電線にとまっていた鳥がフンをした

 フンは鳥の形になって地平線のかなたへ飛び去っていった
 電線の鳥はただじっとそれを見送っているようだった
 誰にその箱をもらったのかはよく覚えていない。まだ小さい頃だった。
「開けてごらん」
 言われて箱を開けてみると、欲しかったゲーム機が入っていた。俺は驚いて、それから喜んだ。
「あげるよ」
「ありがとう!」
「お礼を言えたね。いい子だね。その箱もあげよう」
「箱?」
「それは魔法の箱なんだ。閉めて、開けると、欲しいものが何でも出てくるんだよ」
「本当?」
「本当さ。でも、期待しちゃいけないよ」
「?」
「それはびっくり箱だからね。期待しないで開けるんだ。何か出てきたらびっくりしなくちゃいけない。びっくりしない人には、何も出てこないからね」
 それから先、欲しいものはいくつもあった。そのたびに俺は箱を開けてみたが、何か出てきたことは一度もなかった。全然期待していない、出てきたら驚く、といくら自分に言い聞かせてもだめだった。どうしても期待してしまう。そもそも期待していなければ、箱を開けようとも思わないのだ。
 ばかばかしいと思った。けれども、箱を捨てることはできなかった。

 俺は今、三山という男と同居している。
「腹減った。何か出してくれよ」
 頼むと、三山は箱を持ち上げふたに手をかける。
「何がいい?」
「あー。カツ丼」
 三山がふたを開けると、中から湯気を立てたカツ丼が現れた。
「すげー! マジで出てきたぜ、おい!」
 同時に、三山の驚きの声があがった。本気で驚いている。そうでなければ箱からは何も出てこない。もう何回開けたかわからないが、三山はこの現象に決して慣れることなくいつも大騒ぎをするのだった。
「あれ、割り箸ねーや。出して」
「おう。……うわー! ほんとに出てきた! 割り箸! ほら!」
 俺は何も言わずにカツ丼に取りかかった。
 元は会社の同僚だった。何かのはずみで俺が箱のことを話し、三山が自分にも開けさせろと言った。それからというもの、三山は箱から物を出し続け、そのことに驚き続けている。
 会社を辞めた。望めば金だっていくらでも出てくる。その金で何か大きいことをやろうという気にもならなかった。楽な生活だ。何でもできるし、もうこれでいい。これから先、三山が箱から物を出せなくなっても平気だ。一生暮らせるだけの金はすでに出してある。
 時々、自分が腐っていく感覚が生々しく強烈に現れて、息苦しくなることがある。けど、ただそれだけだ。
「おい、見ろよ! 俺のパスタも出てきた! すげー!」
 三山がまた騒いでいた。驚きに目を見開き、鼻の穴をふくらませている。
「ああ、すごいな」
 俺は小声で言った。興奮している三山に聞こえたかどうかはわからない。
 外に出る必要もないほどの、安易で自堕落な生活。けれども腐っていくのは、俺一人だけなのだった。
 部屋をかたづけていると、古いぬいぐるみが出てきた。クマなのか犬なのかよく分からない形で、変に目がたれている。全然かわいくない。
 少し大がかりな掃除をするたびに、このぬいぐるみは出てくる。そのたびに捨てようかと思うが、つい後回しにしてしまう。小さい頃の私はどういうわけか、このぬいぐるみが大好きだった。捨てようかと思うたびに、その頃の一つの思い出がよみがえるのだ。
「返してー! パラジを返してー!」
 小さい頃の私が泣きながら叫んでいる。パラジというのはこのぬいぐるみの名前だ。そのパラジが目の前にいる誰かにとりあげられてしまったのだ。
「こんなもの持ってたってしょうがないでしょう」
 その人がパラジの耳を持ってぶらぶらさせながら言う。その口調に恐ろしいものを感じて私は絶叫する。
「捨てないで! 捨てちゃいやだあー!」
 しかしその人はパラジを捨ててしまう。うわああ、うわあ、と私はいつまでも泣き続けていた。
 あの後、どうやってぬいぐるみが手元に戻ったのかは覚えていない。ゴミをあさるようなことをしたのかもしれない。なんにせよ、それを思い出すとなかなか捨てられないのだった。
(でも、持っててもなあ……)
 無駄な物を置いておくのは好きじゃない。これだけ長い間持っていたんだし、もういいじゃないかという気もする。捨てよう。私はとうとうそう決心した。
「捨てないで! 捨てちゃいやだあー!」
 突然、叫び声が聞こえた。振り返ったけど、誰もいない。
 私は少し考えてから言った。
「こんなもの持ってたってしょうがないでしょう」
 そしてぬいぐるみの耳を持ってちょっとぶらぶらさせてから、ゴミ袋の中に落とした。うわああ、うわあ、という泣き声が聞こえて、しばらく続いた。
 株式会社ファイアブルは、消費者へのなめた態度が一部でたいへん評判の悪い会社です。しかし、それはあまり表立って言われることはありません。その理由は苦情処理科に在籍している女性社員、安積未知緒さんにあるのでした。
「少々お待ち下さいませ、ただいま担当の者に代わります……安積さーん」
 呼ばれた安積さんは少し顔を曇らせますが、特に事情も聞かずに電話を代わります。
「お待たせいたしまして申し訳ございません。担当安積に代わりました」
 安積さんの声は社内ではすでに伝説です。安積さんはファイアブルに入社した頃は、経理の仕事をしていました。ある日、社長が外から電話をかけた時に安積さんが出て、その次の日、社長は安積さんを社長室に呼んだのです。
「君の声には、黄金の輝きがある」
「黄金の、輝き……?」
「俺は君のような人を、長い間探し続けていた」
 社長は短い電話の間に、安積さんの才能を見抜いたのでした。安積さんは苦情処理科に異動になり、たちまちその才能は花開くこととなりました。
「たいへん申し訳ございません……はい……はい……いいえ、とんでもございません、ありがとうございます……はい……はい……失礼いたします」
 安積さんの声は穏やかで優しく、その声を聞くと、人の怒りはたちまち消えうせてしまうのでした。社長が見いだしたその才能はさらに磨かれ、しだいに安積さんの声に逆らえる人間は存在しなくなってゆきました。この声の言うことはきかなければならないし、この声を悲しませるようなことはしてはならないのです。今では安積さんに任せれば、どんなクレームも十秒で消えると言われています。
「よろしいでしょうか。他に何かございませんか? はい……ありがとうございます」
「安積さん、こっちもお願いします」
「えー。またー?」
 けれども安積さんは、彼女の天職であろうこの仕事が、だんだんといやになってゆくらしいのでした。安積さんにとっては、あまりに簡単すぎる仕事なのかもしれません。非は会社にあるにもかかわらずお客様を黙らせる、そんな仕事がいやになったのかもしれません。
「そんなこと言わないで、お願いします。すごい怒ってるんですよー」
「わたくしただいま電話には出られないような状況でございまして」
「ふざけてないで早くしてくださいよ!」
「ううう」
 安積さんの声は、電話を通さないと効果がないようでした。
「ああ、もういやだ」
 その日、電話を切った安積さんは、深いため息をついて言いました。

 次の日、安積さんは会社に来ませんでした。昼頃に社長が苦情処理科に来て、彼女は会社を辞めたと言いました。
 油断した、と社長は言いました。誰だかわからない電話がかかってきて、けれども秘書は名前の確認もせずに社長に代わったのだそうです。社長は電話に出て、安積さんだとすぐに気づいたけど、もうその声には逆らえず、退社することをあっさり認めてしまったのでした。
 それだけ伝えて、社長は出ていきました。安積さんがいなくなったファイアブルがたちまち厳しい批判にさらされることは目に見えています。安積さんが電話で何を言ったのかはわかりませんが、社長はそれらをなるべく自分の手でなんとかしようと考えているようでした。
「辞めちゃったんだね、安積さん」
「うん」
 苦情処理科は粛然とした雰囲気に包まれました。安積さんと親しい人はこの科にはいません。電話をかけ合うような仲になれば、安積さんの言うことを何でもきかなければならなくなるからです。けれどもこの科の人たちは、いつかこんな日がくるだろうとは、かなり前から思っていたのでした。
「安積さん、これからどうするんだろう」
「さあ」
「それよりこの科……」
「うん……」
 いつかこんな日が来るだろうと思ってはいたけど、それでもその日は、とほうにくれたような、ぼう然としたような顔を、お互いに見合わせたのでした。
 ベニキウラが自分の名の由来を父にたずねたのは、八歳の時のことであった。
「それを聞かれるのを、ずっと待っていた」
 父は満足そうにうなずき、口元をほころばせた。
「はるか昔、この地上にナクナンという国があった。高い知性と理性を持ち、卓越した文明が栄えた素晴らしい国だった。我らはそのナクナン人の末裔なのだ」
「末裔だって?」
 驚くベニキウラに、父は遠くを見るような目をして続けた。
「ナクナンは島国だったが、ある日突然国ごと沈んだ。生き延びたのはその時国外にいたわずかな者たちだけだった。我らの先祖もその一人だ」
「そ、それと俺の名前にどういう関係が……」
「まあ聞け。すべては遠い遠い昔の話だ。今ではナクナン人のことを知っている者などほとんどいない。しかし私はこの先祖のことを誇りに思うし、まわりの者たちにもその存在を知ってほしいと思う。この思いはわかってくれるな?」
「あ、ああ」
「だが、私自身もナクナンのことはほとんど知らない。人に話せることも当然何もない。だからベニキウラ、お前にその名をつけた。ベニキウラというのは、私が知っている唯一のナクナン語なのだ」
「…………」
「私の父も祖父も、ナクナンのことはほとんど知らなかった。ただ祖父は一度言っていたことがあった。『我々の先祖は国からのベニキウラで、だから生き残ることができたのだそうだ』と」
「それを俺の名に……」
「そうだ。他の言葉を知らないからな」
「ベニキウラっていうのはどういう意味の言葉なんだ?」
「逃亡者という意味らしい」
 それまで息をのむようにして聞いていたベニキウラの表情が、とたんに崩れた。
「なんでそんな名前つけるんだよ」
「だから言っただろう。他に知っている言葉がなかったからだ」
「無理にナクナンの言葉を名前にしなくたっていいじゃないか」
「お前は名前というものの重要さをわかっていないようだな。こんな珍しい名前だ、お前と知り合う者は皆、その由来を聞きたがるだろう。そこでお前が説明をする……。ナクナンがどんな国だったか、今となっては知るすべもないが、そういう国があったということだけは、お前を知る者の間に自然と広まるじゃないか」
 嬉しそうに笑う父に、ベニキウラは何か言おうと口を開けたり閉めたりしたが、結局何も言わず、不機嫌な顔で押し黙った。
 父の思惑通り、ベニキウラの名の由来を聞こうとする者は多かった。しかしベニキウラは曖昧に笑うだけで、それに答えようとはしなかった。

 二十二歳の時に、ベニキウラは誤って人を死なせてしまった。
 故意でなく過失ではあったが、裁きは受けなければならない。すぐに出頭しようとしたベニキウラの足は、しかし数歩進んで止まった。
 逃げた方が良いのではないか?
 突然頭にそんな考えがのぼってきたからである。その考えに驚いたからでもあった。
 なぜ逃げるなどと。裁きを受けなければならない。
 逃げるべきだ。逃げた方がよい。
 なぜだ。裁きが怖いのか。
 違う。逃げる。それが俺の真実だからだ。
 真実?
 そうだ、俺はベニキウラ。逃亡者ではないか。
 今まで目をふさいでいた真実が立ち現れ、進む道がはっきりと見えたように思った。今までなかった力が体にみなぎる。これは闘志。これが自分の本分に立ち返るということか。
 ベニキウラは遺体をそのままに、逃亡した。

 ベニキウラは友人の家を転々とした。しかしその態度は堂々として、とても逃亡中とは見えなかった。人を死なせて逃げているのだということさえ、隠そうとしなかった。
「俺はナクナンの末裔、ベニキウラだ。ベニキウラはナクナン語で、逃亡者という意味だ。その名に誓って俺は逃げる。それが俺の真実だからだ」
 出頭をすすめる友人に、ベニキウラは笑ってそう言い放ち、言われた方は口をつぐんだ。
 ベニキウラとはこんな男だっただろうか?
 自信に満ちあふれ、光り輝いているようである。真実はこの男とともにある、そんな気がした。友人は思わず口走っていた。
「不自由があれば何でも言ってくれ」
 場所を変えるたびにベニキウラの信奉者は増えた。それはさらに多くの人間を巻き込み、逃亡の形をも変えていった。
「ベニキウラ。お前は正しい。お前の手伝いをしているうちに俺たちは、この世の中が間違っていると気づくことができたんだ」
 数人の友人がベニキウラの元を訪れ、熱を帯びた目で語った。
「この国を変えよう。反乱を起こすんだ。仲間は多いし、お前がいればさらに増える。俺たちを導いてくれ、ベニキウラ」
「俺は自分の真実に誓って逃亡した。その過程でこうなったのならば、これもまた真実に違いない。ともにゆこう。俺についてきてくれるか」
「お前のためなら死ねる、ベニキウラ」
 友人は泣きながら叫んだ。

 この国を大きく揺るがしたベニキウラの反乱もやがて鎮圧された。首謀者のベニキウラは死に、残党も狩りたてられた。それから長い時が過ぎ、もはやその反乱と同じ時代を過ごした者もいなくなったが、ベニキウラの名は歴史に刻み込まれ、そしてベニキウラがなぜ反乱を起こしたか、その理由も今に伝えられている。
「俺はナクナンの末裔、ベニキウラだ。ベニキウラはナクナン語で、逃亡者という意味だ。その名に誓って俺は逃げる。それが俺の真実だからだ」
 ベニキウラは反乱の首謀者として処刑された。しかし処刑されたのは実は別人であり、本人はさらに逃げたという伝説が、当たり前の史実であるかのように語られることがある。

 かつて、この地上にナクナンという国があった。どんな国だったかは誰も知らない。しかし、そんな国があったということだけは広く知られ、これからも後世に伝えられるのである。
 地震予知に興味がある。
 もっとたくさんの地震予知がされるといいと思う。当たる当たらないはともかく、地震予知がされているという状態が当たり前になるといいと思う。
 そのうちに精度が上がり、テレビで天気予報のように地震予報をするようになった未来、
「予報はずれたねー」
 ちょっと高いヒールにスーツの女性がハンドバックと一緒に無骨なヘルメットをぶらさげて帰途につく、そういうのはとてもいいと思う。
 さらに未来、秒単位で地震の予測が可能となった未来、震度7の地震が来ることが2週間ほど前に判明して、そこに住む人々は地震が起こる数時間前からそれぞれの避難場所に集合したりする。空には久しぶりの大地震の瞬間を記録しようと報道用のヘリが飛び回り、コンビニも久しぶりにシャッターを下ろした。
 家族とともに避難所に行ったタダシは、そこで近所に住む、秘かに思いを寄せるクラスメートのマイに会った。この特殊な状況のせいもあり、タダシはにわかに心臓の鼓動が早まるのを感じた。世間話をしているうちに地震の来る時間は近づき、ふとタダシは地震と同時にマイに告白しようなどと考えるのだった。
 いよいよカウントダウンが始まる。10、9、8、7、6、5、4、3、2、
「おれ、君のこドゴゴゴコグワーン
 キャーッ ワーワー
「すごかったねー」
 帰り道。家の壊れ具合によってはまた避難所に逆戻りだが、この地域はそれほどの被害はないようだった。大きなできごとを一緒に経験したためか、マイとの距離が少し近づいたような気がしたが、告白の方はやはり聞こえていなかったようで、タダシはほっとしたような残念なような気持ちだった。
「あんなにすごいとは思わなかったよな」
 そうでなければ、ちゃんと告白できたかもしれない、と思いながら言った。
「そうだよね。すごいドキドキした」
「うん」
「でも、地震のせいだけじゃないかも」
「え?」
 タダシが目を上げると、そこはマイの家の前で、マイは笑いながら手を振ってドアの中に入っていった。まるで白い蝶のようだった。
 とか、そういうのはとてもいいと思う。
 異次元列車が走る
 異次元列車は速い
 異次元列車はこわい

「補助いすをご利用になる際には手をそえておかけください」
「わあああ」
 ある日
 補助いすにあわてて座ろうとした山口は
 はね上がった補助いすに吸い込まれて
 そのままどこかに消えてしまった

「ドアに手をついておられますと、ドアが開く際に」
「わあああ」
 ある日
 仕事疲れでドアに寄りかかっていた川本は
 戸袋に引き込まれて
 二度と戻ってこなかった

「霞口ー霞口ー終点でございます。この列車はこれより車庫に入ります」
「わあああ」
 ある日
 酔って終電で眠ってしまった島崎と
 その後会った者は
 誰もいない

 異次元列車が走る
 異次元列車が走る
 ビュオオオオオ
「この吹雪は当分やみそうにないな」
「ああ」
「なんだか眠くなってきた」
「そうか」
「寝たら死ぬかな」
「さあ」
「すごく……眠いよ……」
「ふーん」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「お前、俺のこと嫌いなんだろ」
「ばれた」
 知人の口利きでこのお屋敷で働かせていただくことが決まった時、わたしは驚き、また大丈夫だろうかとおそれたものです。高村喜一郎といえば、すでに引退しているものの、一代で莫大な財を築いたということで有名な、わたしでも知っているくらい有名な方でしたから。
 巨大なお屋敷の裏口に案内され、中に入った時、わたしはおやっと思いました。ズンズンという低い音が鳴り響いていたのです。何の音だろうかと思いながら、案内してくださるメイド長さんについて、長い廊下を歩きました。
 歩いても歩いても、音は聞こえていました。規則的な低い音。これはもしかしたら、心臓の音ではないだろうか。そっと上を見ると、あちこちにスピーカーらしきものがあるのがわかりました。屋敷中にこの音が流れているのかしら?
「あのう……」
「後で説明します」
「はい」

「あの音は、旦那様の心臓の音です」
 仕事の説明を軽くした後で、メイド長さんは言いました。
「旦那様の」
「旦那様はご高齢で、お一人でいることを好まれる方でもあります。この音に異常があったらすぐにかけつけることができるようにということで、屋敷中に聞こえるようにしているのです」
「そうだったのですか」
 そう相づちを打ったものの、何も屋敷中に聞かせなくてもとわたしは少し妙に思いました。

 お屋敷は、旦那様の心臓の音に合わせて動いています。
 最初は気味悪く思い、なかなか眠れなかったりしたわたしも、慣れた後は歩く時も仕事をする時も、その音に合わせて動くようになりました。別に意識していなくても、少し音が乱れれば、はっとしてスピーカーの方を見ます。しばらくして音が平常に戻り、またその音に合わせて動き始めます。
 けれどもわたしは、旦那様にお目にかかる機会はありませんでした。旦那様は外出されることもあまりなく、たいていご自分のお部屋におられるため、お姿を見たことがない者は他にも何人もいました。心臓の音は毎日聞いているのに、どのような方なのかはまったく知らないまま、月日が経っていきました。
「旦那様はどんな方なんですか?」
 掃除をしながら、一緒にいた先輩に聞いてみました。
「ああ、あなたはまだお会いしたことがないのね。そうね……やはり、少し変わった方よ」
 そんな話をしている間にも、心臓の音が響いています。変わっていらっしゃることくらいはわたしにもわかる、と思って、少しおかしくなりました。
「昔は人を大勢招くことが好きな方だったけど、最近はたいていお一人でいらっしゃるみたい」
「そうなんですか」
「この心臓の音もね、以前の旦那様は……わざと走り回って鼓動を早めたり、別の装置につないで変な音を出したり、そんなことをなさって屋敷中大騒ぎにしてお笑いになるようなことがよくあったのよ。でも」
 先輩はスピーカーにちょっと目をやりました。
「最近はそういうことも、まったくなくなったわね」
 いつものように、穏やかな音が聞こえていました。

 それから一ヶ月ほど後のことでした。わたしは真夜中に、ふと目が覚めました。何か妙な気分でした。もう一度眠ろう、と思い、旦那様の心臓の音を聞きながらまた目を閉じました。
 その時突然、その音が乱れました。激しく何かを叩くような音になり、わたしたちはいっせいに飛び起きました。
「旦那様。旦那様」
 おそろしい音を背景にして、お屋敷中があわただしく動きました。わたしはどうしたらいいのかわからないまま、自分の心臓も激しく動いているのを感じました。先輩の言葉を思い出し、これが旦那様の悪戯でありますようにと祈りました。
 そのうちに、音は聞こえなくなりました。病院に運ばれたからだ、とわたしは自分に言い聞かせました。

 旦那様は亡くなられました。その日のうちだったそうです。
 とうとう旦那様にお会いすることはできなかった、と思い、わたしは旦那様の心臓の音を思い出そうとしました。けれども耳によみがえるのは、あの夜のおそろしい音だけでした。わたしは自分の胸に手を当てて、自分の心臓の音を聞きました。お屋敷で働いているうちに、旦那様の心臓と同じ早さで動くようになったという気がしていたのです。
 お屋敷は静かでした。従業員たちは、まだ全員ここで忙しく働いています。旦那様の親戚の方々や、会社の方々が、毎日のようにいらっしゃいます。それでも静かでした。からっぽになったように静かでした。
「本当に、亡くなられたのね」
 先輩がスピーカーを見ながらぽつりと言いました。わたしは黙ってうなずきました。
 暇つぶしに入った展覧会に、3枚並んだ絵があった。
「ハーモニカを吹く少年」
「ハーモニカを吹く男」
「ハーモニカを吹く老人」
 私は思わず立ち止まってながめた。3枚とも背景の場所は同じ。そしてハーモニカを吹いている人物もどうやら同一人物のようだった。小さな「少年」と、堂々とした壮年の「男」の外見はまるで違っていたが、どこかに共通する面影がある。そして弱々しく背を丸めた、枯れ枝のような「老人」にも、やはりその面影があった。
 彼の生涯には様々なことがあったが、この場所でハーモニカを吹く習慣は変わらなかった。どういう時にここに来て、ハーモニカを吹いたのだろうか。そんな妙なことをつい考えさせるような絵だった。
「あ! あの絵だ!」
 展覧会にそぐわない大声と、ばたばた走ってくる足音が聞こえた。
 すぐ横で立ち止まった男の子をちらっと見て、私は何度もまばたきをした。それから「ハーモニカを吹く少年」を見た。そっくりだった。私の横に立っていたのは「ハーモニカを吹く少年」だった。少年は自分の絵を、口を開けて見始めた。
「走るなって言っただろ」
 後ろから声がした。そっと振り返ると、そこには「ハーモニカを吹く男」がいた。
「お父さん、ほらぼくの絵!」
「うん。よく似てるなあ」
「お父さんの絵もあるよ」
「そうだなあ。このお父さん、かっこいいな」
 親子……。この絵のモデルはそれぞれ別にいたのだ。なぜか私はひどく落胆した。
 少年は楽しそうに、絵が描かれるまでのことを話していた。小学校の音楽の授業でハーモニカを習ったこと。うまく吹けなくてくやしかったこと。休日に、外で父親と一緒に練習したこと。通りかかった画家にモデルを頼まれたこと。
 私は舞台裏が聞けて得をしたような気持ちと、聞きたくなかったという気持ちの両方を味わいながら、親子の方を横目でちらちら見ていた。すると、自分の絵ばかり見ていた少年が、ふと首をかしげた。
「お父さん。これは誰なの」
 指さしたのは「ハーモニカを吹く老人」の絵だった。
「さあ……。誰だろう」
 男は、自分と息子の面影を確かに持っているその老人を、なんともいえない表情で見つめながら言った。