ台代わりにされたのだ、と気づくのにしばらくかかった。
 野郎。あの後ろ姿は知っている。毎日見るやつだ。俺は闘志を燃やした。必ず追い抜いてやる。俺はエスカレーターに飛び乗った。
 突起を踏みしめる。瞬間、全身にかかる負荷。世界がまったく変わる。さっきまでは、見えないのはエスカレーターの動きの方だったが、今度はまわりの景色が見えなくなる。
 奴はどこだ。思わず姿を探した。見えるわけはない。すでに遥か上に行っているはずだ。しかし、追い抜くことは可能だった。
 超高速エスカレーターには、途中で何度かコースの分岐がある。さらなる速度を求める者は、横に曲がってそちらのコースに進む。横に曲がる? 速すぎてまわりがまるっきり見えないのに? 初めの頃はそう思った。つまりその頃の俺には、そっちのコースに進む資格はなかったということだ。
 今なら進める。体が覚えているタイミングでその方向に跳ぶ。別コースに着地すれば成功、さらなる速さを手にすることができる。
 だが、すべての分岐で最も速いコースをとれるわけではない。やはりいくつかは逃してしまうものだ。逃すコースを少なくすれば、あいつに追いつくことができる。
 一つ目の分岐。飛んだ。手すりにつかまりながら着地。成功だった。
 そういえば、手すりの存在は分岐のコースに進む難易度を高めている。飛び込む際の障害になることが多いからだ。だが手すりがあることでコースアウトの危険が少なくなる。手すりの撤去を駅に訴える者が後を絶たないそうだが、愚かとしか言いようがない。たわけた訴えをする前に、まず自分の技術を磨くべきだ。
 分かれたコースが一つになり、すぐにまた分岐。またうまく進むことができた。さらに、次の分岐も成功。今日は調子がいい。
 分かれたコースがまた一つになる。その時俺の目は、あの男の姿をとらえた。追いついたのだ。やつのすぐ後ろについた。やつは俺に気づいたらしく、エスカレーターの坂道を徒歩で少し進んだ。少しでも差をつけようというのか。馬鹿め。そんなことをすれば。
 次の分岐。俺は飛び、うまく着地できた。分岐を4回連続で成功させるなど、初めての経験だった。奴は一般コースのままだ。歩いて進んだことでタイミングを逃したのだ。この差は決定的なものとなるだろう。
 その後も俺は調子よく分岐をこなした。全勝というわけにはいかなかったが、自己新記録であることは間違いなかった。時間を測っていなかったことを後悔した。4分を切ったかもしれない。
 エスカレーターも後半にさしかかる。コースがまた一つになる地点で、俺は誰かとぶつかりそうになった。あいつか、と思ったが、別人だった。動きにくそうなスーツ姿の女だったが、俺から身をかわして跳躍した。コースアウトする! 熱くなった俺の頭から血の気が引いた。
 しかし、女は手すりにつかまり、高いヒールをコースに生えた突起に引っかけながら着地した。まったく無駄のない動き、かなりの上級者のようだ。意識せずにそんな動きができるらしく、表情も特に変わってはいない。
 だが、その涼しい顔の中に、エスカレーター使用者特有の、抑えきれない激情が見てとれた。

 エスカレーターが螺旋ではなくなり、まっすぐに昇り始める。そろそろ地上だ。
 当然、速度がゆるむことなどない。そのままの状態から段差の部分を跳び越えなければならない。ゴールは遥か上、まだまったく見えない。しかしここで跳ぶ。すでに体が覚えきったタイミング、なるべく高くジャンプ。目の前が白くなる。
 衝撃吸収剤の壁が、めり込んだ俺をゆるゆると別の方向へ運んでゆく。極限の緊張が一気に溶けてゆくのが心地いい。壁の動きにしばし身をゆだねていると、別の場所の壁から吐き出される。少し階段を上ればそこはもう地上だ。
 さあ、会社に行こう。地上で太陽の光を浴びながら気合いを入れた俺の横を、さっき俺の背中を蹴ってエスカレーターに乗った男と、途中でぶつかりそうになった女が通りすぎていった。
 どちらも毎日見る顔だった。だが話したことは一度もない。名前も知らない。それぞれ別の場所に散ってゆく。だが俺達は同じ、荒野を駆ける獣だ。明日また会おう、戦友。
「おつかいに行ったの、わたし」
 5歳くらいの小さな女の子が言った。
「パンとバターがなかったから、わたし自分でおつかいに行くって言ったの。いつも買ってるのがどのパンとバターか知ってたから、一人で買えると思ったの」
「ふうん。ちゃんと買えた?」
 女の子は飲み物の自販機に寄りかかっていた。僕は彼女にそうたずねながらふと、この子は誰だっけと思った。
「買えたよ。それでね……家を出るときにお母さんが、おつりはごほうびにあげるって言ったから、わたしはこうやっておつりをぎゅーって握りしめて歩いてたの。20円だったんだけど、自分のお金を持つのは初めてだったから」
「わかるよ。初めての自分のお金ってそういうもんだ」
 僕がそう言うと、女の子は少し笑って自販機を見た。札の挿入口の下がひどくへこんでいる。そういえばさっきここで事故があった。この自販機に車が突っ込んだのだ。その後他の車を巻き込んで、ずいぶんひどい事故になっていた気がする。
「でも、歩いてたら、ここで転んじゃったの。その時に手が開いちゃって、お金はこの自販機の下に入って、取れなくなっちゃった」
「ふうん」
「すごくすごく悲しかった。でも家に帰ったの。お母さんは何も聞かなかったし、わたしもお金をなくしたことを言わなかったの。お金をなくすなんて大変なことだと思ったから言い出せなかったし、でも自分のお金だから言わなくていいとも思ったし」
 女の子は自販機のへこんだ所をなでていた。
「その夜にわたしは死んじゃった。お金なくしたのとは関係なかったと思うけど、急に病気になって死んじゃったの」
 僕はそれを聞きながらぼんやりと、ここはどこだっけと思った。
「気がついたら、ここにいたの。知ってる? 幽霊って、思いが残るところから動けなくなるんだよ」
「ああ、なんか聞いたことある」
「それで、わたしはそれからずっとここにいるの。今はもう、20円がたいしたお金じゃないって知ってるけど、でもやっぱり動けないの。おかしいと思う?」
「いや、おかしくないよ。僕だって……」
 言いかけて、ようやく思い出した。そうだった。僕も死んだのだ。さっき、ここに突っ込んだ車の運転席にいたのは僕だった。居眠り運転でもしていたのだろうか。
「……僕もきっと、ここから動けない。不注意で死んだことを後悔しているのかもしれないし、大切にしていた車をつぶしてしまったからかもしれない」
「これからずっとここにいるの?」
「さあ」
「わたし、もういなくなると思うよ」
「なんでさ。ずっとここにいたんだろ?」
「この自販機、つぶれちゃったからきっと交換される。そしたら、あの20円も回収されてどこかにいっちゃって、わたしはもうそれでおしまいになると思う」
「そっか」
 僕にもいつか、そんな日が来るのだろうか。
「寂しくなるな」
「がんばって」
 女の子はまた少し笑った。
 あのトンネルに入ってはいけない、あの中に長い間いると何もかも忘れてしまう。昔、そんなことを聞いたことがあった気がする。けれどもその記憶ももうおぼろげで、おぼろげでも残っているのが不思議なくらいだった。
 おれはなぜこのトンネルに入ったのだろう。思い出せない。自分の名前も忘れている。年はいくつだったか。
 それほど長いトンネルではない。右を向いても左を向いても出口の光が見えている。出てしまえば、ここに入って忘れたことも全部思い出せるはずだ。そんな話を聞いた記憶はないが、なんとなくそんな気がする。
 しかし、出ればきっと捕まる。外で警官が待ちかまえている。
 本当にそうだろうか、という疑問がわいた。そこでおれはまたポケットから紙を取り出し、暗い中目をこらしてそこに書いてある字を読んだ。

『ここから出るな
 警察に追われている
 おれは美鈴を殺した
 あいつがおれを裏切ったからだ』

 走り書きは多分自分の字だった。いつ書いたのかは分からない。ここに入って記憶が消え始め、何もかも忘れる前に自分に警告を残したのだろうか。
 何度も何度も読み返す。どんな女だったのだろうと考えた。
 トンネルの中は相変わらず静かだ。自分がここから出たいのか出たくないのか、それもよく分からない。
「チャンピオン連打! 連打!」
「ああ、こりゃ一方的だ」
「どうやら決着はこのラウンドということになりそうです!」

「もう限界だ、タオルを」
「待て、もう少し……」
「いいかげんにしてください! 最初からあいつには無理だったんだ」
「いや、しかし」
「なんで竹下にそこまでこだわるんです! あいつより上はいくらでもいるのに!」
「……竹下は……頂点に登れるやつなんだ……」
「なぜそう思うんですか! 僕にはそれがわからないんだ!」
「…………」
「もしかしたらいつかはそうなるのかもしれない! でも、どっちにしろ今は早すぎたんですよ! タオルを!」
「く……くそっ!」
 バッ
「あーっ、ついにタオルが投げられ、タオル……タオル?」
「タオルにしちゃフワフワしてますね」
「おっと挑戦者なぜかそれを見てタオルに突進! まだやれるというアピールでしょうか、いや違う、違いますよ、挑戦者タオルを、タオルを、身にまとったーっ!」
「タオルにしちゃ透き通ってますね」

「た……竹下、お前」
「お世話になりました。私は天に帰ります」
「竹下」
「竹下ーっ!」

「ああーっ、これはどうしたことか、タオルを身にまとった挑戦者、天に昇ってゆくー!」
「タオルじゃないんじゃないですか」
「美しい! なんという神々しい姿でしょうか! チャンピオンも観客も、消えゆくその姿を言葉もなく見送るばかりです!」
 カーン
「あ、ここでゴングが」
「どうなるんでしょうねこれは」

「……判定は! 3−0! 挑戦者の判定勝ちです!」
「意外な幕切れですね」
「やった! 竹下! やったぞー!」
 天に帰った挑戦者、グラブを外しながら微笑む
 この星は輪を持っている。そしてこの星の人々は、死ねば皆あそこに行くのだと信じている。
「母ちゃんは輪からずっとお前を見守っているんだ」
 葬式で父親にそう言い聞かされ、小さな子供が気丈にうなずき空を見上げた。
 輪は空にあり、昼も夜も見えている。輪がこちらから見えている時は、輪からもこちらが見える。人々はそう信じている。

 輪が見えない、空にない地方もある。そこに住むのはほとんどが、輪のある地方から逃げてきた人々だ。輪に顔向けができない、輪から見られるのがつらい、そんな理由で輪から離れて暮らしている。
「ここでなら安心して暮らせる。俺はここで初めて安らぎを知ったんだ」
「けど、死ねばどうせ輪に行くんだぞ」
 帰ってこいと、家族が説得に来たりもする。
「いいんだ。死ぬまででいい」
 輪のない地方の住人はたいていそう言い、家族はあきらめて立ち去る。その時に空を見て思う。輪のない空はなんて寂しいのだろう。

「なあ、テッペー。お前、ここに降りてくる時にさ、輪を近くで見たか?」
 これを聞かれるのが何度目か、とっくに分からなくなっている。この星の人々が宇宙人に聞きたいことは、他には特にないようだった。
「いや、近くでは見てない。あまりよく見えなかったな」
 よく見えなかったのは本当だ。けれども俺は、あの輪が他の星の輪と同様、石だの塵だの氷だのでできていることを知っている。もちろんそのことはこの星の人々には言わない。
「昔かわいがってくれたばあちゃんが輪にいるんだよ。おれ、わがままばっかり言って全然優しくしなかった。謝りたい」
「ふうん」
「お前、そろそろ帰るんだってな? オサに聞いたぞ」
「ああ。まあ、もうしばらくはいるけど」
「帰りは輪に寄っていけよ。ばあちゃんに会ったら、おれが謝ってたって伝えてくれ」
「無茶言うな。俺は生きてるんだぞ」
「生きてるけど、輪よりずっと遠いところから来たじゃないか」
 どう答えていいか分からず、俺は黙った。
「なんだ、本気にするなよ。冗談冗談」
「冗談には聞こえなかったぞ」
「うん、本当は冗談でもなかった。でもまあ無理ならしょうがない。無理なのかなという気もしてきた」
「無理だよ」
「そうか。じゃあいい。どうせいつかおれも輪に行くから、その時に謝る」
「そうしろ」
 この地方は、とりわけ輪がくっきり見える。かつてこの星で生きていたたくさんの人々が、今はあそこでこの星を守っている。それは一番自然な解釈だと思える。

「なあテッペー。いつかまたこの星に来るかい」
「ああ、またいつか」
 また来る時にはあの輪はきっと、最初に見た時とは違って見えるのだろう。