あれは何年前だったか、まだ私が小さい頃、夏休みのラジオ体操から帰ってきて、居間のソファに横になってうとうとしていた時のことです。
「むかしむかし」
 知らない声が聞こえました。ゆっくりとそれが続きました。
「あるところに、クッパルポウセという貧しい若者がいました。クッパルポウセは笛を吹くのが大好きで、いつも固いパンに穴をあけては笛にして、しばらく吹いた後に食べるのでした。
 そんなある日、この国の王様のところに、この国を見守っている山の神様から手紙が届きました。それには、クッパルポウセの笛が聞きたいので、すぐ山に登らせるようにと書いてありました。その笛に満足したら今年はすばらしい実りを約束しよう、けれども満足できなかったらクッパルポウセを八つ裂きにして、国中に火の雨を降らせる、というのでした。
 王様は驚いてクッパルポウセを呼び、すぐに山に行くように命じました。『しかし、パンがありません』とクッパルポウセは言いました。普通の笛を吹いたことがなかったからです。『うむ、たしかに長い道のりだから、パンがなければならん』と王様は考え、すぐに国一番のパン屋にパンを焼かせ、持ってこさせました。それは見たこともないようなふわふわとやわらかい、おいしそうなパンだったので、クッパルポウセはごくりとつばを飲みました。『さあ、早く行くがよい』と王様にせきたてられ、クッパルポウセはそのパンを持って、山に」
 そこで声は止まりました。私はしばらく我慢してから、そーっと目を開けました。誰もいません。考えてみれば、誰かいるはずがないのです。
 クッパルポウセは? 私はぼんやりと座って、とぎれた話の続きを待っていましたけど、もう誰もそれを話してはくれませんでした。

 あの時も今日のように暑い日で、だから私はこの季節になるといつも、クッパルポウセのことを思い出すのです。
 クッパルポウセはきっとだめだっただろう。毎年たいてい、そんなふうに思います。笛にならないようなやわらかいパン。いや、そもそも、山の神様に会う前に食べてしまったかもしれない。
 けれども数年に一度、いやそうとは限らないぞ、と思うことがあります。クッパルポウセは山の神様に会い、柔らかいパンの笛で神様をうならせて、その後パンを食べてとてもおいしかったに違いないと、何の根拠もなくそう思う時があります。そんな時はただやたらと嬉しくて、にやにやしながら、いい夏だなあ、なんて思うのです。
 おや、お行きになる。ええ、確かにあそこには蛍がおります。でもお気をつけくださいまし、ニセの蛍もおるんですよ。
 このへんでは「ほたほた」と呼ばれております。虫ではございません。なんと申しますか、妖怪といえばよいのでしょうかね。
 はあ、お信じにならない。まあそれもよろしいでしょう。蛍よりは数が少ないですし、見ることはないかもしれません。それに何か悪さをするわけでもありません。ただ……。
 いや、大したことではありません。ほたほたを見て、「蛍だ」と言うと、ほたほたの数が倍になるのです。光を見て「蛍だ」と言って、一つが二つになったら、それはほたほたです。もう一度言えば四つになり、また言えば八つになり……ま、そうやって増えてゆくわけです。あのやわらかくて小さい光が、自分の一声でぱっと増えて、一声ごとに増えてゆく。きれいなもんですよ。
 増えても別にかまやしないから何度も言って、不思議なもんですね、途中からはもう、止める気がしなくなるんです。一面まぶしいくらいになって、それでも蛍だ蛍だと言い続けてしまう。いや、すごいもんでした。最後に見たあの景色……。
 ええ、それから私の目は使えなくなりました。ま、しょうがありませんわ。
 行ってらっしゃいませ。
 あすかちゃんは元気だろうか。今も私のことを覚えているだろうか。

「あやまらないと、手を離すよ。呪いの人形が落ちちゃうよ」
 あの時の光景は、15年たった今でもやけにはっきり覚えている。橋の上にいるあすかちゃんと私。あすかちゃんが右手に持っている、白い、粘土でつくったような人形。あすかちゃんは手を欄干から先に伸ばして、今にも人形を川に落とそうとしていた。
 理由は忘れたけど、あの時あすかちゃんと私はけんかをしたのだ。あすかちゃんはしつこく私にあやまるように言って、私があやまらないでいると、呪いをかけると言い出したのだった。
 私が馬鹿にして笑うと、あすかちゃんは顔を真っ赤にして怒った。
「かけられるもん! お母さんが黒魔術を使えるから、私も呪いのかけ方知ってるもん!」
 私は少し怖くなったけどやっぱり笑い、記憶はそこからあの橋に飛ぶ。あすかちゃんが言っている。
「この人形が痛かったり苦しかったりすると、あんたも痛くなるんだよ」
 私は怖かったけど、あやまらないで黙っていた。
「この呪いは、呪う人が呪われる人を嫌いなほど、呪われる人は苦しむんだよ。私はあんたのことが大っ嫌いだから大変なことになるんだよ」
 私はとても怖くなったけど、やっぱりあやまらなかった。
「呪いはずっと続くんだよ。私が死ぬまでとけないんだからね」
 私がそれにも返事をしなかったので、あすかちゃんはとうとう手を離し、粘土の人形は川に落ちた。
 ばしゃん、という水しぶきがあがった時、私はそれが自分のまわりであがったように思った。自分の体が水に濡れたような気がした。一度沈んだ人形が、また水面に浮いて流れていった。
 本当に呪いの人形だった。行ってしまった。私は今まで怖いのをがまんしていたのがいっぺんになくなって、わあわあ泣いた。あすかちゃんはそれを見てびっくりしたように、ごめん、ごめんと言って、私が泣きやまなかったので一緒に泣き出してしまった。二人でしばらく泣いていて、どうやらそれで仲直りしたようだった。
 あすかちゃんは、それからしばらくして転校した。お別れをした時のことは覚えていない。

 目を閉じてあの人形のことを考えると、今人形がどうなっているかがわかる。それに気づいたのはあすかちゃんが転校する前だったか、後だったか。
 人形が見ている光景が見えた。人形は川を流れ、時々岸に寄り、誰かが拾ったり踏んだりして、また川を流れ、岩にぶつかって跳ねたり、沈んだりしていた。
 けれども私は、別に痛くも苦しくもなかった。ただ見えるだけだった。
「呪う人が呪われる人を嫌いなほど、呪われる人は苦しむんだよ」
 あの時のあすかちゃんの言葉を思い出す。あすかちゃんはけんかをしていたあの時も、私のことを嫌いではなかったのだろう。

 呪いは今も続いている。あすかちゃんが死ぬまでとけない呪いだ。あすかちゃんは多分元気で生きている。いつかまた、会えるだろうか。
 目を閉じた。人形は今は海の中、浅瀬の砂に体半分埋まっていた。太陽の光が波の編み目の中で揺れている。それを見ている人形のすぐ上を、魚が一匹すうと通った。
 そいつは音もなく壁を突き抜けて現れた。
「こういうふうに出ないと信じてもらえないだろうからな。はじめまして。オレは神から遣わされた使者だ」
 俺は黙っていた。
「おい、信じたのか。どうなんだ」
「ああ」
 幻覚でなければ多分本当なんだろう、と思った。
「信じてもらえれば話は早い。しかしなるほど……実物を見るのは初めてだが、これは……聞きしにまさるひどい顔だな」
 俺はまた黙っていた。この顔がどうひどいかについては俺が一番よく知っている。顔立ちの問題ではなく、もっとどうしようもないひどさだ。しかし、これまでそれを他人に言われたことはほとんどなかった。
「おっと、まあ、こんなことを言っても悪く思うなよ。神がオレを遣わされたのはその顔と関係があるんだからな」
「…………」
「世の中には色々な種類の人間がいて、だから世の中は面白い。そうだな? な?」
「ああ」
「そうだ。それで神は様々な人間をお作りになる。中には見ただけで腹が立ち、虫酸が走り、こんなやつはいない方が世のためだと思ってしまうような、そんな顔を持って生まれる人間もいる」
「…………」
「つまり、それがお前というわけだ。オレも実物を見るのは今が初めてだが、すごいもんだな。お前を殺したがる連中がいるのも無理はないと思うよ」
「そうか」
「しかしお前は悪くないわけだ。神も罪なことをなさる」
「ああ」
「おい、お前は神を冒涜するのか」
「相づちをうっただけだ」
「……そうか。うん。そうだな。その顔で言われるとついカッとなってしまう」
 使者は俺をじろじろと見た。眉をひそめていたが、悪意はなさそうだった。悪意のない表情で見られることは長い間なかった、という気がした。
「それで、何の用だ」
「ああ、そうだそうだ。うん、お前はその顔のせいで誰からも愛されず、まあそれは当然だが、誰もがお前を迫害し、あわよくば殺そうとする。そのためまともな人生を歩めず、人と傷つけ合い殺し合う、世の裏街道を歩まざるを得なかった。そうだな」
「まあな」
「そこでも当然お前は憎まれる。誰もが理由をつけてお前を殺そうとする。それをお前は持ち前の勘と運動能力で切り抜けてゆく……うん、大変だな」
「何しに来たのかと聞いたんだが」
「ああ。それでだな、ちょっと手違いがあったんだ。神はお前の顔を誰もが忌み嫌うように作ったんだが、ちょっと度が過ぎてしまった。周りの連中がお前を殺そうとする、その殺意が予定よりも強くなっている」
「…………」
「味方が誰もいない中、ただ自分の力のみで周囲の殺意を切り抜けていく嫌な顔の男というのがお前の設定なんだが、ちょっとこの殺意の強さでは切り抜けるのが難しい。しかしお前が予定より早く死ぬと、世の中のバランスが崩れて色々とやっかいなんだよ」
「それで」
「そこでオレが遣わされた。今日からお前のボディーガードだ」
「ボディーガード……?」
「心配するな。お前の顔を見て思わず殺したくなっても我慢するから。うん、まあ……多分大丈夫だ。我慢できると思う。使命だからな」
 また俺の顔をじろじろと見た。
「しかし、見れば見るほど嫌な顔だ。お前に非がないとはとても信じられない」
「おい」
「ああ、悪かったよ。もう言わない」
「違う。来た」
 説明する時間はなかった。殺意の群れだ。いつのまにか、ある程度近づくと感じとれるようになった。俺は窓から外に出て走った。使者も後からついてくる。すぐに後ろで銃声がした。
「すごいな」
 使者が感心したような声を出した。
「なんでわかった?」
「勘だ」
 裏道を走った。
「なるほど、そういう力があるからこれまで生き延びたってわけだな」
「次の十字。右から撃ってくるぞ」
 かわしながら通る。が、使者は俺をかばうようにして体に弾を受けた。
「おい」
「ああ、大丈夫だ」
 口から血を吹き出しながら使者は笑った。
「この体は神からお借りした特別製で、どんな衝撃を受けてもすぐに元に戻るんだ。お前のボディーガードにはこれくらい必要だとおっしゃっていた。まったくその通りだな」
「あれくらいならよけられる」
「まあ、万が一ということもある。任せろ。オレは撃たれても平気なんだから」
 なんだか、やっかいなことになったような気がした。

 一週間が経った。あいかわらず、俺を殺そうとするやつらは休みなく襲ってくる。普段なら少しは傷を負うところだが、使者に守られていたために俺は無傷だった。
「いつもこうなのか」
 使者が聞いた。体は穴があいてもすぐ元に戻っていたが、服はもうぼろぼろになっていた。
「ああ」
「ひどいもんだ。まあしょうがないけどな。オレだって使命がなければ……いや、あったって殺したくなるんだから」
 そう言って、使者は俺の顔から目をそらした。
「神は、お前は何も悪くないとおっしゃっていた」
「…………」
「オレはそれを知ってるのに、お前の顔を見るとこんなやつ死んで当然だと思う。残酷な話だよ。お前、神を恨んでるだろう?」
「別に」
 そんなことはあまり考えたことはなかった。考えるひまがなかったのだと思う。
「ほんとに恨んでないのか」
「ああ」
「すごいな、お前」
 使者はため息をついた。
「けど、極悪人がうそぶいてるようにしか聞こえない。困ったもんだな、その顔」

 使者はいつも俺のそばにいて、全ての攻撃から俺を守った。その体は穴だらけになったりつぶれたりして、しかしまたすぐ元に戻った。
 俺を殺そうとするやつの数はどんどん増えてゆく。俺を守る使者の体は元がどんなだったか分からないほどに変形して、またすぐ元に戻った。そんな光景を見るのにもしだいに慣れていった。
「今日がどういう日だか知ってるか」
 外を歩きながら、使者がふと言った。
「いや」
「オレが神からこの世に遣わされて、ちょうど一年になる」
「ああ。もうそんなになるのか」
 今までとはまったく違う日々だった。誰かとこんなに長く行動をともにしたことはなかったし、ましてやそいつが俺を守るなど、考えられもしなかった。
「正直言って、今でもオレはお前の顔を見ると嫌な気分になる。殺したくなる」
「そうか」
 一年間、こいつは我慢し続けているんだな、となんとなく思った。
「けどな」
 使者は俺をにらみつけるように見た。
「けど、それは感情だけの話だ。頭では、お前が悪いやつじゃないということを知っている。そのことは忘れないでくれ」
「……?」
「今日でお別れだ」
「…………」
「聞かれなかったから言わなかったけど、最初から一年間と決まってた。今、ちょうど一年が経った。もう、いつお前が死んでも、世の中のバランスが崩れることはなくなったんだ」
 そうか、と言おうとした時、背中から胸に何かが通っていった。体が跳ねて倒れた。撃たれたんだな、と気がついた。もう誰も守ってはくれない。急にくぐもって聞こえるようになった周囲の音の中から、俺に呼びかける声がした。
「おい、おい、何やってるんだ。まだいいんだ、そんなすぐ死ななくても、多少の誤差は許されるんだ」
 いつのまにか守られることに慣れていた、とぼんやり思った。使者に出会う前だったら、よけることができただろうか。声はだんだんと遠くなっていくようだった。
「まだいいんだ、しっかりしろ。しっかり、……ああ、こんな時にまでこの顔、こんなやつ死んで当然だ」
 それから子供のような泣き声が聞こえた。俺は思わず笑ったが、多分それは顔には出ていないのだろう、と思った。
「オレ、小さい頃にさ。すごくおいしいものを食べたことがあるんだ。もしかしたら、夢だったのかもしれないけど」
「へえー。どんな?」
「大きさはこれくらいの……ハンバーグに似た形でさ。ちょっと小さかったかな」
「ふうん」
「揚げものだった。中は何だろう、じゃがいもの味だったような気がするな。肉の味もしたかな。あと、たまねぎと」
「へー。コロッケとは違うの?」
「コロッケ? コロッケって何」
「いや、コロッケはコロッケだよ」
「あれはコロッケってものなの?」
「……コロッケ知らないの? 嘘だろ」
「知らない。コロッケ? あれが? どこに行けば食べられる?」
「どこでだって食べられるよ……。ほら、あの店にだって売ってるし」
「ほんと? ほんとに!? ありがとう、ちょっと買ってくる!」

 走っていく彼の後ろ姿をぼんやりと見送った。
 言ってはいけないことを言ってしまった、と思った。
「やあ、ウィルソン」
「お、ウィルソン。来たか」
 ウィルソンはいいやつだ。僕を名前で呼んでくれる。けれど、僕はウィルソンと会うたびに、自分が彼のクローンだということを実感せずにはいられない。
「バーバラは元気かい」
 短い挨拶の後、ウィルソンはすぐにバーバラのことを聞いた。いつもの通りだ。
「ああ、元気でやっているよ」
 僕はバーバラの写真を取り出し、ウィルソンはそれを一枚一枚ゆっくりとながめた。
「……本当に変わらない。あの頃のままだ」
 見終わって、ウィルソンは深くため息をついた。
「会いたいかい」
「ああ。でも、もうだめさ。お前と入れ替わったってすぐバレちまう」
 十年前は双子以上にそっくりだった僕らの外見は、今では同じ遺伝子とは思えないほどに変わっていた。特に、ウィルソンは変わった。日に焼けて、筋肉もつき、顔も僕と違って頼もしさにあふれている。これが夢を追い、夢をつかんだ男の顔なのだろうか。
「農場の方はどうだい」
 今度は僕が聞いた。うまくいっているだろう、ということはなんとなくわかっている。
「まあ、なんとかやっているよ」
 ウィルソンは笑顔を返し、この前に会った時よりもさらに大きくなったらしい農場の話を始めた。僕の心の中で何かが痛んだ。しかしそれでももっと聞きたかった。
「うまくいく、とわかっていても、バーバラは農場をやるのに反対したかな」
「さあね。そんなことは考えてもしょうがない」

 農場を経営するのは、ウィルソンの昔からの夢だった。しかし十年前、ウィルソンと婚約したバーバラはそれに反対した。農場か自分かどちらかを選べと彼女は言い、バーバラを深く愛していたウィルソンは苦しんだ。そんな時一人の男が現れた。
「クローン人間の研究をしております。なかなか被験者になってくださる方がおりませんでな」
 目をぎょろぎょろさせながら男は笑った。
「なにやら大変な選択を迫られているそうで……。どちらも自分の手でつかみたいとはお思いになりませんか」
 そして、僕は生まれた。ウィルソンの記憶を全て植え付けられたが、どこか自分のことではないような違和感があった。
「バーバラをよろしく頼む」
「必ず幸せにする。あんたもがんばってくれ」
「時々、会おう」
 ウィルソンは去り、僕と美しい妻との結婚生活が始まった。僕は妻を愛している。幸せだ。それでも時々、農場の夢を見た。

「じゃあ今は、農場の夢と会っているというわけだな」
 ウィルソンが笑った。会うといつも、なんとなく思い出話になる。お互いわかりきった話だが、話せる相手は一人しかいないのだ。
「そして俺は、バーバラの夢と会っているというわけ……」
 言いかけたウィルソンの顔がこわばり、目が見開かれた。振り返ると、そこにバーバラが立っていた。
「……バーバラ」
「時々、あなたの様子がおかしくなると思ってて……。我慢できなくなって、つけてきてしまったの」
「今の話を?」
「……ごめんなさい」
 沈黙があった。それを破ったのはウィルソンだった。
「すまない、バーバラ。だが、俺は……」
「結婚してから、ウィルは少し変わったわ。私が夢をあきらめさせたせいじゃないかと思って、いつも心が痛かった」
 ウィルソンが前に進み出た。
「バーバラ……君のことを、一日も忘れたことはなかった」
「おお、ウィル」
 二人が抱き合い、熱烈なキスを始めたので、僕はそっとその場から離れた。
 早く家に帰り、旅に出るしたくをしよう。僕はまだ若い。今度は僕だけの夢や、僕だけの女を捜そう。
 後ろは振り返らなかった。色々な可能性があった中で、多分一番いい結末になったに違いないのだ。急に遠くなったウィルソンとバーバラが、僕の心の中でお互い見つめ合って笑っている。幸せになるといい、と思う。きっともう会うことはないだろう。
 わたしが住んでいる町に、古い洋館みたいなのがあって、誰も住んではいないのだけど、夜になるとそこからよくピアノの音が聞こえてくるのだった。わたしもその音を、何度も聞いた。怪談なのだろうけど、あまり怖くはなかった。なぜなら、そのピアノがとてもへたくそだったからだ。
「霊がひいてるんじゃなければとっくに怒鳴り込んでるよ」
 近くに住む人が笑いながら言っていた。
「全然うまくならないねえ」
「まあしょうがないさ」
 そんなふうに、よく話題にもなっていた。
 わたしはそのピアノがきらいだった。なぜなら、そのピアノがとてもへたくそだったからだ。
 わたしはピアノがうまい。天才少女だとか言われているし、自分でもそう思う。あのピアノをひいている人には才能がない。わたしにはそれがよくわかった。それなのになぜひくのだろう。あんな音色は誰の心も動かさないのだから、やめればいいのに。
 それともまさか、自分ではうまいと思っているのだろうか。そうかもしれない。そうでなきゃ幽霊になってからもひいたりしないだろう。そう思うとむかむかした。そんな勘違いをしているのなら、たとえ幽霊でも正さなくてはならない。
 わたしは昼間、あの洋館にしのびこんだ。夜はさすがにちょっと怖かったからだ。
 ほこりをかぶったピアノがあった。長い間、誰もふれていなかったらしい。でも鍵盤を叩いてみると、つい最近調律をしたかのように正しい音が出た。
 わたしはぎしぎしいう椅子に座り、ピアノをひいた。ピアノもびっくりしていると思った。いつもと違ってこんなにいい音が出ているのだ。幽霊に聴かせるつもりでわたしはひいた。これが本当のピアノの音というものだ。あなたが霊になってまでひいていたあれは、耳障りで迷惑だからはやくやめるといい。三十分くらいひいてから、帰った。
「最近、ピアノ聞こえないね」
 数日後、あの洋館の前を歩いていた時、一緒にいた友達がふと言った。わたしは満足だった。
「そうだね」
「そういえばあの幽霊、昔はピアノうまかったって話、知ってる?」
「知らない。そうなの?」
「昔っていうか、生きてる時ね。すごくうまかったんだって。でも、手をけがしちゃって、うまくひけなくなったんだって」
「…………」
「それでもずっと練習してたんだけど、やっぱりうまくひけないままで、そのまま死んじゃったんだって」
「……そうだったんだ」
 ひどいことをした、と思った。なんであんなことをしてしまったのだろう。
 でもわたしのピアノはうまいし、あの人のピアノはへただった。わたしは別に、そこのところでは間違っていなかった、と、それははっきり言えることだ。
 だからわたしは、あの人の分までうまくなろうと思う。もっともっと、ずっとうまくなって、あの人にごめんて言えるくらい、うまくなろうと思う。
 ピシイ
「痛い!」
「貴様ら、それでもカメレオンか! まるで石と同化しておらん!」
「で、でも……ちゃんと同じ色じゃないですか」
「そうですよ、僕らは完璧に」
 ピシイ ピシイ
「痛い! 舌で叩かないでください」
「色を同じにすればよいと思っておるのか! 心じゃ! 心がまるでなっておらん!」
「心って……石なのに、心なんて」
「石の心じゃ! 石の心になれい!」
「石の……心……」
「身も心も石になりきらねば、虫をとらえることなどとうていおぼつかぬわ!」
「師匠! もう一度、もう一度やらせて下さい!」
「お、おい。お前、分かったのか」
「ようやく見込みのある奴が現れたか! よし、もう一度じゃ!」

「や、奴め……このわしを超えたかもしれぬ。貴様らもあの姿を見よ! 奴は石と完全に同化した。あれがその証拠じゃ!」
「あ、あれは」
「まさか」
「そうじゃ! 奴の体に、虫がとまっておる!」
 バーン
「す、すごい……」
「ああ、すごいな」
「うん、まあ、すごいよな」
「でも、あの虫どうやってつかまえるんだろう」
「しーっ」
 とがった鉄の棒が落ちていた。何気なく拾い、ひょいと投げた。道ばたに転がっていた丸太に刺さったので、はっとして丸太を見直した。へのへのもへじで顔が描かれている。
「変わり身の術か!」
 叫ぶやいなや身をかわす。それまでいた地面にクナイが次々と突き刺さった。
「やるな」
「ちっ」
 壁を横走りしながら巻物を口にくわえて印を結んだ。ドロドロという音とともに現れる煙、煙の中からガマ、ガマの背中に飛び乗り、塀についている目印を叩けばクルリと回るどんでん返し、素早く入った敷地内、たちまち上がる土遁の煙、現れたるは次なる刺客、見事な息の合わせよう、四方から迫る斬撃を、紙一重でかいくぐって池に投げるは炸裂弾、上がる水柱の勢いで跳ね上がるガマの、影から投げおろすクナイはあやまたず刺客に命中、ガマの背中を蹴りさらに高く跳ね上がり、残る敵はおらぬと確認、空中で回転し勢いを殺し、降り立った場所はもとの道、とがった鉄の棒が落ちていた。
 なるべく見ないようにして、そばを通りすぎた。
 天気予報はくもりのちキュウ。キュウに関する予報はめったにはずれない。そろそろ降る頃だろうと思っていたら、外から悲鳴が聞こえ始めた。
「キュウ」
「キュウ」
 キュウの鳴き声だ。初めてキュウが降ってからもう三年、慣れたことは慣れたけど、やっぱりその声を聞くとなんともいえない気持ちになる。
 キュウの大きさは三センチから五センチ、色は灰色で、ハムスターを丸くしたような形をしている。三年前、夏なのに妙に寒かった年の終わり頃に、雨や雪と同じように空から降り始めた。
「キュウ」
「キュウ」
 地面に落ちると、キュウと鳴いて苦しそうにぴくぴくして死ぬ。死ぬと水になって流れていく。そんなのがあちこちで大量に降った。最初はとても慣れることはできないだろうと思った。すぐに水になるから特に何か被害があるわけではないけど、ぴくぴくとけいれんする姿を見れば胸が苦しかったし、鳴き声を聞けば泣きたいのに泣けないような悲しい気持ちになったものだ。
 キュウは地面に落ちた衝撃で死ぬわけではないらしい。やわらかいもので受け止めても、やっぱりキュウと鳴いて死ぬ。落下している間だけ、生きている生き物なのだそうだ。
「キュウ」
「キュウ」
 キッチンペーパーが切れていることに気づいた。
 明日でいいかな、とキュウの鳴き声を聞きながら思ったが、やっぱり買いに行くことにした。もう慣れた、と思う。
 傘をさして歩く。傘に当たったキュウが一声ずつ鳴いてとけていく。まわりが悲鳴と死のけいれんに満ちている。家にいて鳴き声だけ聞いているより、外を歩いている方が平気なのはなぜだろうと考えた。地面をぬらす水はキュウの体で、それを踏みながら歩いている。もう慣れた、とまた思った。
 キッチンペーパーと、ついでに野菜と漬物を買って店を出ると、キュウはやんで空は晴れていた。雨あがりのにおいがした。