久しぶりに空を飛ぶ夢を見たけど、「この錠剤を一粒飲めば体重が半分になり、もう一粒飲めばさらに半分、それを繰り返して飛行可能な体重にする」とか「これを飲んで体重が減っても体積は変わらないが、強度は減るので肉体が紙レベルのもろさになり危険」とかいろいろ設定があって、自分はもう、ただ空を飛ぶ夢を見ることはないのだろうかと少し寂しくなった。
けれども、錠剤をいくつも飲んだため腹が水でふくれたとか、飛んでいる自分を記録用に撮影している人がやけに事務的な冷静な顔をしていたとか、飛ぶ現場には行きも帰りも電車だったとか、そんなことを何度も思い返しているうちにふと、ああ、それでもやはり楽しかったのだな、と思った。
彼女の家は町のほぼ中心にあり、その外観は絵本なんかでよく見る宮殿のようだった。そう言うとなにやら異様だが、僕は別に異様だとは思っていなかったし、この町に住む人たちはみんなそうらしかった。
「よく考えればこんなところに宮殿ておかしいよね」
冗談で誰かがそんなことを言う。そういう家だった。誰もおかしくないと思っているからこそ、それは冗談になったのだ。
彼女とは小学校三年生から今まで六年間、ずっと同じクラスだった。家も近いから、外でもたびたび彼女を見かけた。彼女はなぜか、外国人が意味を知らないで着るような、漢字が書いてあるTシャツをよく着ていた。「粽寿司」とか書いてある背景に桜の花びらが散ってるようなやつとか、「覇王」とか「木下先生」とか「案山子」とか書いてあるやつとかだ。夏はたいがいそれだったし、春や秋もそれの上にもう一枚羽織ったような格好が多かった。
そんな格好で宮殿から出たり、宮殿に入っていったりする。さすがに宮殿にそぐわないその光景は、見ていると少し面白かった。
一ヶ月前、彼女のお母さんが亡くなった。彼女は学校を休み、そしてそのまま学校に来なくなった。
「葉月さんどうしたんだろう」
「寝込んじゃったのかな」
クラスの女子が数人、見舞いに行ったが、宮殿の入り口でガードマンに追い返されたらしい。僕も彼女が外を歩いている姿をずっと見ていない。一体何があったのだろう。
宮殿は山の中腹のようなところにあって、宮殿の庭の一部はそのまま山につながっていた。僕の家の庭も同じ山に面していて、小さい頃はその山の中で友達とよく遊んでいたから、どこを通れば宮殿の庭に出るのかは知っていた。あそこには塀もない。普通の家と同じくらいの不用心さだった。
(行ってみようかな)
もうずいぶん入っていない山に入った。新しい木がずいぶん生え、僕の体の大きさも変わっていたので、道がよく分からなくなっていたけど、どうやら宮殿の庭に出ることができた。
彼女はそこにいた。黒地に白で大きく「毘」と書いてあるTシャツを着て、宮殿の庭で花に水をやっていた。宮殿はその後ろにそびえていたが、なぜか今日はそのTシャツがそぐわないとは思わなかった。
「葉月」
「あっ」
彼女は僕を見て驚いた顔をした。
「何やってるの、こんなとこで」
「そっちこそ。何学校休んでるんだよ」
「休んでるっていうか……」
彼女はしばらく考えてから言った。
「こんな話、信じてくれないだろうから……」
「いや、信じるよ。どうしたんだよ」
「……お母さんが死んだの」
「それは聞いたけど」
「この家は……ええと……。この家の血筋の女が少なくとも一人、必ず敷地内にいなくちゃいけない決まりがあるの。今まではお母さんがいて、まあ時々は私が代わってたんだけど、お母さんがいなくなって私一人になっちゃったから……」
「なんだよそれ」
「だから……その、私はここからもう出ない。将来結婚して、娘ができるまで」
僕は黙っていた。彼女はなんだか気の毒そうな顔をした。
「信じられないでしょ、こんな話」
「いや」
さっき信じると言った。だから僕はそう言った。
「出たらどうなるの?」
「家も庭も、全部消えちゃうんだって」
「ふうん。……そうだったのか」
信じられない、とはやはり言えなかった。彼女は俺が信じたと思ったらしく、少し笑って、誰にも言わないでね、と言った。
「でも、人が入ってくるのはいいんだろ? 見舞いに行ったのに追い返されたってクラスの女子が言ってたけど」
「色々聞かれると困るから、入り口で追い返すことになってるんだよ。……そういえば、どこから入ってきたの?」
「ああ、こっちこっち。つかここ不用心すぎるよ」
「そうだねー。でも泥棒が入る気なくすらしいのよ、ここ」
僕は自分が入ってきた場所に彼女を連れていった。
「へええ。ここから入れるの?」
彼女は宮殿の敷地から外に出ないように気をつけながら、背伸びして木々の隙間からむこうを見ていた。どこまでが宮殿の敷地なのかは、線を引いてあるようにはっきりとわかる。僕はそんな彼女を見ながら、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思った。
一生ここから出ない? 出たら宮殿がなくなるなんて話を信じて?
抜け道を見て感心している彼女の背後にさりげなく回り、僕はその背中を思いきり突き飛ばした。彼女はよろめきながら敷地の外に出て、木に手をついてこちらを振り返った。そのあまりに絶望的な表情に僕はなんだかぞっとしたが、無理に笑った。
「ほら、外に出たって何も」
起こらない、と言おうした時、地面が揺れ始めた。地震? いや、違う。宮殿が震えているのだ。僕はあわてて敷地の線を飛び越えた。彼女が呆然と、揺れる宮殿を見ていた。
宮殿も地面も、敷地内の何もかもが音もなく激しく震え、そして上の方から崩れ始めた。やはり音もなく、崩れるそばから白くさらさらと流れ、数分後、敷地内にはただ砂だけが残った。
僕はただぼんやりとそこに立ち、ふと、これで彼女を縛るものはなくなったのだなどと突拍子もないことを考えた。彼女はもう宮殿のあった場所は見ていなかった。視線は上の方、空を向いていた。
「あのさ……」
とりあえずそう言いかけた時、また地面が震え始めた。さっきと同じ揺れだった。僕は自分が立っている地面を見た。宮殿の敷地内ではない。当たり前だ。なぜ揺れている。どこかに逃げよう。しかし、どこもかしこも揺れていて、もう逃げられないような気がする。
混乱する僕の目に、彼女の「毘」のTシャツが目に入った。いつもは宮殿にそぐわないと思っていた漢字のTシャツが、そういえば今日はおかしく見えなかった。そんなことをふと思った。今日の彼女はあの宮殿の一部だったから、宮殿にとってなくてはならないものだったから、そう見えたのだろうか。
それから、こんな町に絵本のような宮殿があるのを、なぜか誰もおかしいと思わなかったことを考えた。もう少し何か考えようとした時、地面の揺れがいっそう激しくなって、もうそれ以上は何も考えられなかった。
「では、陪審員の皆さんは別室で評決をお願いします」
「……さて皆さん、評決に入る前に、一つ重大な問題があります。陪審員といえば十二人のはずですが、なぜかここには十三人いるのです」
ざわざわ
「ということは、つまり」
「ここに陪審員でない者が」
「混ざっていると?」
「その通り。誰が部外者であるか、そしてその目的を知るまで、評決に入るわけにはいきません」
ざわざわ
「この裁判では被告の有罪は最初からほぼ確定していた……」
「つまり、被告を無罪にするために?」
「では、さっきまでの話し合いで被告を無罪と主張していた者があやしいというわけか」
「無罪と主張していたのはただ一人……」
「…………」
「ロバート・フォックス! 犯人はお前だ!」
「な! ち、違う。俺はただ、あいつが無罪っぽい顔をしていたから」
「顔だと! そんなことで」
「大体あいつは悪人面だった」
「顔立ちの話じゃない、目を見ろよ」
「目も含めて言ってるんだ」
「お前は分かってない」
「大体目なんかくぼんでて見えなかった」
「ばか、そもそも顔の話なんかどうでもいい」
わあわあわあわあ
「落ち着いてください、皆さん、落ち着いて!」
ざわざわざわ
「どうもこれではまともな話し合いはできそうにない。裁判形式でいきましょう。私が裁判長をやります。被告はロバート・フォックス。誰か弁護人と検事を」
「じゃあ僕が弁護を」
「私が検事をしましょう」
「残りの十人で陪審をお願いします。ではただいまより、ロバート・フォックスの裁判を行います。検事、冒頭陳述を」
「はい。被告、ロバート・フォックスは、むこうの本物の裁判の被告を無罪にするために陪審員の中に入り込み、評決を誘導しようと……」
「異議あり! 被告とむこうの被告とは顔見知りではありません! 彼らの住所をごらんください。地図にすればこの通り、100kmもの距離がある上勤め先はさらに逆方向です」
「異議あり! それは現在の住所の話です。被告は二ヶ月前に現住所に引っ越しましたが、それ以前は、ごらんください、むこうの被告のすぐ近所に住んでいた!」
おおー ざわざわ
「しかもむこうの被告が逮捕されたのは三ヶ月前、その一ヶ月後に被告がこちらに引っ越してきたのはあやしいと言わざるをえない!」
「異議あり! 被告が現住所に引っ越したのは転勤のためであります。これははっきり証拠の書類として残っています! しかも突然の決定であり、事前に知らされていなかった。これは上司の証言でも明らかです」
ざわざわ
「しかも近所とはいえ歩いて30分かかる距離であり、それぞれの行動範囲もまた逆方向……」
「異議あり! 被告とむこうの被告は同じバーを行きつけにしていました! 客とマスターの証言もはっきりしています!」
オオー ざわざわ
「異議あり! そもそも被告がそこに住んでいたのはわずか一ヶ月半のことです。むこうの被告が逮捕されるまで、出会う機会は約半月! その間に顔見知りになる可能性は……」
「異議あり! その可能性は十分あります!」
ガンガン
「……わかりました。被告とむこうの被告が顔見知りであったか、そこが争点となるようですね。では時間もありませんのでそろそろ陪審員の皆さんは別室で……」
「裁判長。たとえ顔見知りであっても、危険をおかしてまで無罪にしようとするような関係である可能性はきわめて低いことをお忘れなく」
「異議あり! 弁護人は……」
「まあまあ、検事。もう時間がありませんから」
「しかし」
「弁護人も、主張はもっと前にするように」
「はい」
「では陪審員の皆さんは別室で評決をお願いします」
「……さて皆さん、評決に入る前に、一つ重大な問題があります。この件に関する陪審は十人のはずですが、なぜかここには十一人」
ペン立てにしている縦長のコップ。その中に、ペンに混じってアイスの棒が一本ささっている。
「あたり もう一本」
時々取り出して、その文字をながめる。
スペースミックスは今はもう売っていないアイスだ。こんな棒を持っていたってしょうがないのだが、俺は部屋の掃除をしても、引っ越しをしても、この棒をペン立てにさしたまま、いつも近くに置いている。
初めてあのアイスを買ったのは小学校2年生の夏休みだった。黒と何か派手な色のマーブル模様のそのアイスは、食べたらチョコの味しかしなかった。どこが気に入ったのかわからないが、俺はよくそれを買っていた。
あたりつき、と書いてあったが、ちっともあたりは出なかった。
「あたり もう一本」
初めて当たりが出たのは1年後、3年生の夏休みの時だった。俺は喜んで買った店に行った。
「おや、よかったね」
多分ものすごく嬉しそうな顔をしていたんだと思う。店の婆さんは笑っていた。
家に帰って袋を開け、かじりついた。
「あれ……」
半分食べて驚いた。また当たりだったのだ。今までは一度も当たらなかったのに。
今日はもう2つ食べたから、明日もらおう。俺は幸せな気分で、棒をきちんと洗ってティッシュに包み、机の中に入れた。
次の日もらったアイスも、また当たりだった。こうなると俺はもうそれが当然のことだと思い始めた。心のどこかで夢見ていた、1本の当たり棒でいつまでもアイスを食べられるという、その循環に入ったのだと考えた。ポケットに棒がある。子供の俺にとってそれは、一生飢え死にをしない保証という大層なしろものだった。次の日も、また次の日も当たりだった。
棒を持って店に向かうのが10日ほど続いた。その日、店の婆さんは俺がレジに出した棒と新しいアイスとじっと見てしばらく黙っていた。
「……どうやってるんだか知らないけどね」
「?」
「1回2回ならともかく、そんなに何度もやるもんじゃないよ」
婆さんは俺の顔を見ないで言った。疑われたんだ。そう思ったとたん、嬉しい気分は全部吹っ飛んだ。考えていなかったところから、何かが崩れてしまった。黒い組織が現れてこの棒を狙う、などという事態は考えていたくせに、こんな事態は想像もしていなかった。
俺は頭が真っ白になり、気がつくと棒をつかんで店を飛び出していた。
家に帰って泣いた。インチキなんかしていない。棒を握りしめて泣いた。冷静に考えれば、疑われてもしかたなかったのかもしれない。でも、インチキなんてしていない。なんでこんなことになったんだろう。その日の夜は眠るまで、色々なことが頭の中をぐるぐる回った。
それからはもう、棒をアイスと交換しには行かなかった。しばらくはあの店にも行かなかった。そのうちにまた行くようになったが、スペースミックスはもう買わなかった。
そして、何年後かはわからないけど、気がついたらスペースミックスはいつのまにかなくなっていた。
「あたり もう一本」
コップに刺さっている棒を時々取り出して、その文字をながめる。
嬉しいような、悔しいような、悲しいような、懐かしいような。なんともいえない気持ちが心の中をぐるりと回り、なぜだかいつも笑ってしまう。
ポツポツと降ってきた雨に、たちまちリトマス試験道路が赤く染まり始めた。
「酸性雨だ!」
突然の雨だった。しかしこんな危険なご時世、誰も備えを怠らない。あちこちでリトマス試験傘の赤い花が咲き始める。
「どうしたの。早くさしなよ」
あわてたような声に振り向くと、リトマス試験傘をさした女と、その横で肩から下げたカバンに手を突っ込んでいる男がいた。
「おかしいな、折りたたみ持ってきてたはずなんだけど」
「ちょっと危ない、私のに入って」
「悪い」
恋人たちが固く身を寄せ合うリトマス試験相合傘。美しく危険なその光景に気を取られ、私の服の裾は黒く焦げた。
黒光りするような一面の紫。他の畑にあるような緑色が一切ない、これが新藤さんのブドウ畑だ。
「おーい、収穫だぞ。何をぼーっと突っ立ってるんだ」
「は、はい!」
コマクブドウを室外で栽培するなんて、数年前には考えられなかった。通常のブドウとは違って、コマクブドウは一年ごとに種をまいて収穫する。葉はなく、上に伸びる紫色の茎がいくつにも枝分かれしてそのままブドウの房になる。成長した苗の背の高さは僕と同じくらいで、一つの苗から巨峰に似た房がおよそ20ほど収穫できる。酸味と甘み、かすかな苦みが絶妙なバランスを保っているその味もまた素晴らしい。
しかし突然変異で生まれたこの種はひどく弱かった。太陽の光がなければ枯れ、強すぎても枯れる。気温が高くても低くても枯れる。さらにその適温も日によって違うというわがままさだった。ごく一部の人々が、外部と遮断された中でこのブドウを作り、とんでもない値段でごく一部の人々の口に入った。
以前の僕は、別のところでコマクブドウの栽培をしていた。繊細すぎるブドウの評判を知った金持ちの道楽のために雇われ、ブドウのわがままにつきあっていた。ちょっと目を離せばすぐ枯れそうになる。数人が交代で、狭い室内を一瞬も目を離さずに見回っていた。
僕はコマクブドウに惚れ込み、生きた芸術品だと思っていた。だから、自分の仕事が好きだった。ブドウに全力で奉仕することが喜びだった。
ある日、コマクブドウの室外での栽培に成功、というニュースを聞いた。僕はこの場所に駆けつけ、新藤さんに出会い、この畑を見た。黒光りするような一面の紫。いつも見ているのと同じ種類のブドウのはずが、ここの畑のそれは圧倒してくるように力強かった。
新藤さんは僕に一房、このブドウをくれた。こんな貴重なものを、いや、考えてみればここではそう貴重でもないのか。そんなことを考えながら皮をむき、口に運んだ。
僕はその味を知っていた。でも、僕が知っている味ではなかった。畑を見た時と同じ、圧倒してくるような力強い味だった。
「品種改良ですか」
「ああ。成功するまでに十二年、いや十三年だったか……」
新藤さんは少し笑った。
「あんたも、コマクブドウを作ってるのかい」
「はい」
「俺も前には、家の中で色々やりながらコマクブドウを作ってたんだ。ブドウのためなら、どんな苦労も苦労じゃなかった。このブドウに惚れていたからな」
「わかります」
「だがだんだんと、これは本当のコマクブドウの姿じゃないと思うようになった。本当のコマクブドウはおそろしく強いような、そんな気がしてきた。外で育てたいと思うようになった。色々あったが、ようやく成功した」
「…………」
「ここのブドウは、手をかけんでも勝手に育つ」
新藤さんは畑の猛々しい紫色をじっと見つめながら言った。
僕は新藤さんに頼み、次の年からこの畑を手伝わせてもらうことにした。新藤さんの手で生まれ変わったコマクブドウは、誰でも簡単に育てられる。しかし新藤さんほどこのブドウを知り尽くし、見事な味を出す人はいない。無理を言って弟子入りさせてもらったのだ。
「今年も大漁ですね」
豊作、と言うべきなのかもしれないが、なぜか大漁の方がしっくりくる。熟れた房をもぎ、まだのものは残し、かがみこみながら歩いていると、紫の中で誰かと目が合った。
「!? ……うわーっ!」
全身紫、顔まで紫に塗った男が目の前にいた。
「バレた! ずらかれ!」
「クソッ!」
たちまち数人の紫色の男が畑から飛び出した。それぞれが紫色のカゴを持ち、中に大量のブドウを入れている。逃げた男たちの姿が消えた、と思ったら、紫色のものがブブウと音を立てて動きだした。気づかなかったが畑のそばに、紫色に塗ったトラックが止めてあった。白昼堂々の果物泥棒だった。
「なんてやつらだ! 泥棒ー!」
「ほうっておけ」
「でも」
「かわりはいくらでもあるわい」
新藤さんがぐいと回したあごの先には一面の紫。その紫と同じ色のトラックが、畑を離れて消えてゆく。よく見えないが荷台には、この畑からとった同じ色のものが積んであるのだろう。
(かわりはいくらでもある、か……)
昔だったら考えられない言葉だ。僕はブドウのわずかな変化に右往左往していた頃を思い、かすかな寂しさを覚えた。
「まったく、大漁だな」
新藤さんがつぶやいたのが聞こえた。
『ここのブドウは、手をかけんでも勝手に育つ』
初めて会った時、畑の紫を見ながら新藤さんはそう言った。そういえばあの時の新藤さんも、どこか寂しそうではなかったか。
けれどもそんな感慨も、この紫色の中にいると消えてゆく。視界のすべてを染めている紫色は、凶暴なくらい強くて圧倒的で、この紫色に食われるのではないかという不安を覚えるほどだ。そして同時に、このおそろしく強い紫に僕はすでに食われ、その中にいるのだという安心感がある。
あの頃とは全然違う。けれども僕は今でもやっぱり、このブドウに惚れているのだと思う。
「おい、博士。人類滅亡計画は進んでいるか」
「まあね。しかし、まだご期待にそえる状態ではないよ」
「どこまでいったかだけでも教えてくれ。俺とあんたは人類を憎み、人類として生まれてきた自分も憎み、この汚い種族を絶滅させようと誓い合った仲だ。研究資金に不足はないかい」
「ああ、大丈夫だ。研究の方はだいぶできてきたよ。まあこれを見てくれ」
「……なんだそりゃ。蚊か? 伝染病でも広めようというのか?」
「そんなことをしてもすぐ治療薬が作られ、人類滅亡には至らないだろう、この蚊は伝染病の媒介ではない。これ自体が人を殺すのだ」
「毒でも持っているのか」
「いや。毒はない。だから証拠も残らない。人類滅亡まで蚊のせいだとはわからないだろうな」
「どういうことなんだ。教えてくれ」
「鍼治療というのを知っているだろう? ツボを鍼で刺激するやつだ」
「ああ」
「あれは心身を健康にする目的があるが、実は人体には、決して刺してはいけないツボというのが存在する。たとえば、刺せば即死するツボだ」
「……!」
「私は長い研究の結果、人体のツボが出しているかすかな波長を発見した。さらに研究を進め、一つ一つのツボの波長の違いもわかった。もちろん、即死のツボから出ている波長もな」
「で、では、もしやその蚊は」
「そうだ。即死のツボから出る波長に引き寄せられ、そこを刺す。吸い口が特殊になっていて、鍼と同じようにツボを刺激する。刺された者はたちまち死ぬが、まさか蚊のためとは誰も気づかないだろう」
「すごいじゃないか! じゃあ、あとはそれを繁殖させれば……」
「あわてるな。ツボを刺す蚊自体は作れるようになったが、即死のツボはなかなか刺せない。範囲も非常に狭いし、それにもともとツボというのは、心身にいい影響を与えるものの方がずっと多いんだ。刺した人間の体を健康にし、気分を明るくする、そんな失敗作ばかりできている状態だよ」
「そうか……。しかしまあ、もう一息だな」
「そうかもしれない。だが、最近思うんだ。即死のツボなんて、そんな研究に果たして意味はあるのだろうか、と……」
「おい、何を言い出すんだ」
「みんな元気に、楽しく生きていけばいいのではないだろうか、と……」
「あっ。こいつ、失敗作に刺されてやがる」
「よーしみんな目をつぶれ。この中に山田の給食費を盗った者が、いない」
「先生」
マリーは僕が持っているたくさんの人形の中でも、ちょっと特別な一体だ。マリーは腹話術用の人形で、僕は時々マリーを選んで舞台に出る。
「ねえ、今日はあたしを連れてってよ」
濡れたように輝くマリーの瞳がそう訴えている時は、それに逆らわないことにしている。優美な曲線で構成されたその顔、その肢体、それを包むドレスのすそに手を差し入れる時、僕はちょっと妙な気分になる。
マリーと舞台に出る。マリーと出る時はたいていお客の反応がいい。僕はその理由を知っている。この人形が生きているからだ。あの人形師の魂が宿った人形だからだ。
懇意にしていた人形師が亡くなったのは、2年前のことだった。
「これを渡してくれと頼まれたんです」
友人らしい初老の男から手渡された箱に、マリーは入っていた。
「これは……?」
「あなた、あいつに人形を作ってくれと依頼したそうじゃないですか」
「え、ええ。でも」
僕が頼んだのはたしか、ロボットか何かの人形だった。こんなフランス人形みたいなのじゃなかった。
「やっぱり頼んだのとは違うんですね。しかしまあ、受け取ってやってください」
「はあ……」
「あいつはね。若い頃、ヨーロッパで恋をしたんです」
「は?」
「で、まあ全然相手にされなくてね。帰ってきたけど、ずっとその女のことが忘れられなかったらしいんですよ」
「じゃあ、これはその女性の……」
「そうでしょう、多分。俺はその女の話、あいつに何度か聞きましたがね、聞いた通りの顔ですよ、その人形」
僕にとっては初めて聞く話だった。
「あの人が、ですか……」
亡くなった人形師は豪放な人だった。僕が訪ねていくと「よおっ、来たな!」とガラガラしただみ声で怒鳴る。どたどた走り、「ご注文の品はどれだった。これか! これか!」と乱暴に棚をあさる。
「おう、あったぞ! ガハハ! ガハハ!」
あんな人がなぜこんな細かい手作業をやれるのかと思っていたけど、若い頃の恋をずっと忘れられないような一面もあったのか。死期が近いのを知ってその女性の人形を作ろうと考えたのだろうか。そこにちょうど僕の注文があったのか、それとも僕の注文の方が先だったのか。
「ありがとうございます。いただいていきます」
僕が箱を手に頭を下げると、相手もちょっとうなずき、鼻をすすった。
マリーと舞台に出る。マリーの体が動き始めると、それだけで客席はただごとでない気配を感じるようだった。生きているとしか思えない動き。そうだ、マリーは生きている。あの人形師の魂がこめられているのだ。僕が人形を動かし、僕が人形の声を出している。そのはずだけど、マリーといる時はそんな気がしない。マリーは自分で動き、自分で話す。そうとしか思えないのだった。マリーは生きている。
「どうしてわたしのこと見ているの?」
マリーが口を開くと、客席がまた驚き、ざわめく。
「見ちゃいけないのかい、マリー」
「そんなにじろじろ見るなんて、失礼じゃないかしら」
見とれるような優美な姿。マリーが生き生きと動く。
「気を悪くしたのならあやまるよ、マリー。でも君があんまり美しいものだから」
「まあ、あなたがお世辞を言う人だとは知らなかったわ。ガハハ」
ああ、マリー。なんて下品な動きだろう。そしてそのガラガラしただみ声。けれどもその動きも声もあまりに生き生きとしていて、客はその不思議さに君に釘付けだ。
マリーは生きている。あの人形師がすべての想いと、自分の魂を込めて作った。僕にはそれをどうこうすることなんかできやしない。マリーと出る時はお客もたいてい喜んでくれる。
だけど、美しいマリー、かわいいマリー、僕は本当のところ、なんだか悲しくてならないのだ。