カワシジミチョウの幼虫はカバラオと呼ばれている。見た目はそこらへんのいもむしと大差ないけど、フライパンで炒めるとちょっとびっくりするくらいおいしい。
ぼくの家は何代か続くカバラオ産家だ。ぼくも大人になったらきっと父さんの跡を継ぐ。カバラオを育てるのは難しい。5千匹飼っても、出荷できるのは百匹くらいだ。といっても別に飼ってるうちに死ぬというわけではない。
カバラオには毒がある。生で食べたら即死するような毒なのだそうだ。特別な餌をやったり(すりつぶしたキハスソウの根を酢につけたものがよく効くけど、あまり食べようとしないので食べさせるのに苦労する)、朝、昼、晩となるべく温度差をつけたり(差をつけすぎると死ぬので注意が必要だ)、いろいろ工夫して育てていくとだんだんと毒が抜けていく。さなぎになるより先に毒が抜ければ出荷できる。
毒が抜けたかどうかは見れば分かる。カバラオの体の色はちょっとオレンジがかった派手な赤で、その赤が毒が抜けるに従って薄くなっていく。灰色になったら出荷だ。ちょっとでも赤が残っていたら出荷せず、焼却したり、食べられそうなやつはうちで食べたりする。
火を通せば、ちょっと赤くても本当は大丈夫だ。カバラオを生で食べる人なんていないし、もっとたくさん出荷することもできると思うけど、父さんは絶対、完全に灰色になったやつしか出さない。もったいないな、と昔は思ってたけど、ぼくにもだんだんとわかってきた。どこかで線を引かなければならないことと、その線は一番厳しいところに引くべきだということ。
「将来のことを心配しなくていいってのは幸せなことだな」
ある時、父さんがふと言った。ぼくは意味が分からなかった。
「俺は幸せ者だってことさ」
父さんは僕を見て笑っていた。ぼくはやっぱり何のことか分からず、その日の夜、寝る前になって、あれはぼくをほめてくれたのかもしれないと思いあたった。違うだろうか。色々考えていたら、なかなか眠れなかった。
Pを見つけたのは、多分それから二ヶ月くらい後のことだったと思う。
ぼくはいつものように巣箱を見回っていた。カバラオはまだ孵化して間もない頃で、体長は1センチくらい、真っ赤な色、背中の焦げ茶色の模様のせいでよけい毒々しく見える。
こんな虫を最初に食べようと思ったのは誰なんだろうなあ、と思った時に、目に入ってきたのがPだった。
「父ちゃん。こいつ、なんか変だぜ」
「どうした」
「ほら、背中の模様が違う」
カバラオの背中には、焦げ茶色の輪のような模様が節ごとに一つずつついている。けれど、ぼくが見つけたそのカバラオの背中の模様は「O」ではなく、Oの一部が飛び出て全部「P」のようになっていた。
「病気かな」
「模様が違うやつはたまにいるよ。ま、これはちょっと珍しいかな」
父さんはPのカバラオをじろじろ見て、
「大丈夫だろ」
そのまま他の巣箱の様子を見に行ってしまった。ぼくはそのカバラオが変に気になって、しばらくそこでそいつを見ていた。
Pはしだいに目立つようになってきた。体が大きくなって、背中の「P」がよく見えるようになったのもあるけど、それだけではなかった。
「真っ赤だな」
父さんはあきれたように言った。他のカバラオの赤がだんだんと抜ける頃になっても、Pは生まれたばかりのような赤さだった。まわりの赤が抜けたせいで、前よりも赤さが増して見えるほどだった。
「出荷できそうにないね」
ぼくはそう言いながら、なんだか楽しい気分になっていた。出荷できるのは良いカバラオで、出荷できないのは悪いカバラオだ。けれど、赤をずいぶん残したままサナギになるやつなんかを見ると、偉いな、という気持ちになったりもする。Pもきっと、赤いままサナギになるのだろう。
「少しは白くなれ、P」
「名前なんかつけるなよ」
父さんは苦笑した。
「ここまで赤いやつは初めて見た。もうカバラオじゃないな、それは」
「え?」
「カバラオっていうのは食えるやつのことをいうんだ。どう見てもそいつ、食えるようにはならないだろ。だからカバラオじゃなくてカワシジミチョウの幼虫か、毒いもむしだ。な」
「そうか。じゃあこいつは毒いもむしのPだな」
「そうだな。毒いもむしのPだ」
父さんは笑っていた。どくいもむしのP、という言葉の響きがおかしかったのだと思う。ぼくもなんだか面白くなって笑った。
「でも、カバラオじゃないのにこのまま置いといていいの?」
「餌の無駄ってことか? 出荷できないやつなんか他にもいくらでもいるだろ」
「そりゃそうだけど。でもこんなに赤いやつなんか他にいないよ」
「真っ赤でもちょっと赤くても、一文にもならないのは同じさ。それに、赤いやつを捨てると、他のやつらの赤抜けが遅くなる」
「そうなの?」
「そうさ。どういうわけかそうなってるんだ。うん、それだけ赤ければ、他のやつの赤抜けが早くなるかもしれないな。がんばれ」
父さんはPに声援を送った。
それが冗談ではなくなったのは数日後、カバラオの色に差が出てくる時期に入ってからだった。Pと同じ巣箱のカバラオは、他の巣箱よりも明らかに赤抜けが早かったのだ。
父さんはPを他の巣箱に移した。3日後、その巣箱を腕を組んでじっと眺めながら言った。
「やっぱり早くなった」
ぼくにはその変化は分からなかった。父さんは少し興奮していた。
「これはすごいな。よし、そいつは羽化させて子供を作らせよう。うまくすれば似たようなやつが生まれてくる」
それを聞いて、ぼくはわくわくした。ちっとも毒が抜けない、本当だったら焼却されるはずのPが、毒が抜けないことで特別扱いされることになったのだ。すごいことだと思った。Pは殺されない。真っ赤なまま生きて、子供を作る。きっと子供も背中の模様が「P」なのだろう。同じようにずっと赤いままなのだろうか。
「おい、何にやにやしてんだ。晩飯になりそうなのをしめとけ。Pみたいなのは駄目だぞ」
「あ、うん」
最近、ぼくはしめの練習をしている。赤が残って出荷できそうもない、でも熱を通せば食べられるやつを選んで、うちの食事にするのだ。
腹を上にしてカバラオを持つ。後ろの吸盤足ではない、前の方の足の対角線上に神経中枢とかいうのがあるので、そこに2カ所、薬を塗った針を刺す。うまくやれれば仮死状態になり、腐らないし成長もしなくなる。カバラオは生きたまま炒めないとおいしくないので、出荷にはその作業が不可欠だ。
まだぼくはうまくやれない。いくら刺しても仮死状態にならなかったり、変なところを刺して殺してしまったりする。父さんは百発百中だ。見ていると本当に跡を継げるのか心配になってくる。
「あ」
「どうした?」
「やった…」
喜ぶより驚いてしまった。2カ所刺したら、手の中のカバラオが動かなくなったのだ。死んでもいない。あまり何も考えずにやったのに、成功した。1回で成功するのは初めてだった。
「……よし」
父さんはそのカバラオをつまみあげてしばらく見てから言った。
「まあ、最初はまぐれからだ」
放り投げるようにして返してくれた。ぼくは仮死状態のカバラオをもう一度ながめて、急に悲しいような気分になった。
Pがこんな目にあわなくてよかった、と思った。よかったな。お前は生きて、子供を作れるんだ。心の中でそんなふうに呼びかけた。
次の日の朝、ぼくはまだ暗いうちに目が覚めた。
なぜか飛び起きた。少し考えてから、飼育場に走り、まっすぐにPの巣箱にかけよってのぞきこんだ。
Pはいなかった。あわてて他の巣箱を探した。どこにもいない。
「P!」
返事があるわけがないのに大声を出した。
父さんがまた別の巣箱に移したのだろうか。そんなはずはなかった。Pのいる巣箱には「P」と書いた紙が貼ってある。ぼくはもう一度、その巣箱をのぞきこんだ。
「……いた……」
思わず声が出た。
「おい。どうした」
父さんが入ってきた。
「父ちゃん……。Pが」
ぼくはどう言ったらいいのか分からず、巣箱の中を指さした。父さんは巣箱の中を見て、しばらく目をぱちぱちさせていた。
Pはそこにいた。背中の模様は「P」のままだった。
けれど体の色は一晩ですっかり赤が抜け、いつでも出荷できるような灰色になっていた。
「どうしてだろう……」
「…………」
「父ちゃん」
「……やってくれるな」
父さんは天井を見上げてため息をついた。
「最高にいい色になっちまった。なんなんだこいつは」
「出荷するの?」
「しない。他のやつがその色なら絶対出荷するけどな。そいつなら、その色でも即死の毒持ってるかもしれない」
そんなはずはない。でも、Pならあるかもしれない。ぼくもそう思った。
「じゃあ、やっぱり子供作らすの?」
「…………」
父さんは無言でPをつまみ上げた。Pはおとなしくしていた。
「父ちゃん」
「こいつは本物の毒だ。何かに使おうとするとひどい目にあう。毒っていうのはそういうもんなんだよ」
父さんは通路をゆっくり歩いていって、ストーブの中にPを放り込んだ。ぼくはぼんやり立っていた。カバラオが焼けるときのいいにおいがして、すぐ消えた。
ぼくはきっと、ほっとしていたのだと思う。だってぼくは、Pをどうしたらいいのか分からなかったから。ぼくも大人になったら、こんな時にどうしたらいいか、すぐ分かるようになれるのだろうか。そんなことを考えた。
ストーブを見ながら黙っていたら、父さんが僕の横に立って言った。
「俺もあいつが好きだったよ」
父さんはぼくが悲しんでいると思って、慰めてくれたのかもしれない。それとも、ただそう思ったからそう言っただけだったのだろうか。
ぼくはやっぱり何も言わなかった。ストーブの炎は、Pの体の本当の色に少し似ていると思った。
「おい、選別するぞ」
後ろから父さんがぼくを呼んだ。ぼくはあわてて走っていった。