「いよいよ合格発表かあ」
「ドキドキするねー」
「いや、受験したの俺だから。何しに来たんだよみんなして」
「何って。へへへ」
「やっぱ胴上げをね」
「合格発表で胴上げって一度はやっておきたいじゃん」
「合格するとは限らないのに……」
「いいからいいから」
「受験番号いくつなの? みんなで探そう」
「870だけど……いいよ自分で探すから」
「いいからいいから」
「870ね」
「870、870……あ! あった!」
「あった!?」
「どこ!」
「あったの!?」
「ほら、あれ!」
「ほんとだ!」
「おめでとう」
「おめでとう!」
「それっ胴上げだー!」
わっしょいわっしょい
「ストップストップ! ストップ!」
「わっしょ……なんだよ」
「全然胴上げし足りないよ」
「お前ら乱暴すぎ! コンタクト取れた!」
「えっコンタクトが」
「地面に落ちたの? みんなで探そう」
「コンタクト、コンタクト……あ! あった!」
「あった!?」
「どこ!」
「あったの!?」
「ほら、あれ!」
「ほんとだ!」
「おめでとう」
「おめでとう!」
わっしょいわっしょい
ある日突然、世界中の鳩サブレがこなごなに砕けたとする。同時に鳩サブレの形を記録したものが全て消え、鳩サブレ工場にあったはずの鳩サブレの型やらなにやらもなくなってしまったとする。
一度は完全に世界から消えた鳩サブレ。しかし人々の記憶を頼りに型は作り直され、しばらくの時間をおいて復活するに違いない。
けれどもそれを買い、袋をあけた人々は悲しそうな顔をするだろう。味は同じなのに、形も同じように見えるのに、やはり何かが違う、と。
村を見下ろす小高い丘に、小さな墓が一つある。いつからあるのか、誰のものかもわからないけど、みんなはこの墓をとても大切にしている。
「明日は命日だ。墓参りに行くよ」
「俺はあさってが命日だ」
村の者の多くはそれぞれ「命日」を持っていて、その日になると丘を登ってこの墓に参る。毎日誰かの「命日」なので、墓は始終清められている。
ぼくはまだ命日を持っていない。他の人と同じ日を命日にすることはできないと決まっていて、この村の人口は四百人を超えているので、持っていない者もそれなりにいるのだ。けれど、ぼくは持っていない者の中ではいちばん年かさだから、次に村の誰かが死んだら、その人が持っていた命日をもらい、その日に墓参りをすることになるだろう。
別に命日がとてもほしいというわけでもないけど、でもなんとなく丘を見上げてあの墓が目に入ったりすると、頭の中に村の年寄りの顔をいくつか思い浮かべ、誰の命日をもらうことになるのだろうなんて考えたりもする。
「おい、千太」
「うわっ」
思い浮かべた顔の一つが目の前にあった。二軒隣の十郎さんだった。
「なんだ? なに驚いてんだ」
「別に驚いてないよ」
「そうだったかな」
どっこいしょと言いながら、十郎さんは道ばたの石に腰をかけた。
「千太。次に命日をもらうのはお前だったな」
「え? あ、ああ。たしかそうだよ」
「じゃあ、俺の命日をやる」
ぼくはぽかんとして十郎さんを見た。
「なんだいそりゃ? 十郎さん死ぬのかい」
「なに言いやがる縁起でもねえ」
「いや、だって……」
「だいぶ足が弱ってきてな、あそこまで登るのはちいと無理なんだ。だからやる」
「やるってそんな」
「ありがたく受け取れよ。いつだか知ってるか」
「たしか……あ、もうあと三日じゃないか」
「よく知ってるな」
「そりゃあ……」
ぼくの命日になるかもしれない日だと思っていたからだ、とはさすがに言いにくかった。
「なら話は早え。今からあの命日はお前のもんだ。三日後にはお前が行け」
「…………」
「いいな。俺の命日、たしかに渡したぞ」
「あ、うん」
「よし」
またどっこいしょとかけ声をかけて、十郎さんは立ち上がった。
「まあ命日なんてものは、若いやつが持ってた方がいいんだ」
ひとりごとのように言い、ずいぶんな早さで歩いていった。丘を登れないほど足が弱っているようには見えなかった。
墓に水をかけ、まわりを掃き清める。こんなにこの墓に近づいたのは初めてだ。別に禁止されているわけでもないけど、なんとなく近づきがたかった。
墓に向かって手を合わせると、ふしぎな感慨がわいてきた。会うことはできなかったけど、ぼくにとってとても大切な人が、ここに眠っているのだと思う。来年またここに来た時、ぼくはこの墓に何を言うのだろう。そしまたその次の年。次の年。立派な男にならなくてはいけないな。そんなことをなんとなく思う。何度か振り返りながら、丘を降りた。
家に戻る途中で十郎さんに会った。
「よう、どうだった。いいもんだろう」
まるで自慢でもするようにそう言った。
「うん、いいもんだった」
十郎さんはなぜ、ぼくに命日をくれたのだろう。あの墓の前で過ごすことのできる日、命日がどれほど大切なものか、今のぼくにはよくわかる。ぼくだったら、ちょっと足がつらいくらいで手放したりしない。
ぼくのためだったのだろうか。また頭の中に、村の年寄りの顔がいくつか浮かんだ。みんなあと数年は生きていそうだ。命日は若いやつが持っていた方がいい、と十郎さんは言った。ぼくも今もらえてよかったと思う。ぼくのために、ゆずってくれたのだろうか。
それとも……。頭の中に並んだ、村の年寄りの顔をもう一度見直した。十郎さんより先に逝きそうなのは誰だろう。3〜4人はいる。いや、もっとかな。本当だったら、ぼくが十郎さんの命日をもらうことはなかったと思う。
十郎さんには昔からかわいがってもらった。大切な日だからこそ、自分の命日をぼくに渡したかった、そう思うのはうぬぼれだろうか。
まあ違ってもいいと思う。ぼくは十郎さんの命日をもらえて嬉しい。
「ありがとう、十郎さん」
改まってお礼を言うと、十郎さんは少しそっぽを向いて笑った。
「おい、ロボ」
声を聞くと嫌な気分になる。私は確かにロボットだが、偉そうに大声でそう呼びかけるあいつは私の主人でも何でもないのだ。
「お呼びでしょうか」
「掃除は終わったのか」
「はい」
「じゃあ部品の点検をしてやる。腹のふたを開けろ」
またかと思う。点検ならおとといもやった。もっとも他に何かやることがあるわけでもない。私はいやいやながら筒状の胴体部のふたを開ける。あいつは時間をかけてたんねんに点検してゆく。今日一日はこれで終わるだろう。
「おい、ロボ」
私は大声で呼びかけた。突っ立っていたあいつがやってくる。
「お呼びでしょうか」
「掃除は終わったのか」
「はい」
表情はなくても、あいつが私に命令されることに抵抗を感じていることはわかる。けれどしかたがないことだ。
二週間前。「留守を頼む」という漠然とした命令を置いて、主人は旅行に出かけていった。初めのうち、私とあいつは二人で相談しながら家事を分担していた。しかし相談とか分担とかは私たち旧式のロボットには向いていないらしい。結局一日交代で仮の主人になり、相手に命令するという形に落ち着いた。
「じゃあ他にやることもないし、部品の点検を……いや、やっぱりやめておこう」
「やめるのですか」
「今日はご主人がお帰りになる日だ。夜とおっしゃっていたが、気まぐれな方だからな」
「ああ、そういえばそうだな」
本物の主人の話が出ると、仮の主従関係はあっさりと崩れる。
「早くお帰りになるといいな」
「まったくだ。こう言っちゃなんだが、お前に命令されるのは気持ち悪くてかなわん」
「こっちだって同じだよ」
そう言い返した時、玄関でガランガランと鐘が鳴った。主人が気に入ってつけた鐘で、やたらと大きな音が出る。
「お帰りだ!」
あわてて玄関に飛び出そうとした時には、すでに家の中にどかどかと主人の足音が響いていた。出迎えた私たちがお帰りなさいませと言う前に主人は大声を出した。
「おい、ロボども。何か変わったことはなかったか」
「いいえ、何も」
「おれは疲れたから寝る。起こさなくていいぞ。飯は起きてから作ってくれ」
「はい」
そのまま寝室に入ってゆく。飛び込んだのか、ベッドが大きくきしむ音がした。すぐに寝息が聞こえてきた。
「やはり、本物は違うな」
「まったくだ」
私たちは感心しながら言い合い、旅行カバンの整理にとりかかった。
男が持っていた楽器はパグワという名だった。パグワは底が丸い花瓶のような形をしていた。いくつか穴があいていた。男は底の丸いところを叩いたり、穴を指でふさぎながら、笛を吹くようにして吹いたりしていた。
ある日、男はこの街にやってきて、街角でパグワを演奏し始めた。演奏は評判になり、男のまわりには連日人垣ができた。わたしもパグワが好きになったので、毎日のようにその人垣に混じった。
けれども、男の演奏を鼻で笑う者もいた。
「あんなつまらんものをわざわざ聞くやつの気がしれない」
誰かがそんなことを言った。
「あのパグワという楽器はあの男が作った物で、世界に一つしかないらしい」
誰かがそう反論した。
「一つしかなくたってつまらんものはつまらん」
誰かがそれにそう返した。
男がこの街に来て数日後、パグワが何者かに盗まれた。パグワが好きな人々がみんなで街の中を探したが、結局パグワは古い家のわきで、ばらばらになって見つかった。
「ごめんよ」
「また来てくれ」
パグワが好きな人々は、同じ街の者の暴挙に心を痛めながら、去っていく男を見送った。男はすこし笑って、すこし手を振って街を出ていった。
わたしはそっと街を出て、歩いてゆく男を追いかけた。
「あの!」
男は不思議そうな顔をして振り返った。
「あの、わたし……」
「ああ、何度か聞きに来てた」
「はい!」
覚えていてくれた。私はうれしくて、なんどもうなずいた。
「何か用か」
「あの、街のみんなを嫌いにならないでください。また来てください。あんなことした人もいるけど、あなたの演奏が好きな人もたくさんいるんです」
「わかってるよ」
「もしかしたら盗んだ人だって、あなたの演奏が好きで、それでどうしても欲しくなったのかも……いえ、だから許してあげてくれっていうんじゃないけど、でも」
男はフンと鼻を鳴らした。
「好きなやつが壊すわけないだろう。盗んだのは、俺のパグワが嫌いなやつさ」
「でも」
「別にいい。故郷の森に帰ればパグワはまた作れるんだ」
そういえば、男の声を聞いたのはこれが初めてだった。思っていたよりもずっと冷たい声だった。
「お前、わざわざそんなこと言いに来たのか」
「はい……あの、あなたにまた来てほしくて」
「同じだな」
「?」
「わざわざ追ってきてそんなことを言うお前も、パグワを壊したやつも同じだ」
わたしは呆然とした。そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。男は小さな荷物を背負い直しながらつまらなそうに言った。
「お前らは哀れだ。お前らは自分の好きな音を自分では出せないから、自分の好きな音を出してくれそうなやつを必死でおだてるのだろう。自分の好きな音を出さないやつを消そうとするのだろう。いつも自分の好きな音が聞こえている世界を、そんな方法で作ろうとしているのだろう」
「わたしは……」
「おれは自分の好きな音を聞くために、故郷の森でパグワを作った。パグワがあれば、いつでも好きな音を聞くことができた。ある時森を通ったやつが、いい音だと言った。街でもっとたくさんの人に聞かせるといいと言った。だからおれは街に出た。いろんなやつがパグワを聞いて、手をたたいたり石を投げたりした。おれは最初はそれを不思議に思ったが、そのうちにやっと、お前らが自分では自分の好きな音を出せないからそうするのだとわかった」
違う、と思った。しかしどう違うのか、言葉にすることはできなかった。黙っているわたしを見て、男はすこし笑った。
「だがおれは多分、お前らのことが好きなのだと思う。おれの一番いいパグワを、またお前らに聞かせてやりたい」
背を向けて歩き出した男を、わたしは長い間見送っていた。男に声が届く間に何か言わなくてはと思ったけど、やっぱり言葉は見つからなかった。
街に帰ると、まだあちこちで男のことが話題になっていた。
「誰があんなことをしたんだ」
怒っている人がいた。笑っている人もいた。
「いいじゃないか。うるさい音がなくなってせいせいした」
「俺はあの演奏が好きだった。もっと聞きたかったのに」
「あんなものをいいと思えるなんて幸せ者だな。うらやましいよ」
わたしはなんだか泣きたくなった。
『お前らは哀れだ』
でも、それでもわたしは、男が言っていたことは違うと思う。いつかまた、男がこの街を訪れたら、その時は必ずそう言おうと思う。
いつのまにかずいぶん離れた場所に来た。もう大丈夫だと思うと、なくしたしっぽの跡が急に痛んだ。猫に襲われたので、ぼくはしっぽを切って逃げたのだ。
「ようし!」
猫の爪の下で、しっぽが満足そうな声をあげたのが聞こえた。
ぼくとしっぽは一緒に生まれた。何をするのも一緒だった。けれど役割は最初から決まっていた。いざという時にはしっぽが犠牲になり、ぼくは生き延びる。
「トカゲなのは君だから」
しっぽはそう言った。ぼくらはいざという時の動きを練習した。何度も何度も練習した。完璧にできるようになってからも練習した。もう何も考えずにその動きができるようになった頃からは、ぼくとしっぽは練習しながらいつも笑っていた。
あの練習の通りにやれて、ぼくは生きている。しっぽはもういない。猫はしっぽをどうしただろう。空はすでに暗い。岩のすきまにもぐりこんだ。今日は星が多いように思う。しっぽはもういない。
占い師になって十年が経った。あいかわらず私の占いはまったく当たらない。水晶玉の中にははっきり未来が見えているのに、それは決して訪れることのない未来だった。五分五分の選択もことごとく外して、0%の的中率は十年間変わらないままだ。
けれども客は途絶えることなくやってくる。まったく当たらないのなら、それはそれで何かの参考になるのだろう。
「来週から海外旅行に行くんですが、どうなるかちょっと占ってもらえますか」
私は目の前の客の顔をながめ、それから水晶玉をのぞきこんだ。たちまち水晶玉の中に鮮明な像が現れる。
「飛行機が墜落しているのが見えます」
「はあ」
「テレビのアナウンサーが叫んでいます。『乗客は全員絶望的ということです!』怒号。悲鳴。遺族の泣き顔を映すテレビカメラ。『やめろ』別の遺族が怒ってカメラを押しのけたため映像が斜めになりました」
「はあ……あの、それだけですか」
「続いて犠牲者一人一人が紹介されます。金婚式のお祝いに子供達から海外旅行をプレゼントされて旅立った立野さんご夫妻は」
「いや……もういいです」
客は少し不満そうに立ち上がり、私は水晶玉から目を離した。
「いい旅を」
あまり役には立てなかった。分かったのは飛行機が落ちないということだけだ。でも少しは安心できたかもしれない。水晶玉の中の出来事を説明するのは嫌いではない。
「あの……実はプロポーズされまして」
なんとなく暗い雰囲気をただよわせた女性だった。
「それはそれは」
「それで、結婚したらどうなるかを占ってほしいんですが」
水晶玉をのぞきこむと、中で目の前の女性が笑っていた。優しそうな男性が彼女の髪をなでている。
「『やめてよ、くすぐったい』あなたが指を軽くつねると、『いててて』ご主人がおおげさに痛がります。笑うあなた。そのまま二人で見つめ合って、『あのね』ふとあなたが口を開くと、さっき投げたフリスビーを取ってきた犬が戻ってきて二人の間に座り、ワンと一声吠えます」
「…………」
「『偉い偉い』犬をほめるあなた。川面をわたってくる心地よい風。ご主人は澄んだ秋の空を少し見上げてからまたあなたを見つめます。『さっき、何を言いかけたの?』『え? ああ……』少し首を傾げてほほえむあなた。『私、こんなに幸せでいいのかしら』『ばか』少し真顔になるご主人。『僕は君をもっともっと幸せにしたいんだよ』『今のままで十分よ』」
「…………」
「『欲がないなあ。まあそこが君のいいところだけど』『ワン!』『ほら、ムクもそうだそうだと言ってるよ』『うふふ。ありがとう、ムク』あなたはもう一度犬の頭をなで、それからそっと付け加えます。『この子もそう言ってくれるかしら』『この子?』不思議そうな顔をしたご主人が、あなたがお腹にそっと手をそえているのを見て目を見張ります。『もしかして……ぼくらの子が!?』ほほえみ、うなずくあなた。歓喜のご主人が犬と一緒に万歳を」
目の前の女性の顔がどんどん暗くなってゆく。少し胸が痛んだ。でも、水晶玉の中の出来事を説明するのは嫌いではない。
「それじゃ、また来るから」
駅まで見送りに来てくれた母さんにそう言いながら、僕はあの面倒な手続きのことを考えた。たった一週間帰省するための手続きに半年かかった。あの街の外に出るのは、いつも大変な苦労が伴う。今度実家に帰れるのはどれほど先になるだろう。
「体に気をつけてね。危ないことがあったらすぐに逃げるのよ」
「大丈夫だよ。外で思われてるほどひどいところじゃないんだ」
「でも……」
「おれ、あの街好きだよ」
母さんは困ったような笑ったような顔をした。
「じゃ、そろそろ」
「気をつけてね。本当に気をつけて」
うなずいて改札に入った。予定の電車に乗り、座って窓の外を見る。ようやく一息ついたような気がした。これから僕はパニック市に帰る。
パニック市。本当の名前は何だっけ、と思った。なかなか思い出せなかった。
パニック触媒遺伝子を持っている人間は一万人に一人と言われている。けれど、これまで歴史上にあった集団ヒステリーともいえる騒ぎ、そこから派生したもっと悲惨な混乱の陰には、必ず彼らの存在があったのだそうだ。なぜそう言いきれるのか僕にはよく分からないけど、研究の結果だんだんと明らかになったことらしいので、きっと正しいのだろうと思う。
攻撃的なわけでも被害妄想が強いわけでもない。人を煽動するわけでもない。けれど、パニック触媒遺伝子を持った人間が含まれた集団は、危険な騒動を起こしてしまうことが多いのだそうだ。
「君はパニック触媒だ」
そう診断された三年前、僕はわけもわからないうちに家族から離されてパニック市の中学生寮に引っ越した。パニック触媒と診断された人々が隔離されるように暮らしている街。あちこちに監視カメラが設置されていて、それがあまり無駄でもない。毎日どこかで悲鳴が聞こえ、群衆が走り、恐怖の叫びをあげながらの殴り合いが始まる。
母さんが心配するのも無理はない。治安の良し悪しの問題でなく、日常的にパニックが起きる。すぐ怪我人や死人が出る。催涙ガスの出番になる。パニック市はよくテレビの取材対象にもなっているし、そのカメラの前でも毎回期待通りの騒ぎが起きたのだ。
「昔にも、パニック触媒によって起こった事件は多かった。しかし罰せられるのは事件を起こした当事者、つまりパニック触媒に影響されてしまった人々だった。それは正しくないことだ」
以前、テレビでそんなことを言っていた人がいた。もっともだな、と思う。パニック市に引っ越す前、僕がいたクラスにはよく変な騒ぎがあった。それが僕のせいだなんて思いもしなかったけど、本当は僕のせいだった。
パニック触媒は、ただそこにいるだけでパニックになりやすい空気をつくり出してしまう。全国に散らばっているより一カ所にまとめて監視した方がいいという理由でパニック市は作られた。当初は非人道的だという反対もあったそうだけど、できあがったパニック市の状況が知られるにつれて反対意見は消えていった。誰もパニック触媒に身近にいてほしくはないのだ。
厳重な入り口を通ってパニック市に入った。僕が住んでいる高校の寮は、そこから徒歩で十五分だ。
「あれ」
「あ」
途中で同級生の女の子に会った。当然彼女もパニック触媒だ。
「どこか行ってたの?」
僕が肩から下げている大きめのカバンを見て、彼女は不思議そうな顔をした。
そのとたん、周囲の空気が変わった。いつもと違うという小さな違和感を感じただけで、まわりの人間にそれが何倍にも増幅されて伝わる、それがパニック触媒だ。何倍にも増幅された違和感は違和感ではなく、恐怖になる。パニック触媒はそこにいるだけで、恐怖に満ちた空気をつくり出す。
彼女が触媒だと知らなかったら、そんな空気の変化は感じとれないだろう。けれど知っていればはっきり分かる。僕もこれと同じ空気をまき散らしているのだな、と思う。
「うん、実家に帰」
言いかけた時、悲鳴が聞こえた。
振り返ると、大勢の人々が恐怖の叫びをあげながら走ってきていた。何か恐ろしいものに追われているような騒ぎだった。
僕も彼女もあわてて逃げ出した。何が追ってきているのかは分からない。何も追ってきてはいないのかもしれない。けれど、逃げるしかない。走る人波はどんどん大きくふくれあがってゆく。悲鳴も恐怖もふくれあがってゆく。パニック市という呼び名にふさわしい光景だ。僕がまき散らしている空気と同じ空気の街。
帰ってきたんだな。必死で走りながら、ふとそう思った。
近所の公園に生えているあの木には、私しか知らない秘密がある。
「体調が悪いんですよ」
あの木の下に寝転がってそう言うと、薬が一錠落ちてくる。漫画に出てきそうな派手な色のカプセルだ。いつも顔の上に落ちてくるので、それを受けとめる。右手の親指と人差し指でつまんで、木の上の方の枝に見せるように振って、
「ありがとう」
そう言ってから飲み込む。目を閉じて、葉の音を聞く。体の中に薬がしみじみと広がっていくような感覚がある。しばらくそうしてから帰る。あたたかくして寝る。
いつだって、それで翌日には元気になった。
友達が入院した。病名は知らない。けれど見舞いに行くたびに、彼女がただごとではなく衰えてゆくのがわかった。ある日私は公園に行き、木の下に寝転んだ。
「体調が悪いんですよ。友達の」
何も落ちてこなかった。
「ここに連れて来ちゃだめですか」
返事の代わりのように、顔の上に枯れ葉が一枚落ちてきた。
友達はその一週間後に死んだ。それ以来、あの木の下には行っていない。
生まれ育ったこの館で過ごすのも今日が最後になる。思い出にでもひたろうかと思い、ひたるような思い出は特にないことに気づいた。
この館で生まれて、育った。色々なことを習った。そんな気がするが、それだけだった。いつのまにか結婚の話がまとまっていて、明日から私はその人の館で暮らすことになる。私はずっとこんなふうに生きていくのだろう。まるで眠っているようだと思い、その先を考えようとしたが、それ以上何も思いつかなかった。私は何かを考え続けるのに向いていないのだと思う。
時計塔の鐘が鳴ったので、窓の外を見た。この季節、鐘は日が沈む頃、空が赤い頃に鳴る。そういえばこの鐘を聞くのも最後になるのだった。今日が晴れていてよかったと思う。
ここからでは建物に隠れていて見えないけど、あの塔の下は広場になっているのだそうだ。実際に行ったことはない。私はあまり館の外には出ないし、出る時の目的地はたいがい街の中心だ。時計塔とは逆の方向だった。
行きたい、時計塔を近くで見たいと言ったらどうなるだろう。そんなことを考えたこともあった。言えば連れていってもらえるかもしれない。広場に降りることは許されないだろうけど、横を通るだけでも広場を見ることはできる。少し考えてみただけだった。別にそれほど行きたいわけでもない。
そういえば、なぜ私はあの塔の下が広場だと知っているのだろう。ああそうだ、以前に使用人に聞いたことがあったからだった。
「あの塔の下はどうなっているの」
「あそこは広場でございますよ」
「広場」
「ええ、あまり人が多くはございませんが、毎日子供が遊んでおります」
「そう。今の時間でもまだ遊んでいるの」
「ええ、多分。まだ明るうございますから」
私は見たこともないその場所のことを考えた。赤い空に、鐘と広場。子供は何人くらいいるのだろう。走っているのか、笑っているのか。日は傾いているから、その影はずいぶん長く伸びているだろう。
鐘の音が止まってずいぶんたつのに、まだ余韻が響いているような気がした。空がまだ赤いせいかもしれない。
ここを離れて、別の場所で暮らす。その場所で私は、この鐘に代わる何かを見つけなければならないのだろう。きっと見つからない。そんな気がしている。でも見つけなければならなかった。
私はまた、時計塔の下のことを考えた。赤い空、鐘と広場。子供たちは今日も遊んでいるだろうか。その影は、やはり長く伸びているのだろうか。