ナユタキロシンA……肉体の老化を完全に止める薬。性欲及び生殖能力がなくなり、寿命が約1割縮むという副作用がある。一度の注射で永続的に効果が保たれる。
ナユタキロシンB……Aの効果を消す薬。副作用も消えるが、縮んだ分の寿命は戻らない。一度の注射で本来の年齢の肉体になる。
「ナユタキロシンの、あの、Bを打ってほしいんですが」
やれやれ、と僕は思った。
「三日前にAを打ったばかりですね」
「いけないですか」
「いけなくはないですが」
僕は前時代の人間なのだろうと思う。年を取らなくなる薬なんて大それている、という考えが抜けない。それを軽々しく打って、また軽々しく取り消す患者さんを見ると、ついていけない、とどうしても思ってしまう。
「好きな人ができたんです」
僕が不機嫌そうだと見て取ったのか、患者の女性はそんなことを言い始めた。
「それで、相手の人も私のこと好きになってくれたみたいで」
「いや、別に理由はいいですよ」
「あ、そうですか」
えへへ、と幸せそうに笑う。やれやれともう一度思いながら、なぜだか少しだけ、新時代の人々がうらやましいような気持ちになった。
ナユタキロシンA……肉体の老化を完全に止める薬。性欲及び生殖能力がなくなり、寿命が約1割縮むという副作用がある。一度の注射で永続的に効果が保たれる。
ナユタキロシンB……Aの効果を消す薬。副作用も消えるが、縮んだ分の寿命は戻らない。一度の注射で本来の年齢の肉体になる。
十八日未明、都内在住の松本英子さん(40)が、睡眠薬を飲まされた上にナユタキロシンBを注射された事件で、警察は松本さんの同僚の花井美枝容疑者(37)を傷害容疑で逮捕した。花井容疑者は、「松本さんに仕事のことで注意され、恨んでいた。薬は病院から盗んだ」などと容疑を大筋で認めているという。
松本さんは二十年前、二十歳の時にナユタキロシンAを注射していた。警察は「悪質な犯行であり被害者の心の傷ははかりしれない」として、容疑者をさらに追求してゆく方針。
去年の今頃だったと思う。夜道を歩いていたら上からカッとライトで照らされて、なんだスポットライトみたいだなと思ったら本当にスポットライトだった。以来休みなく、スポットライトは俺を照らし続けた。
昼は目立たないからいいのだが、夜になると誰の目にも、俺がスポットライトを浴びていることがわかってしまう。
「おい、なんだそりゃ」
「どこから照らされてるんだ」
最初のうちは仲間内でもさんざん不思議がられた。しだいにみんな慣れたようだが、それでも話題にはなる。みんなで飲んだ後、わあわあ言いながら店から出ると、暗い屋外、スポットライトが俺を照らす。
「何の芝居だよ」
どうしてもその話になる。それにもしだいに慣れていった。
屋外でも室内でも、スポットライトは離れなかった。うっかり映画館に行ったら映画よりも目立ってしまい、それ以来行っていない。家で電気をつける必要はなくなり、便利といえば便利だが、寝る時にも明るいのには閉口する。
それにもしだいに慣れていった。
そんな生活が一年ほど続き、今日の帰り、夜道を歩いていたら、ふっとライトが消えた。あ、と上を見て、まわりを見た。もうそこは、ただの夜道だった。
家に帰ると、部屋は真っ暗だった。久しぶりに電気をつけ、思い直してまた消して、そのまま暗い床に寝転がった。
そうだよなあ、となぜか納得していた。俺は元々、スポットライトを浴びるような種類の人間ではないのだ。この暗さにも、またすぐ慣れるだろう。明日は久しぶりに映画でも見に行こうか、と思った。
ぼんやりしているうちに、スポットライトを浴びた自分の姿が次々と頭に浮かんできた。部屋の中で何か食べている自分。寝ている自分。飲みに行ったが翌日に用事があり、一人だけ一次会で帰る自分。夜の公園の公衆便所に入る自分。夜道を歩き、傘を忘れたことに気づいてハッと振り返り、まあいいやと思ってまた歩き出す自分。それから……。
たくさんの自分の姿を思いながら、いつのまにか俺は笑っていた。まあ、大したことはしてないけど、そう悪くもなかったんじゃないかと思う。心の中で軽く拍手を送ると、ライトに照らされた黒い影が、こちらに小さく頭を下げた気がした。
「飲めっ! 聞こえねえのか! 俺の酒が飲めねえってのか!」
「ああ? 何言ってやがる、これは俺の酒だ!」
「何を! 俺の酒だ!」
「俺の酒だっ……ほら、ちゃんとこうして俺の目の前にある……」
「俺がついだんじゃねえか! 俺の酒だ!」
「ついだだと! それだけのことで、ふざけやがって……見ろ、俺なんかこの酒を……両手にこう、持ってるぞ……」
「やめろ、返せっ! 俺の酒を……」
「ヘッヘ、コップごとこう、抱きしめてやる……」
「あっ、何しやがるんだ俺の、俺の酒にてめえ! 返せ!」
「ハッ、誰がお前なんかに……へへへ、ぐいーっと飲んでやる、ほれゴクゴクゴク」
「あ、ああ……飲んじまいやがった、俺の酒、俺の酒を……」
がりっと噛んだ梅干しの種が口の中で割れた。テーブルの上に出すと、割れた種の中から身長1センチくらいのこびとがぞろぞろと出てきた。
米どころ米どころ
豊作だ豊作だ
やあやあやあ
やあやあやあ
こびとたちは踊り、歌いながら、私の食べかけのごはんを盛ってある茶碗のまわりをぐるぐる回った。私は箸を持ったまま、黙ってそれを見ていた。
米俵米俵
豊作だ豊作だ
やあやあやあ
やあやあやあ
茶碗のまわりを三周ほど回ってこびとたちは立ち止まり、さっと手を上げ「どうぞ」というような仕草をした。全員で私を見ている。
私は茶碗を持ち、ごはんの続きを食べ始めた。こびとたちは円になったまま、こっちを見上げていた。
「……おいしいなあ」
何か期待されているような気がしたので、私はそう言ってみた。歓声があがり、こびとたちはなにやらお互いハイタッチとかしているようだった。小さくてよく見えない。
小学校二年生の時だった。夕方に揚げ物を揚げる音がして、揚げ物はたいがい好きだから私は嬉しくなって、トンカツだといいなあ、でもコロッケもいいなあと色々夢想して、三十分くらい経ってから、実は揚げ物の音ではなくて雨の音だと気がついた。
私はひどくがっかりして、それに自分は馬鹿なんじゃないかと不安になってしくしく泣いた。そこにちょうど兄が帰ってきて、泣いている私を見て驚いた顔をした。
「どうしたの」
恥ずかしくて本当のことは言えなかった。けれど恥ずかしくなかったとしても、子供の私にこんな気持ちを説明するのは無理だったと思う。突然の雨だったためか、兄はずぶぬれになっていた。
夕食はハンバーグだった。私も好きだけど、ハンバーグは兄の一番の好物だった。私は自分が雨の音と揚げ物の音を間違えたことを考え、それから兄がその雨でずぶぬれになったことを考え、兄がおいしそうにハンバーグを食べているのを見て、よかったなあ、と思った。
俺は意を決して上司のデスクに向かった。
「すみませんが、今日は定時で帰らせてください。あと明日から三日ほど休ませてください」
「おい、何言ってるんだこんな時に」
大声をあげる上司に俺は手を差し出した。
「見てください。生命線がここまで縮まっています。このペースで働けばあと一週間で過労の突然死です」
「む……いやしかし、一週間……いや、これは八日後だろう? 六日後までは今のままやってくれないか。もうしばらくすれば少しは余裕もできるはずだから」
「そんなことしたら絶対手遅れになりますよ! こっちは命がかかってるんだ」
「わかった、じゃあ今日は定時で帰って……ゆっくり休んで、明日からまた働いてくれ」
「一晩でとれるような疲れだったらこんな生命線になるわけないでしょう」
「だが三日はまずい、せめて一日の休みでなんとかしてくれ」
上司はデスクの上に自分の手を広げて言った。
俺はそれを見て、それ以上のことが言えなくなった。醜く縮んだ生命線、危機をあらわにした運命線が、優れた頭脳線と感情線を持つ上司の美しい手相を歪んだものにしていた。
これは俺よりせっぱつまってるかもしれないな……。それに、あと一週間で死ぬ俺の手相には出ていなかったが、もうしばらくすれば少し余裕ができるのも嘘ではないようだった。
「……わかりました。じゃあ、あさってからまた出社します」
「頼む」
俺は自分のデスクに戻り、もう一度手を見た。一日の休みで生命線はどこまで元に戻るだろうか。
「おい、休み取れたのか」
となりから同僚が話しかけてきた。
「ああ。明日だけだけど」
「そうか。ま、一日でも少しは変わるんじゃないの」
「そうだな、できるだけ伸ばしてくるよ。……お前は大丈夫なのか、線」
同僚は苦笑しながらひらひらと手を振った。
「体だけは丈夫だよ、俺は」
その手には一目見ただけでわかる、ゆるぎない生命線があった。
こいつは俺より働いてるのにな……。少し情けない気持ちで、俺はもう一度自分の手を見て、それからその手をぐっと握った。もう少しだ、がんばろう。上司の手相を頭に浮かべながらそう思った。
日よう日、お父さんがものおきをそうじしていたら、こんいろのぬのみたいなのがでてきました。
「これ、なに?」
「ああ、これはテントだな。キャンプで使うんだよ」
ぼくはテントというのをしりません。キャンプに行ったことがないからです。そう言うと、お父さんは庭でテントをくみたてることにしました。
「なにやってるの? そうじおわってからにしてよ!」
お母さんがちょっとおこったので、お父さんとぼくはへへへとわらいながら、テントをくみたてました。
「あー、こりゃだめだなあ」
くみたてるさいちゅうに、お父さんは言いました。
「どうしたの?」
「あながたくさんあいてる。これじゃ雨もりするよ」
「でも、雨ふってないよ」
「ふったら雨もりするんだ」
ぼくは、ふってないので、おかしいなあ、とおもいました。そしてテントがくみたておわりました。まるくてこんいろのテントです。キャンプに行ったら、家がないので、この中でねるのです。ぼくとお父さんはさっそく中に入りました。
「こりゃひどい、あなだらけだ」
と、お父さんは言いました。上にもよこにも、ちいさなあながすごくたくさんあいていました。でも、ほしがたくさんあるみたいなので、この中でねるのはいいなあとおもいました。
「あなた、ものおきは?」
お母さんがよんだので、お父さんはいそいでテントをでました。ぼくはひとりでテントの中でねていました。テントはとてもいいです。ほしもきれいです。上をみてねていたら、ながれぼしがさーとながれました。
ぼくは「あっ」とおもって、「なつやすみに、キャンプに行きたい」とねがいごとをしました。そこにお父さんがきて、
「おーい、そろそろでてこいよ」
と言いました。それから、
「あ、なんだ、とうとうやぶれちゃったのか」
と言いました。ながれぼしだとおもったのは、テントのやぶれたしゅんかんでした。ぼくはがっかりして、テントからでると、お父さんはぼくに、
「こんどあたらしいのかうよ。そうしたらキャンプに行こう」
と言ったので、ぼくはとても、やったーとおもいました。
隣の部屋のやつが訪ねてきて、「キャッチボールをしませんか」と言った。やせた眼鏡の男だ。口を縛った銀色の袋を下げている。その中にボールが入っているようだった。
僕とは会ったら会釈する程度の知り合いだし、夜の10時だった。なんでまた、と思ったが、暇だったので「いいよ」と答えて家を出た。
男は公園のライトの下で立ち止まった。
「それじゃ、ここで」
そして袋ごとボールを投げようとした。
「おいおい、ちょっと」
「何か」
「袋から出さないの?」
「はい」
そのまま投げてきた。受け止めた。
「なんで出さないの?」
袋を通して、ゴムボールのやわらかい感触がある。投げ返した。
「それは僕が勤めていた研究所で作ったもので」
また、戻ってきた。
「酸素にふれると消滅するようにできているんです」
手元の袋を見た。ただの袋だった。投げ返した。
「色々あって研究所、つぶれちゃいまして」
また、戻ってきた。
「それ、最後の給料です。現物支給」
ばかばかしい。そう思ったが、黙って投げ返した。
「色は白です」
戻ってきた。
「ふーん」
白いボールを投げ返した。
「形は丸です」
「それはわかるよ」
白くて丸いボールを投げ返した。
「長い間、研究してきたんです」
「そうか」
白くて丸い、長い間研究されたボールを投げ返した。
突然、ボールが失速した。相手まで届かず、ふわふわと地面に落ちた。
「穴があいたんだ」
袋を拾いあげた男がぽつんと言った。近づいて、袋にさわってみた。ぺしゃんこで何も入っていなかった。
男は袋を自分のポケットにつっこみ、頭を下げた。
「どうもすみません。ありがとう」
背を向けて帰っていった。僕はなんとなくそれを見送りながら立っていた。
そろそろ男が部屋に戻った頃だ、そう思って、僕も歩き出した。歩きながら、今のキャッチボールのことを思い返した。
あれ、と思った。たった今あったことなのに、もう僕の記憶は事実とは違うように書き換えられていた。あの銀色の袋ではなく、白いボールを投げ合い、白いボールが消えたような、そんな記憶になっていたのだった。
「おーい佐々木、こっち来るな! それは三途の川だ! 渡りきると戻れなくなるぞ! 死ぬんだぞ! 帰れって佐々木! お前のためだけに言ってるんじゃない、お前が死ねばみんな悲し……あれ? あんた佐々木じゃない? 違う? あ、すいません人違いでした。いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」
「うるせえ。帰る」
「……なんて不愉快な臨死体験だ」