カワシジミチョウの幼虫はカバラオと呼ばれている。見た目はそこらへんのいもむしと大差ないけど、フライパンで炒めるとちょっとびっくりするくらいおいしい。
 ぼくの家は何代か続くカバラオ産家だ。ぼくも大人になったらきっと父さんの跡を継ぐ。カバラオを育てるのは難しい。5千匹飼っても、出荷できるのは百匹くらいだ。といっても別に飼ってるうちに死ぬというわけではない。
 カバラオには毒がある。生で食べたら即死するような毒なのだそうだ。特別な餌をやったり(すりつぶしたキハスソウの根を酢につけたものがよく効くけど、あまり食べようとしないので食べさせるのに苦労する)、朝、昼、晩となるべく温度差をつけたり(差をつけすぎると死ぬので注意が必要だ)、いろいろ工夫して育てていくとだんだんと毒が抜けていく。さなぎになるより先に毒が抜ければ出荷できる。
 毒が抜けたかどうかは見れば分かる。カバラオの体の色はちょっとオレンジがかった派手な赤で、その赤が毒が抜けるに従って薄くなっていく。灰色になったら出荷だ。ちょっとでも赤が残っていたら出荷せず、焼却したり、食べられそうなやつはうちで食べたりする。
 火を通せば、ちょっと赤くても本当は大丈夫だ。カバラオを生で食べる人なんていないし、もっとたくさん出荷することもできると思うけど、父さんは絶対、完全に灰色になったやつしか出さない。もったいないな、と昔は思ってたけど、ぼくにもだんだんとわかってきた。どこかで線を引かなければならないことと、その線は一番厳しいところに引くべきだということ。
「将来のことを心配しなくていいってのは幸せなことだな」
 ある時、父さんがふと言った。ぼくは意味が分からなかった。
「俺は幸せ者だってことさ」
 父さんは僕を見て笑っていた。ぼくはやっぱり何のことか分からず、その日の夜、寝る前になって、あれはぼくをほめてくれたのかもしれないと思いあたった。違うだろうか。色々考えていたら、なかなか眠れなかった。

 Pを見つけたのは、多分それから二ヶ月くらい後のことだったと思う。
 ぼくはいつものように巣箱を見回っていた。カバラオはまだ孵化して間もない頃で、体長は1センチくらい、真っ赤な色、背中の焦げ茶色の模様のせいでよけい毒々しく見える。
 こんな虫を最初に食べようと思ったのは誰なんだろうなあ、と思った時に、目に入ってきたのがPだった。
「父ちゃん。こいつ、なんか変だぜ」
「どうした」
「ほら、背中の模様が違う」
 カバラオの背中には、焦げ茶色の輪のような模様が節ごとに一つずつついている。けれど、ぼくが見つけたそのカバラオの背中の模様は「O」ではなく、Oの一部が飛び出て全部「P」のようになっていた。
「病気かな」
「模様が違うやつはたまにいるよ。ま、これはちょっと珍しいかな」
 父さんはPのカバラオをじろじろ見て、
「大丈夫だろ」
 そのまま他の巣箱の様子を見に行ってしまった。ぼくはそのカバラオが変に気になって、しばらくそこでそいつを見ていた。

 Pはしだいに目立つようになってきた。体が大きくなって、背中の「P」がよく見えるようになったのもあるけど、それだけではなかった。
「真っ赤だな」
 父さんはあきれたように言った。他のカバラオの赤がだんだんと抜ける頃になっても、Pは生まれたばかりのような赤さだった。まわりの赤が抜けたせいで、前よりも赤さが増して見えるほどだった。
「出荷できそうにないね」
 ぼくはそう言いながら、なんだか楽しい気分になっていた。出荷できるのは良いカバラオで、出荷できないのは悪いカバラオだ。けれど、赤をずいぶん残したままサナギになるやつなんかを見ると、偉いな、という気持ちになったりもする。Pもきっと、赤いままサナギになるのだろう。
「少しは白くなれ、P」
「名前なんかつけるなよ」
 父さんは苦笑した。
「ここまで赤いやつは初めて見た。もうカバラオじゃないな、それは」
「え?」
「カバラオっていうのは食えるやつのことをいうんだ。どう見てもそいつ、食えるようにはならないだろ。だからカバラオじゃなくてカワシジミチョウの幼虫か、毒いもむしだ。な」
「そうか。じゃあこいつは毒いもむしのPだな」
「そうだな。毒いもむしのPだ」
 父さんは笑っていた。どくいもむしのP、という言葉の響きがおかしかったのだと思う。ぼくもなんだか面白くなって笑った。
「でも、カバラオじゃないのにこのまま置いといていいの?」
「餌の無駄ってことか? 出荷できないやつなんか他にもいくらでもいるだろ」
「そりゃそうだけど。でもこんなに赤いやつなんか他にいないよ」
「真っ赤でもちょっと赤くても、一文にもならないのは同じさ。それに、赤いやつを捨てると、他のやつらの赤抜けが遅くなる」
「そうなの?」
「そうさ。どういうわけかそうなってるんだ。うん、それだけ赤ければ、他のやつの赤抜けが早くなるかもしれないな。がんばれ」
 父さんはPに声援を送った。

 それが冗談ではなくなったのは数日後、カバラオの色に差が出てくる時期に入ってからだった。Pと同じ巣箱のカバラオは、他の巣箱よりも明らかに赤抜けが早かったのだ。
 父さんはPを他の巣箱に移した。3日後、その巣箱を腕を組んでじっと眺めながら言った。
「やっぱり早くなった」
 ぼくにはその変化は分からなかった。父さんは少し興奮していた。
「これはすごいな。よし、そいつは羽化させて子供を作らせよう。うまくすれば似たようなやつが生まれてくる」
 それを聞いて、ぼくはわくわくした。ちっとも毒が抜けない、本当だったら焼却されるはずのPが、毒が抜けないことで特別扱いされることになったのだ。すごいことだと思った。Pは殺されない。真っ赤なまま生きて、子供を作る。きっと子供も背中の模様が「P」なのだろう。同じようにずっと赤いままなのだろうか。
「おい、何にやにやしてんだ。晩飯になりそうなのをしめとけ。Pみたいなのは駄目だぞ」
「あ、うん」
 最近、ぼくはしめの練習をしている。赤が残って出荷できそうもない、でも熱を通せば食べられるやつを選んで、うちの食事にするのだ。
 腹を上にしてカバラオを持つ。後ろの吸盤足ではない、前の方の足の対角線上に神経中枢とかいうのがあるので、そこに2カ所、薬を塗った針を刺す。うまくやれれば仮死状態になり、腐らないし成長もしなくなる。カバラオは生きたまま炒めないとおいしくないので、出荷にはその作業が不可欠だ。
 まだぼくはうまくやれない。いくら刺しても仮死状態にならなかったり、変なところを刺して殺してしまったりする。父さんは百発百中だ。見ていると本当に跡を継げるのか心配になってくる。
「あ」
「どうした?」
「やった…」
 喜ぶより驚いてしまった。2カ所刺したら、手の中のカバラオが動かなくなったのだ。死んでもいない。あまり何も考えずにやったのに、成功した。1回で成功するのは初めてだった。
「……よし」
 父さんはそのカバラオをつまみあげてしばらく見てから言った。
「まあ、最初はまぐれからだ」
 放り投げるようにして返してくれた。ぼくは仮死状態のカバラオをもう一度ながめて、急に悲しいような気分になった。
 Pがこんな目にあわなくてよかった、と思った。よかったな。お前は生きて、子供を作れるんだ。心の中でそんなふうに呼びかけた。

 次の日の朝、ぼくはまだ暗いうちに目が覚めた。
 なぜか飛び起きた。少し考えてから、飼育場に走り、まっすぐにPの巣箱にかけよってのぞきこんだ。
 Pはいなかった。あわてて他の巣箱を探した。どこにもいない。
「P!」
 返事があるわけがないのに大声を出した。
 父さんがまた別の巣箱に移したのだろうか。そんなはずはなかった。Pのいる巣箱には「P」と書いた紙が貼ってある。ぼくはもう一度、その巣箱をのぞきこんだ。
「……いた……」
 思わず声が出た。
「おい。どうした」
 父さんが入ってきた。
「父ちゃん……。Pが」
 ぼくはどう言ったらいいのか分からず、巣箱の中を指さした。父さんは巣箱の中を見て、しばらく目をぱちぱちさせていた。
 Pはそこにいた。背中の模様は「P」のままだった。
 けれど体の色は一晩ですっかり赤が抜け、いつでも出荷できるような灰色になっていた。
「どうしてだろう……」
「…………」
「父ちゃん」
「……やってくれるな」
 父さんは天井を見上げてため息をついた。
「最高にいい色になっちまった。なんなんだこいつは」
「出荷するの?」
「しない。他のやつがその色なら絶対出荷するけどな。そいつなら、その色でも即死の毒持ってるかもしれない」
 そんなはずはない。でも、Pならあるかもしれない。ぼくもそう思った。
「じゃあ、やっぱり子供作らすの?」
「…………」
 父さんは無言でPをつまみ上げた。Pはおとなしくしていた。
「父ちゃん」
「こいつは本物の毒だ。何かに使おうとするとひどい目にあう。毒っていうのはそういうもんなんだよ」
 父さんは通路をゆっくり歩いていって、ストーブの中にPを放り込んだ。ぼくはぼんやり立っていた。カバラオが焼けるときのいいにおいがして、すぐ消えた。
 ぼくはきっと、ほっとしていたのだと思う。だってぼくは、Pをどうしたらいいのか分からなかったから。ぼくも大人になったら、こんな時にどうしたらいいか、すぐ分かるようになれるのだろうか。そんなことを考えた。
 ストーブを見ながら黙っていたら、父さんが僕の横に立って言った。
「俺もあいつが好きだったよ」
 父さんはぼくが悲しんでいると思って、慰めてくれたのかもしれない。それとも、ただそう思ったからそう言っただけだったのだろうか。
 ぼくはやっぱり何も言わなかった。ストーブの炎は、Pの体の本当の色に少し似ていると思った。
「おい、選別するぞ」
 後ろから父さんがぼくを呼んだ。ぼくはあわてて走っていった。
 道端に鍵が落ちていた。
 鍵だけ落ちていたのではなかった。横を通りながら見たら、鍵には針金か何かで結びつけた紙がついていて、立ち止まらなかったからよく見えなかったけど、それにはどうも住所が書いてあったようだった。
 うわあ、とわたしは歩きながら思う。冒険の始まりみたいだ。でもすごく安っぽくてくだらなくてへなへなした冒険なんだ。

 帰り道、そこにはもう鍵はなかった。誰かが拾ったのだ。ああ。
 そんな安っぽくてくだらなくてへなへなした冒険、わたしは絶対拾ったりしない。でも、そんな安っぽくてくだらなくてへなへなした冒険は、わたしにこそふさわしかったのに。
「あのババア、説明書もねえのか」
 洞窟の遺品を整理しながらヤギは舌打ちをした。
 不死身なんじゃないかと噂されていたシーツ婆さんが600歳を超えてとうとう泡になった。人魚の寿命は平均300年。普通の人魚の倍以上もの時間、海底にとどまっていたわけだ。
「ヤギ。無理だよ、あきらめよう。ここの薬の効能はみんな婆さんの頭の中だ」
「冗談じゃねえ」
 婆さんが暮らしていた洞窟には、妙な薬瓶がいくつも並んでいた。あの寿命の秘密もきっとこの中にあるはずだ。しかしどの薬にどんな効果があるのか、僕にもヤギにもまったくわからなかった。
「俺はもう282になるんだ。ああくそ、死にたくねえ、死にたくねえよ」
「じゃあ手当たり次第に飲んでみるかい」
「無茶言うな」
 婆さんの生前、洞窟からはよく不気味に濁った黒い水が流れ出たりしていた。塗るだけでウロコが全部剥がれるような薬を持っているらしいとも聞いた。人魚を人間にしたり魚にしたのを見たというまことしやかな噂まであった。一体、ここに並ぶ薬瓶のどれがどの噂に該当するものなのか。
「もう、寿命を延ばすような薬はないんじゃないのかな」
 見ているうちにばかばかしくなって僕は言った。
「なんでだよ」
「だって、婆さんは死んじまったんだぜ。薬があれば今も生きてるはずだろ」
「600年も生きりゃもう満足だろうよ」
 そうは言ったものの、ヤギはそれ以上薬瓶にさわろうとせずに洞窟を出た。このあたりの海はそれほど深くない。見上げれば海面の光がゆらゆらと動いている。
「なあマル、俺は死にたくねえんだよ」
 ヤギがまた言った。
「死んで泡になったらあのババアと同じようにあそこにのぼるんだ。それで泡がぱちんてはじけて、あのババアと混ざり合うんだ」
「気持ち悪いこと考えるなよ」
「たってそうじゃねえか。ああ、上であのババア、薄まってるといいけどな」
 ぶつぶつ言う言葉も上にのぼっていく。光の揺れ動く海面は今日もきれいだった。
 僕の住む街から一つ山を越えたところに猛毒の沼がある。沼の下流にある川の水さえとても飲めたものではないが、沼本体の毒の強さときたら、一滴飲んだだけで死に至ることもあるという。
 沼には魚がいて、水辺には草も生えている。その草を食べる生物も、その生物を食べる生物もいる。しかしここに住む動物や植物はどれも、他の地域にはいない、この沼のまわりにしか生息していない種類の生物だった。沼の毒水を飲まなければ生きていけないらしい。
 沼のそばには人間も暮らしている。僕たちとは別の種類の人間だが、それでも人間には違いないそうだ。沼の水を飲み、沼の生き物を食べて生きているらしい。
 僕がその沼の水の毒の強さを知りながらどこかで甘く見ていたのは、その沼のそばで暮らす人間がいると知っていたせいかもしれない。沼のそばまで行ってみようと思ったのはちょっとした冒険心からだった。
 腐ったようなすさまじいにおいに息がつまる。空気が目にしみる。頭がぼんやりして、立っていられなくなった。沼にそこまで近づいたわけでもない。それなのにこの始末だ。ここまでの毒だなんて思っていなかった。倒れたら死ぬような気がしたが、体から全ての力が抜けていった。

 腐ったようなにおいの中で目を覚ました。倒れた時の空気よりはだいぶましだったが、頭はぼんやりして、体はおそろしく重かった。
「お、起きた」
 部屋の中にいた男が、体を起こした僕を見てそう言った。僕は彼を見て息を飲んだ。
 話に聞いたことがある、「沼の男」だった。体に紫や緑や灰色をしたたくさんの斑点があって、それが形を変えながら生き物のように動いている。沼の男、沼の女、沼の人々。僕らとは違う、この沼のそばで生きる種類の人間だ。
「あんた、山の向こうの人だろう?」
 斑点がぐにゃぐにゃ動いているせいで表情がわかりにくい顔が、僕に話しかけてきた。
「ああ」
「だめだよ、風下から沼に近づいたりしちゃ。何しに来たんだ?」
「別に……何か目的があったわけじゃないんだけど」
「じゃあ早く帰るんだな。ここの食べ物はあんたには毒になるから何もやれないけど、この水を飲みな。これだけは大丈夫だから」
 沼の男は水をコップについでくれた。僕はそれを受け取り、少しためらった。
「大丈夫だよ。一つ山を越えたところにある泉の水だ」
 おそるおそる、一口飲んだ。口の中に、これまで味わったことのない素晴らしい感覚が広がった。体の中にたまっていた毒が、溶けて流れていくような気がした。こわばっていたものがゆるむ。僕はコップの中の水を見た。きっとごく普通の水なのだろう。だが毒に満ちたこの場所では、特別すぎるものだった。
 沼の男は少しずつ水を飲む僕を不思議そうな顔で見ていた。
「うまいかい」
「ああ」
 僕は長いため息をついた。やっと他のことを気にする余裕が出てきた。
「……この沼に住む人は、沼の水しか飲まないと聞いたけど」
「そうだな。おれたちはそんな透明なもの飲まないよ」
「じゃあ、なんでこの水が置いてあるんだい」
「時々くみに行くんだ。たまには必要だからね。あんたみたいなのも来るし」
 沼の男は明るく笑った。
「水だけじゃなかなか元気になれないだろうけど、まあしばらく休むといい。出発する時は声をかけてくれれば、道が分かるところまで送っていくよ」
「ありがとう」
 語りかける笑顔に好意がにじみ出ていて、僕は少し戸惑った。
 沼の人々。彼らの先祖は昔何かの罪を犯して、街から追い出されたのだと聞いている。追い出されればこのあたりの山で生きるしかないが、それは容易なことではない。沼から出る毒のため、山は枯れ果てているからだ。
 しかし、その毒を出す沼の周囲は枯れてはいなかった。毒の水を飲み、他の土地では生きていけない動植物がたくさんそこに住んでいた。人々は多くの犠牲者を出しながら、何代もかけて沼に近づき、とうとうここで暮らすようになった。その頃にはもう、人々はこの沼に住む他の生き物と同様、沼の水なしで生きていくことはできないようになっていた。
 そんな話から僕は、沼の人々は他の場所に住む人間を敵視しているとなんとなく思っていたのだ。
「ここに住んでいる人がいることは知ってたけど、想像してたのと違ってた。もっと恐ろしい人たちだと思ってた」
「ははは。毒を飲んで暮らしてるからか」
「そうかもしれない……いや、ごめん」
「別に謝ることじゃないよ」
「お礼をしたいけど、何かできることはあるかな」
「いいよ、気にしなくて。おれたちもそっちには世話になって……」
 言いかけて沼の男は口をつぐんだ。しばらくの沈黙の間に、僕は考えた。沼の人々はここの水を飲み、この水で育った生き物を食べないと生きていけない。僕らは沼の水を飲めば死ぬ。世話になりようがない、と思う。
「世話にって?」
 僕は降参するような気持ちで言った。沼の男は話そうか話すまいか迷っているようだったが、話したがっていることはなんとなくわかった。
「自分の街に帰っても、誰にも言わないか?」
「ああ」
 しばらく考え、彼は口を開いた。
「時々、先祖返りが出るんだ」
「先祖返り?」
「ああ。赤ん坊が……たまに、体に斑点がない赤ん坊が生まれる」
「……へえ」
「たいていは生まれる前に死んじまう。たまに生きたまま出てくるのがいるんだけど、ここで何か飲んだり食べたりしたらやっぱり死ぬ。母親の乳を飲んだって死んじまうんだ。だから生まれたらすぐ、山を越えてそっちの街に捨てに行くのさ」
 沼の男は、僕が持っているコップを見て目を細めた。
「5年前、おれは妹を捨てに行った」
 僕は何か言おうと思ったが、その代わりに水を少し飲んだ。
「ここのものは妹には全部毒になる。だから、その水……あんたが今飲んだのと同じ水を飲ませながら、なるべく早く走っていった。でもあまり乱暴に走るわけにもいかなかった。妹は小さくてふにゃふにゃで、それに沼の毒のために弱ってたから。参ったよ。どうしたらいいのかわからなかった」
「それで……街には着いたのかい」
「ああ。ずいぶん弱ってたけど、どうにかね。ちゃんと捨てて、ちゃんと拾われたよ。おれ、見てたんだ」
「よかった」
「うん。……その透明な水を見ると思い出すな。おれは自分のための沼の水と、その透明な水と、2つ水筒を持ってた。間違えて自分の水を妹にやったら死んじまうってことが不思議でしょうがなかったっけ。いや、行きは夢中だったけど、帰り道ではそういうことを色々考えた」
「…………」
「元気でいるかな。あっちでうまくやれるかな」
「きっと元気だ。うまくやってるよ」
 僕がそう言うと、沼の男は笑ってうなずき、そう、うまくやってるに決まってる、あいつは沼の水が飲めないんだから、と少し寂しそうにつぶやいた。
「おれは時々神話ってやつのことを考えるよ」
 やめてくれ、そんなことを言うのは。
「神が本当にいようがいまいが、神話は神じゃなくて人間が作るもんだ」
 あんたはそこまで衰えてしまったのか。
「この世を作った神の名前を考えたり、その神が作った最初の人間の名前を考えたりしたやつは、その神話をちっとも信じちゃいなかった。なぜってその話を考えたのは自分だからさ。作るっていうのはそういうことで、おれはそれをすばらしいことだと思うんだよ」
 昔のあんたはそんなことは言わなかった。息を吸うように人をだまし、息を吐くように金を巻き上げた。まばたきをするように姿を変え、心臓を動かすように嘘をついた。天才詐欺師、詐欺の神。そのすべてを当たり前のようにやっていたのに。

 街から街を渡り歩く。理想の世界、世界を変える方法を、人を集めて話し続ける。人々は感動し熱狂し、涙を流し握手を求める。集まった寄付金を持って街を出る。
 彼の言葉の魔力の効果は3日、長くても1週間だった。時間が経てば人々は、だまされたことに気づく。その頃には彼はもう別の街、別の名前、別の姿で、人々を熱狂させていた。
 天才詐欺師。本当の名前は誰も知らないが、ある大きな街で名乗ったハル・ガロンという名前で知られていた。

「あいつ、ハル・ガロンだろう?」
 人々が、詐欺師と知りながら聞きに来るようになったのはいつの頃からだっただろう。最初は聴衆の一部、次第にその割合は大きくなっていた。
 彼の話はすばらしいままだ。人々は目を輝かせ拍手を送る。けれども衰えた。もう、誰も彼の話を信じてはいない。
 神話のことを考えると彼は言った。神話の作者はその神を信じないって話だったっけ。今はもう、ハル・ガロンの話は神話じゃない。誰も信じてはいない。話している彼自身がそうであるように。
 お別れだ、ハル・ガロン。あんたは終わったよ。何も言わず、彼の元を離れた。

 それから何年も経って、時々思い出すのは神話作者の話だ。誰もが信じている神を、一人だけ信じていない誰かのことを考える。自分の話を信じない者が現れて、ようやく一人ではなくなる誰かのことを思う。けれどそれでも、全ての人々をだまし続けてほしいと思っていた、そんな自分こそ一体何を欲しがっていたのだろう。
 ハル・ガロンは今も元気でやっているそうだ。近くの街に来ていたと聞いたけど、見に行く気にはなれなかった。
 もう少し大人になったら、僕はこの村を出ていこう。生まれ育った村ではあるけど、この村を好きだったことは多分一度もないと思う。

 村の近くに森がある。山から風が吹き降りてくると、あの森の木々はぶつかり合って太鼓のような音を立てる。葉が笛のような音を出す。巨木のウロが鳴り響く。それらすべてが組み合わさってリズムを作り、毎日違う音楽を村に送ってよこすのだ。また始まった、と思うことさえないほど、それは毎日当たり前に聞こえていた。7歳の時、初めて村の外に出るまで、僕は他の場所では音楽が聞こえないということを知らなかった。
 早く村を出たい。もう少し大人になったら村を出て、音楽のない静かな場所で、自分の思う通りに暮らすのだ。

「おはよう!」
「おはよう!」
 跳ねるように歩き、すれ違いざまにくるりと側転、着地しながら挨拶を交わした。やや強めの風が森から運んでくる今日の音楽は、やたらと軽快なものだった。心が勝手に浮き立ち、体が音楽に合わせて動く。
「大丈夫かい、じいちゃん」
 僕は飛び跳ねながら、やはり軽やかに動いている相手に声をかけた。もういい年だ。こんな動きはつらいだろう。
「さあな。明日は起きあがれないかもしれん」
 ひときわ高く飛び、空中で一回転しながら何かを蹴るような動作。
「腰痛めるぜ」
「しょうがない」
 そうだ、しょうがない。森からの音楽に逆らえる者など誰もいないのだから。
 遠ざかってゆくじいさんの後ろ姿を見ながら、音楽に浮き立つ心とは別のところにわきあがる苦い思いをかみしめた。こんな風の強い日は、いつもあの日のことを思い出す。

 2年前。革命軍と名乗る連中がこの近くにやってきた。都でのクーデターに失敗して落ちてきたと噂に聞いた。
 革命軍は近隣の村を脅して食料を強奪した。彼らはこの村にもやってきて、そして集められた食料が少ないと言って怒り始めたのだ。
「革命の意志に逆らうのだな」
 見せしめだとわめき、殺戮が始まった。
 風の強い日だった。森からは速いテンポの明るい曲が大音量で流れていた。革命軍の男は曲に合わせて華麗に動き、村の男はまるで打ち合わせたような無駄のない動きで剣を体に受け、跳ね上がって倒れた。革命軍の男が2人同時に剣をふるい、2人の村人が切られて線対称な動きでくるくると回り、同時に血を吹き上げて絶命した。
 僕らは「おお」と恐れおののき悲しみをあらわにしながら、曲に合わせて惨劇を盛り上げる踊りを踊った。殺戮が続き、まわりで踊る者の中にも犠牲者が出た。致命傷に至らなかったのか、曲に合わせてよろめき「ああ」と悲鳴を上げた男の首を、革命軍の男がはねた。倒れた体を踏みつけ、剣の先に首を刺して高々と上げ、叫ぶ。
「貴様らもこうなりたくなければ! 3日以内に残りの分を用意しておけ! いいな!」
 ジャーンと森からクライマックスを表現する音が響き、僕らは革命軍を恐れ敬い仰ぎ見るポーズをとった。そのポーズに送られて、革命軍は堂々と胸を張った立派な姿で立ち去っていった。
 彼らが去った後、風はやんでいた。しばらくぼんやりと立ちすくんでいた村人たちの中から、しくしくとすすり泣く声が聞こえてきた。

 革命軍はそれからすぐに国の軍隊に鎮圧され、村にはそれ以上の被害は出なかった。けれど僕はもう、この村の何もかもが許せないのだ。
「もう少ししたら、この村を出ようと思う」
「……そう」
 僕がそう言っても両親は驚かなかったし、止めもしなかった。
「自分に合った場所を探すのもいいことだろう」
「いつでも戻ってきなさい」
 村を出ていった人は何人もいる。出ていって戻ってきた人もいる。いつだったか僕は戻ってきた人に、村の外の暮らしはどうだったか、聞いてみたことがあった。
「悪くはなかったよ。……ただ、長い間いると、耳鳴りがするんだ」
 その人はなんだかさびしそうにそう言って笑った。
 きっと父さんも母さんも、僕がすぐ戻ってくると思っている。そんな気がした。
(本当にそうなのかな)
 この村に戻りたいと思うことなんて、本当にあるのだろうか。
 あの森を見ながら、革命軍に殺された人たちのことを考える。優しくていい人たちばかりだったと思う。よけようと思えばよけられる刃を、体で受けて舞っていた。曲に合わせてあがる血しぶき。悲鳴。僕らはそのまわりで踊っていた。
 戻りたいなんて思うはずがない。もう太陽が沈みかけていて、森は真っ黒に見えた。風はあまり吹いていなかったけど、耳をすますと少し悲しい音が聞こえた。
 火喰い獅子 [ひくいじし]
 獅子によく似た姿の、炎を主食にする生物。雄の頭部からは炎が吹き出し、たてがみの形をなしている。この炎は、一度消えると再び発することはない。たてがみを失った雄は群れを離れる。また炎を喰う習性も失い、肉食になる。

*                  *

「た……助けて……」
 命乞いする余裕のある、珍しい獲物の喉を噛み裂いた。いたぶったりするのは好きじゃない。それに腹が減ってて一刻も早く食べたい。
 空腹というのがどういうものか、たてがみをなくして初めて知った。 ようやく一息ついて前足についた血を見るたびに、生きていくのは大変だと思う。同じ赤でも、群れにいた頃に食っていた炎の赤は、こんなに重い色ではなかった。
「さっき食ったばっかだろ」
「いいじゃねえか減るもんじゃなし」
 ちょっと腹が減れば仲間の頭から吹き出ている炎を食った。もちろんおれのたてがみも仲間に食われた。たてがみのない雌も当然、雄のたてがみを食いに来る。雌はたいてい好意を持っている雄のたてがみを食うので、よく誰はもてるだのなんだのという話になったものだ。
 おれのたてがみをよく食いにくる雌がいた。あんたの火はおいしいのよ、と彼女は言った。おれはそれを聞くと嬉しかった。いつか彼女と結婚したいものだと思った。

 えさの心配はいらなかった。たてがみの炎が消えないよう、雨宿りをする場所さえ確保していればいい。群れが住んでいたのは草も木もない岩場だった。雨を避ける場所はいくらでもある。少々雨にあたった程度では炎は消えないし、たてがみを失う心配をしたこともほとんどなかった。
 平穏な日々だった。おれはそれを退屈だと感じる愚か者だった。
 時々、岩場を抜け出して草原や森に行った。たてがみが木に触れれば燃え上がってしまうので、それにはいつも注意していた。そのために他のものへの注意がおろそかになっていたのかもしれない。おれはその日、湿った木の根に足をすべらせ、低い方向に転がった。落ちた先は池だった。泳げないながらももがいて、ようやく岸についた時には、頭のまわりがやけに寒くなっていた。
 池をそっとのぞきこみ、水面に映る自分を見た。水には近づかないようにしていたので、こんなふうに自分の姿を見たのは初めてだったが、今までと違うことはよくわかった。おれのたてがみはなくなっていた。

 群れには戻れなかった。一度帰ってみたが、みんなはおれから目をそらし、何も言ってくれなかった。おれと仲の良かったあの雌が、泣きそうな顔をしていた。
 みんながまとう炎が怖くてあまり近づけず、自分はもうみんなとは違う生き物なのだとようやくおれは実感した。炎を食えないなら、別のものを食わなければならない。この岩場では、おれは生きてはいけない。自分の愚かさのためにたてがみをなくしたおれを、みんなはうとんでいたのではなく、悲しんでいたのだと思う。今でもそう思っている。
「さよなら」
 情けない小声を出して、おれは生まれ育った岩場を後にした。

 おれは今、海を目指している。池や湖を何倍にも大きくしたものだそうだ。たてがみがあった頃は間違っても近づけなかったが、今なら行っていけない理由はない。
「ずーっとずーっと昔、最初の命は海で生まれたんだそうだ。それから長い時間をかけて数が増えていろんな形になって、その一部が陸に上がったんだってさ」
 昔、物知りな狐にそう聞いた。
「水の中で生まれたって? おれたちは水になんか近づけないぜ」
「だから、形が変わってそうなったんだ。俺だって水の中じゃ暮らせないさ」
 狐とは、群れにいた頃に仲良くしていた。火が怖いから近づけない、と言っていたが、声が届く程度の少し離れた距離でよく話をした。
 狐は物知りだったから、炎を食うおれたちが他の生き物を食わないことも知っていた。たてがみをなくした後は、あいつとは会っていない。腹が減っている時に見かけたら、きっとおれはあいつを追いかけて食うんだろう。
 たてがみをなくしてから、おれはとても忙しい。いつも空腹に追い回され、獲物を追い回している。群れにいた頃は、今よりずっと暇だった。
 そのくせ、くだらないことを考える時間は増えた。命って何だろう、などと考える。群れの仲間や狐や、あの頃会った生き物を思い出すたびに考える。今おれの前に現れて、おれのえさになった生き物の残骸を見るたびに考える。そんな暇なんかないのにそういうことを考えながら、おれは海を目指している。
 ある日突然、選手と容疑者の意味が入れ替わってしまった。
 しかしそのことに、誰も気づいていないのだった。

「原口ー! 原口サインくれー!」
 振り返り、にやっと笑うユニフォーム姿の男
「大人を呼び捨てにするような子にはサインはあげられないな」
「ごめんなさーい! 原口容疑者、サイン下さい!」
 差し出された色紙を受け取り、サインを始める原口。我も我もと寄ってくる他の子供たちも礼儀正しく、周囲の人々は、原口は野球容疑者の鑑だと感心した。

「容疑者か……」
「どうした原口。何ぼーっと突っ立ってんだ」
「なあ。変なこと聞くけど、俺たち昔から容疑者って呼ばれてたっけ」
「……おい、大丈夫か?」
「そうだよな。呼ばれてたはずだ。甲子園出て、ドラフトで指名されて……記者会見で自分でも言った……これからはプロ野球容疑者としてがんばります……言った、よな……」
「おい?」
「いや、何でもない。大丈夫だ」

「やはりこの連敗は四番の原口の不振、これが一番大きな原因ですね。ここ10試合でヒットが5本。しかもその5本も……ほら、当たりがいいとはとても言い難い」
「珍しいですね。原口容疑者がこのように調子を落としているところ、私は初めて見るんですが」
「そうですね。原口は大きく調子を落とすといったことはあまりない容疑者なんですが……まあスランプのないスポーツ容疑者なんていませんけど、ここ一番という時には必ず活躍する、そういう容疑者なんですよね、彼は。それがこの大事な時に今までにない不振。気になります」
「ケガをした、ということではないんですよね?」
「本人もそれは否定していますし、私もこれは……なんというか、メンタル面の問題ではないかなと思います。彼の長所であった思い切りのよさが影を潜めている。何か迷いがあるんじゃないでしょうか、プロ野球容疑者としての」

 背景の球場を手のひらで示しながら話すリポーター
「ここ、青淵球場で起きた惨劇。なんと試合前のロッカー室で、コーチが殺害されるという事件が起こりました。一体何があったのでしょうか!?」
 ジャジャーン ババババー ドババー
 効果音が鳴り響き、「血染めのバット」「犯人は容疑者!?」などの見出しが赤い毛筆体で画面に現れる
「……そして現場で発見された血染めのバット、これがなんとチームの四番打者、原口容疑者のものだったというのです。警察は現在、重要参考人として原口容疑者に同行を求め、事情を聞いています」

「午後7時34分! ついに逮捕です! 原口選手逮捕! 原口選手は容疑を大筋で認めているということです。 グラウンドの外でもファンを大切にしていた原口選手。野球容疑者としての誇りを持ち続けたいと語っていた原口選手。その原口選手に一体何が起こったのか? 動機の解明が待たれます」
 画面変わって沈痛な面持ちのニュースキャスター
「はい、ありがとうございました。……本当に残念です。個人的なことで申し訳ないんですが、私も原口容……原口選手のファンでした。いつも全力のそのプレーには何度も励まされました。なぜ、このようなことになってしまったのか……。あの野球への真摯な姿勢、グラウンドの内外で見せたファンへの優しさが嘘だったとは思えません。原口選手には、容疑者の頃のあの姿勢で、事件としっかり向き合ってほしいと思います」

「おい原口、そんなもの見て楽しいのか。原口選手なんて呼ばれて……お、また言った」
「…………」
「原口選手、か。事件に最初から関わってた俺でも、どうも違和感があるな。お前が平気な顔でそのテレビ見てられるのが信じられん」
「そう悪いもんじゃありませんよ、刑事さん」
「へーえ」
「いや、本当に。なんでだろうな」
 通勤3箇月
  紅上  ←→  ||[||(=|{:||

(……文字化け?)
 朝。紅上駅の自動定期券売機で、今日からの定期券を買った。紅上駅から大鋤駅、と入力したはずだが、大鋤と書かれているはずの部分が妙なことになっていた。まったく読めない。
 いつもは継続で買っているが、今日は前の定期を家に忘れてきたので新規で買った。入力箇所が多かった分、時間がかかっている。いつも乗っている電車の発車時刻までもう間もない。駅員を呼べばきっと買い直しになるだろう。駅名表示が変なだけなら使えるかもしれないと思い、私はとりあえず自動改札に急ぎ、その定期を入れてみた。
 がしゃ、といつも通りに改札が開いた。急ぎ足で通り抜けながら、やはり変なのは表示だけらしいと思った。それなら帰りにでも取り替えてもらえばいい。左に曲がって一番奥にある階段を下りれば、いつものホームだ。発車のベルが聞こえ、私はあわてて電車に飛び乗った。
 おかしいと気づいたのはその直後だ。満員のはずの電車がガラガラだった。窓の外を見ると、いつも乗っているのと同じ色の電車が見えた。その後ろのホームの番号。7番線。いつも私がいるはずのホームだった。
「あー……?」
 思わず間抜けな声を漏らしながら、遠ざかる駅を呆然と見た。何年この駅使ってるんだ、今さらホーム間違えるなんて……と力が抜ける感覚の中で考え、その後でやっと状況の異常さに気づく。私がいつも使っている7番線は一番端で、その向こう側にはホームなどなかったはずなのだ。

「:[||ー、||[||(=|{:||ー、||[||(=|{:|| ー、+*゙゙||-'/|。//#-||]……」
 やけに長く感じる10分が過ぎた時、電車の中にアナウンスが響いた。いつも聞いているのと同じような調子の、次の駅名を言っているらしいアナウンスだったが、普段耳にしている言葉とはまったく違っていた。何を言っているのかさっぱりわからない。
 一体なぜこんなことになったのか。恐ろしくて妙な汗が出た。しかし10分の間に悪い想像をしすぎたせいか、私はそれでも次の駅に止まるらしいことに少しほっとした。定期があるのだからきっと引き返せるだろう、と思った。
「||[||(=|{:||ー、||[||(=|{:|| ー、{{{~-=[[……」
 電車が止まり、到着アナウンスが流れて扉が開く。おそるおそる降りたホームは、見覚えはないがよくあるつくりのように見えた。しかし目立つところにある駅名の看板を見れば、ここがどこか遠い場所なのだということは一目瞭然だった。
『||[||(=|{:||』
 どうやら定期に書いてある駅名のようだ。定期に書いてあるのだから帰れる、帰れる、とひたすら自分に言い聞かせる。電車では他に乗っている人を見かけなかったが、ホームには他の乗客も駅員もいた。時々聞こえる声が何を言っているのかさっぱりわからないのは恐ろしいが、人々の様子や雰囲気は、今まで何度も見てきた駅の光景と特に違いはなく、ほんの少しだけ緊張が薄れた。
 きょろきょろしていると、近くにいた駅員と目があった。
「|||#']]{{[||/?」
 どうやら、どうしましたと聞かれているらしい。親切そうな駅員の様子にほっとして、私は定期を見せて「紅上」と書いてあるところを指さした。通じないことは分かっていたが、間違えて乗ってしまったんですと思わず言った。
「||[]]]]]--==~[]]!」
 しかし口から出たのは、周りの人々と同じ、意味の分からない言葉だった。いや、もう意味は分かる。自分でその言葉を口にしたとたん、周りのざわめきもたちまち意味のある言葉が重なったものになった。
「=-||//+[[[、|||=(((/(({{[[-」
 駅員はにこにこ笑いながら言った。私は礼を言い、言われた通り反対側のホームで待った。すぐ電車が入ってきた。

 扉が閉まった。この電車も無人だった。
 よかった、帰れる、と安心したら、急にここは一体どんな場所なのかが気になった。来た時には恐ろしくて見ることもできなかった窓の外を、今度は窓に貼りつくようにして見た。
 高さ1メートルくらいの小さな活火山のようなものが、地面にたくさん並んでいるのが見えた。薄い紫色の煙を噴きあげ、空を同じ色に染めている。その空では色とりどりの大きなボールが飛び交っている。ボールの一つ一つに人がまたがっていて、どうやら何かのスポーツらしくそれぞれが両手にスティックのようなものを持っていた。その横を、白いきらきらした蛇のような形の生き物が、体をくねらせながら飛んでゆく。そのしっぽに誰かつかまって、下の方に手を振っている。赤とピンクだけでできた虹が遠くの方でかすんでいた。
 そううもののすべてが、電車が進むにつれて遠ざかっていく。私はぼんやりと、だんだんと薄れていくその光景をながめていた。
「次はー、紅上ー、紅上です」
 さっきまでとは違う、いつも聞いている言葉のアナウンスが聞こえた。
 べにがみ、と小さな声で言ってみた。ちゃんとその通り口から出てきてほっとする。
 例の定期をつくづくと見た。紅上駅の事務室にでも行けば、この定期を交換してくれるだろう。けれど、私にはもうそんな気はなくなっていた。
 次の休みの日に、また||[||(=|{:||に行ってみようと思う。大丈夫だ。行けるし、帰れる。私は定期を持っているのだから。これは3ヶ月の定期だけど、自動券売機で継続すればその後も買えるかな、などと気の早いことを考えた。
(あ、大鋤までの定期も買わないと)
 本来買うはずだった定期はまだ買っていないことになる。思わぬ出費だ。
(そういえば今日はもう完全に遅刻だ)
「紅上ー、紅上ー、ご乗車ありがとうございました。お降りの際は足下にご注意ください」
 電車を降りながら、私は遅刻の理由を考え始めた。寝坊した、でいいかなと思う。もっと時間に余裕があれば、あの定期が券売機から出てきた時に交換してもらっていただろうから。
 参勤交代! 諸藩のトップたちが定期的に江戸と本国とを往復する制度!
 この制度は制定当初から、ある事態の頻発を予想されていた。厳しい身分制度で固められた幕藩体制において決して許されない行為、直訴である!
 だが、厳しい法度を設ける際には必ず目立つ形で小さな例外を作るべし、それが民衆をコントロールする秘訣であると考える幕府重鎮たちにより、御法度である直訴にも例外の場所が作られていた。参勤交代の大名が必ず通ることを義務づけられた、直訴完全フリーの1里(約4km)! 起伏に富み障害物の多い地形は、行列に有利か、訴人に有利か? 今年も熱い訴状バトルが繰り広げられる!

「来やがった! 土煙だ!」
 木から飛び降り、息せき切って報告する男
「速えぞ! ありゃ峠を一気につっきる気だ!」
「何…! この峠を一気にだと!?」
「そんなことができる行列を擁する藩主はただ一人……」
「室戸藩主、高村宗晴!」
 待ちかまえる訴人たちに緊張が走る
「駕籠に近寄る訴人は切り捨てて当然と考える大名が多い中、純粋に行列の動きで訴状をかわすことを信条にしている宗晴公」
「江戸でも国元でも、行列を構成する者たちはすさまじい訓練を繰り返しているという」
「訴人を切り捨てることはないが、訴状が宗晴公の体に触れたことは一度もない」
 畏敬のこもった口調で語られる藩主像
 そこへ別の見張り役が木から飛び降りてくる
「間違いない、あの旗。室戸藩の行列だ。とんでもない速さだ! それにあの行列の動き、まるで一匹の獣のようだ! 前回よりもさらに力をつけている!」
 ざわめき、中には意気阻喪する者も現れる
 しかし逆に闘志を燃やす者もいる
「それでこそ宗晴公だ。こいつを叩きつけるのにふさわしい」
 訴状を挟んだ竹を構え、不敵に笑う訴人たち
「来たぞーっ!」
「何!?」
「馬鹿な、速すぎる」
 あわてて体制を整えようとする訴人たちの前に、予想をはるかに超えた速さで現れる大名行列
 ひるむ者もいるが、そうでない者は我先に行列に向かって駆けだす
「お願いでございます」
「お願いでございます」
 わめきながら藩主の駕籠に殺到する訴人たち
「お願いで……あっ!」
 訴人の動きに合わせ、うねり波打つ大名行列
 行列の中の数人が体でジャンプ台を作り、ダミーの駕籠を目につくように空中に飛ばしてまた受け止める等の高度な技を繰り出しながら、巧みに訴人を避けてひた走る
「お願いでございます!」
 駕籠をめがけて木から飛び降りてきた訴人を、最小限の動きでやすやすとかわす行列
「お願いでございます!」
 地面に掘った穴から飛び出した訴人を、華麗なターンワークでかわす行列
「お願いでございます!」
 体中に木の葉をまとうことで沿道のしげみになりきっていた訴人にスライディングタックルをしかけ、訴状を挟んだ竹を見事にはじき飛ばす行列
「くそっ…! なんて行列だ」
「去年江戸から出た時はここまでじゃなかった」
「こいつら、どれだけ訓練を積んでるんだ」
 訴状を挟んだ竹を前へ前へと突き出しながらも驚きを隠せない訴人たち
「直訴の許された1里もそろそろ終わる」
「だが行列もこんなペースで最後までもつわけがない。勝負はここからだ」
 1里が終わる地点付近で勝負を賭けようとする訴人は数多かった
「目には目を、駕籠には駕籠をだ」
 中に、大名駕籠を用意し、行列に紛れこみつつ訴状を渡す作戦を立てた者がいた
 2人が駕籠かきになり、1人が駕籠の中から訴状を挟んだ竹を突き出す作戦だ
 疲れのためか行列の速度は若干ゆるみ、動きも鈍っている
「今だ……!」
 うまく行列に紛れこむ
 後は1里が終わる前に藩主の乗る駕籠に近づき、訴状を突き入れるだけだ
 そう思った時だった
「お願いでございます」
 目の色を変えた訴人がにせの大名駕籠の前に立ちふさがった
 他の訴人たちもつられるように駆けよってくる
「違う違う、俺は違うんだ」
 必死の否定も訴人たちの声にかき消される
「お願いでございます」
「お願いでございます」
 その間に本物の藩主が乗った駕籠は直訴の許された1里を抜けた
 それを確認し、にせの大名駕籠に最初に駆け寄った男がうなずき、身につけていた衣を一枚脱ぎ捨てる
「ああっ!」
 驚く周囲の訴人たち
 現れたのは袴姿の侍だった
「あれは室戸藩士! 訴人の中に紛れこんでいたのか!?」
 周囲を睥睨し、隙のない身のこなしで大名行列に合流する侍
 直訴の許された1里が終わり、うってかわって厳かに進み始める行列
 それを見送る訴人たち
「負けたぜ。完全に負けた」
「ああ。だが、来年こそは」
「見てろよ、宗晴公。必ず国元に俺の訴状を持ち帰らせてやる」
 決意の表情を浮かべ、渡せなかった訴状を竹から抜いてビリビリと破る訴人たち
 今年も峠の高台から、訴えのきれはしが風に舞った