学校帰りに友達と街をぶらぶらしていたと思ったのに、気がつくと知らない部屋にいた。
「おお、悪魔様。ようこそおいでくださいました」
 目の前に見知らぬ男、床には魔法陣、まわりは煙だらけだった。悪魔というのが自分のことだと気づくのに、少し時間がかかった。
「ぜひともわたくしの願いをお聞き届けください」
 ああ。そういえば俺は悪魔だった。この世に人間として生まれ、人間として暮らしながら、いつか呼び出される日を待っていたのだった。すっかり忘れていたが、どうやらその日が来たらしい。
「あの、悪魔様」
「ああ、聞いてやろう」
 俺は目の前の男に目をやった。薄汚いと思った。
「そのかわり、分かっているだろうな。お前の魂をもらうぞ」
 小学校、中学校、高校。平凡でくだらなくて、今思えば幸せな日々だった。家族がいた。友達がいた。好きな女の子がいた。もう戻れない。
「は、はい。覚悟はしております」
 馬鹿が。震えているくせに何が覚悟だ。お前が呼び出さなければ、俺はずっとあのまま暮らせたのに。
「しかし悪魔様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「あなたがたは、なぜ魂を欲しがるのですか。魂をどうするのですか」
 くだらないことを聞くやつだな。しかし、なぜだったろう。思い出せない。魔界に帰れば多分思い出すのだろうが。
 まあ、どうでもいい。今は今で、魂が欲しい理由ははっきりしている。
「お前が憎いからだ」
 取った魂をどうしてやろうか。ますます震え始めた男を見ながら、俺はじっくりと構想を練り始めた。
「犯人は伊藤さん、あなただ!」
「ち、ちょっと待ってくださいよ。僕はあの時、皆さんとここにいたじゃないですか」
「それがトリックだったんです」

 ──黒カーテン殺人事件

「……フフフ、参ったな。まさか見破られるとはね……グッ」
「しまった、毒を飲んだぞ!」
「誰か! 救急車を!」

 ──再放送

「いいんですよ、これで……もう、やることはすべてやった……」
「伊藤さん。あなた最初からそのつもりで」

 ──本放送とは違う

「これでやっと……あの子のところへ……」
「! い、伊藤さん! 伊藤さーん!」

 ──衝撃の結末

「……あの時から、伊藤さんの心は鬼に変わっていたんですね」
「ええ。悲しい事件だったけど、僕は伊藤さんの気持ちを否定したくない。天国であの子と仲良く暮らしていてほしい。そう思いますよ」

 ──果たして真犯人は

「なーんちゃって。毒じゃなくて砂糖でした」
「伊藤さん!? じゃあ、まさか」
「そう、犯人は僕ではありません。……あなたですね?」

 ──明日午後4時
 わたしたちの小学校のすぐ近くにある空き地に、とても大きな木があった。葉っぱなんか全然ない、もう枯れているような木で、幹の途中に大きな穴があいていた。そういうのは「ウロ」というのだそうだけど、そのウロは人が何人かすっぽり入れるほど大きくて、わたしたちはよくそこを出入りしたりして遊んでいた。
「そういえばさー」
 いつものようにそこで遊んでいた時、まなみちゃんが笑いながら言った。
「あたし、ちっちゃい頃お母さんにね、あんたは赤ちゃんの時、この木の穴の中に捨てられてたのを拾ったのよって言われたことあるんだー」
「えっ」
 わたしは驚いた。
「わたしもそれ言われたことあるよ!」
「ほんと?」
「あ、あたしも!」
「わたしも言われた!」
 その場にいる全員がそう言って、それからなんだかこわくなって黙ってしまった。
 ウロの中に白い布に包まれた赤ちゃんが寝ている光景が、やけにはっきりと頭に浮かんだ。

 やはり枯れていたらしく、やがてその木は切り倒されることになった。
 その日、わたしたちは木が切られるのを見に行った。なぜだかみんな手をつないで、あの木もウロもなくなってしまうのを、ただ遠くから黙って見ていた。
 そのチョコレートを一口食べると、そのおいしさに口の中がとろけ、顔がとろけ、喉がとろけ、胸が、腹が、手足が。

「突然の失踪か。床に残っていたこの液体はチョコレートに間違いないんだな」
「はい、調査中ですが、今のところ内容に異常は見られないそうです」
「そうか……しかしなんだ、妙にこの、うまそうというか、心ひかれる……」
「実は僕もさっきから気になって……」

 そして、気づいた時にはもう取り返しのつかない状態になっていた。川となって襲ってくる生きたチョコレート。飲み水に侵入し、雨となって降ることもあった。誰かが突然恍惚とした表情になったら、それは口に侵入された合図だ。別れを告げるまもなくどろりと溶けて、やっぱりチョコレートの川となって流れて行く。僕の家族も友達もみんな行ってしまった。
 僕は生き残った。他にも生き残りはいる。チョコレートを口に入れても平気だったという、つまらない新人類の仲間たちだ。恋人もできた。チョコレートの川辺を二人で歩く。
「少し控えた方がいいんじゃない?」
 チョコレートを手ですくった僕に、彼女が笑いながら言った。
「そんなに飲んでないよ」
 僕も笑いながら答え、口に入れる。ああ、おいしい、口の中がとろけるようだ。
 けれども僕は溶けずにそこに立っている。そのたびになんだかぼんやりして、心のどこかで自分も溶けてこの川の一部になるつもりでいたことに気づく。
 彼女もチョコレートをすくって飲んでいた。チョコレートで手を汚した彼女がなんだかかわいかったので、僕は彼女のその手にさわって、笑っている彼女とちょっと抱き合って彼女の目の下についていたチョコレートをなめたりして、この甘い甘い世界で、これからずっと生きていくことを思う。
 偶然拾ったスプレーは、しゅっと噴射するとその霧の中から魔人が現れるという魔法のスプレーだった。
「お呼びですか、ご主人様。どんなことでもお申し付けください」
「別に用はないんだけど」
 魔人は何もできない。魔法が使えるわけでもないし、力も普通の人間以下、頭だって悪い。唯一の取り柄は空を飛べることだが、一回背中に乗せてもらったら重みですぐ落ちた。何の役にも立たない。
 最初は色々試したけど、今はもうあきらめて、ひまな時に話し相手になってもらうだけになった。
「それでは時間になりましたので……」
 魔人は三十分でスプレー缶に戻る。
「うん、また」
「申し訳ありません、ご主人様。実は今回で最後なのです」
「え?」
「スプレーの霧が終わりましたので、もう出てくることはできません。結局一度もお役に立てず、残念です」
「終わり……って、なくなるものだったの? 知らなかった」
「あっ。そういえば言うの忘れてました」
 魔人はほんとに頭が悪い。
「では、お元気で。そうそう、スプレーの缶をゴミに出す時には穴を開けなきゃだめですよ」
「…………」
「どうですか。私も少しはお役に立つことを言えたでしょう」
 魔人は得意げな顔をして、缶の中に消えた。
 ほんと頭悪い。缶を見ながらまた思った。
 穴開けるとか捨てるとか。そんなことできるわけないじゃないか。
 渡りはつらいです。渡らない鳥がうらやましいです。仲間の中には渡りが近づくとわくわくするという鳥もいますけど、私は渡りが近づくとため息ばかりが出てしまいます。
 私は足手まといです。群れもそうそう私に合わせているわけにいかないので、一羽だけいつも遅れがちです。渡りのたびに、今度こそ死ぬと思います。
 今回も少し遅れました。遅れたところで嵐になりました。今度という今度は本当に死ぬと思いました。とうとう、くるくるとまわって落ちました。

 海に落ちた、と思ったら、違いました。少し痛かったけどケガもせず、何に落ちたのかと思ったら船の帆布でした。穴だらけのぼろぼろの帆布で、ぼろぼろすぎたのでケガをしなくてすんだようでした。私は帆布を伝って甲板にすべりおりました。
 ひどい嵐でした。私は飛ばされないようにマストの陰に隠れました。体を低くしてようやく落ち着いて、ふと気づくとその船はどうもおかしいのでした。
 帆布もぼろぼろでしたが、マストもぼろぼろです。甲板にもあちこちに大穴が開いていて、そしてどうもこの嵐でそうなったわけではなさそうでした。数人の水夫の影が見えますが、こんなひどい嵐の中、あわてる様子もなくゆっくりと動いていました。
 あっ。一人の水夫がこちらに歩いてきたのを見て、私は息をのみました。水夫の顔は、生きた人間の顔ではありませんでした。どくろでした。ぼろぼろの服は穴だらけで、そこから体の骨がのぞいています。水夫は骨だけで動いているのでした。
 驚いたひょうしに体を起こし、私は風をまともに受けてしまいました。水夫は私に気づき、ちょうど飛ばされた私をすばやい動作でつかまえました。骨張った、というより、骨そのもののその手は体に痛くて、そしておそろしくて、私はまた今度こそ死ぬと思いました。
 すると水夫はぼろぼろの上着を脱いで、そっと私を包みました。そしてあまり風のない場所に座りました。水夫は私を、嵐から守ってくれたのです。
 そういえば、以前聞いたことがありました。海のどこかには難破して乗組員がみんな死んだけど死にきれず、海をさまよい続ける幽霊船というものがあるそうです。この船はきっとそれなのだと思いました。
 私は上着の中から頭だけ出して、水夫の顔を見ました。多分水夫も私のことを見ていて、でもその目のところはただの空洞で、私は少し悲しくなりました。

 嵐が去って、どこまでも飛んで行けそうな空になりました。
 水夫は私を乗せた手を、高く差し上げました。私はなんだか名残惜しく、もう少しここにいられないかなと思いました。そんなことは無理に決まっているのです。ここは死の船で、私は生きているのですから。
 私が飛ばないので、水夫は少し首をかしげました。別の骨の水夫が来て、口をカクカクと動かしました。私を助けてくれた水夫がそれにやっぱりカクカクと答えていて、あれで通じるのかなと不思議でしたけど、きっと通じるのだろうなと思いました。そこにぼろぼろだけど立派な帽子をかぶった骨が来ました。多分船長でしょう。船長も口をカクカク動かして、三人で口をカクカク動かして、なんだか笑っているみたいでした。
 そろそろ行かなくちゃいけない。私はそれを見てなんとなく思って、羽ばたきました。水夫と船長が私の方を向きました。私はそのまま高く上がりました。
 風は柔らかく波は穏やかで、その時ふと、きっと仲間に追いつける、そんな気がしました。渡りの時にそんなふうに思ったのは初めてでした。甲板から、骨の人たちが私を見上げています。さよなら。ありがとう。私は二度ほどそこで旋回してから、まっすぐに仲間の後を追って飛びました。
 妊婦さんを見るとドキドキする。もし妊婦さんが産気づいたのを助けたために遅刻したとしても、そんなの誰も信じてくれないだろうと思うからだ。
 生まれてから昨日まで、ずっと頭が痛かった。
 今朝、目が覚めた時に、それを初めて知りました。
 何の役にも立たない前世の記憶を持っている。そこが別の星なのか、別の世界なのかはわからないけど、とにかく遠いどこかだ。
 そこに住んでいた僕らの体は、少しぬれた砂でできているかのように、ちょっとした刺激でぼろぼろと崩れた。そして崩れるのと同じスピードで元に戻った。笑ったり走ったりするとぼろぼろと崩れて、やっぱり元に戻った。殴り合ったりするとばらばらになって、それでも元に戻った。あそこでは「死ぬ」ということがなかった。
 ある時僕はどこかに行って、偶然友達に会った。友達は「やあ」といいながら僕を軽く叩いた。僕の体はぼろぼろと崩れて、その後のことはよくわからない。
「あれ、元に戻らないぞ……」
 そんな声が聞こえたような気がする。

 今ここにいるということは、僕はあれで死んだのだろう。今頃むこうの世界はどうなっているのだろうか。
 長い時間が経っているはずだ。でも、僕の体は捨てられてはいないと思う。いつまでも崩れたままのあの体は、死というものを知らない住人たちに、こんなこともあり得るのだという未知の不安と恐怖を与え続けているような気がする。
 僕はここに生きている。何かきっと、少し間違えただけだと思うけど、それをむこうに伝える方法はない。
 ナユタキロシンA……肉体の老化を完全に止める薬。性欲及び生殖能力がなくなり、寿命が約1割縮むという副作用がある。一度の注射で永続的に効果が保たれる。
 ナユタキロシンB……Aの効果を消す薬。副作用も消えるが、縮んだ分の寿命は戻らない。一度の注射で本来の年齢の肉体になる。

 先生のような美少女に生まれついていたら、私もとっくにナユタを打っていたかもしれないな、とよく思う。物憂げな横顔も愛らしく美しい。百歳を越えた頃から、先生はじっと考えこむことが多くなった。
「そろそろだと思うのよね」
 ぽつんと言った。もうすぐ寿命がくる。死ぬ。先生の「そろそろだと思う」はそういう意味だった。
「そんなことありませんよ」
 そう私は答える。根拠のない否定だ。寿命が一割縮むはずのナユタキロシンを十六歳の時に打った先生が、今もなお生きているのは奇跡に近いのだ。
 先生はエッセイストだが、ものを書くひまもないほどあちこちの講演会に招かれている。ここ数年はまた一段と講演依頼が増えた。
「公演中に死亡っていう決定的瞬間を狙われてるのかしらね」
 先生は笑うが、笑いごとではなかった。ナユタキロシン使用者の老衰は突然やってくる。それまで元気でも、ある寿命に達したとたんにいきなり心臓が止まるらしい。
「ユウちゃん」
「はい」
「そろそろだと思うのよ」
 先生はまた言った。私は黙った。
「Bを打とうと思うの」
「先生、でも、それは……」
「死ぬ時には、本来の姿で死にたいの」
 十六歳から、八十五年。私はふとその年月を思った。あまりにも、遠くて長い。先生はその間、何度Bを打とうと思ったのだろう。今になって打つことは何のメリットもないどころか、その年月を無駄にすることのように私には思えるけど、先生にとっては違うのだろうか。
「これからの仕事依頼、断ってくれる? 十六歳から一気に百歳越えるとなると、とても動いたり書いたりできそうにないから」
「どうしても打つんですか」
「ええ。今までありがとう」
「先生……」
「ごめんね」
 これまでにもこの話は何度か出た。そのたびに私は引き止めて、先生は思いとどまってくれた。けれども今度は、先生は思いとどまってはくれなかった。
「最後の仕事はいつになる?」
「……九月二十八日です」
「そう。じゃあその後に打つわ」
 先生は愛らしい顔をほころばせた。

 先生が亡くなったのはその九月二十八日、講演が終わった直後だった。
「老衰ですね」
 運ばれた病院の医師は、ナユタキロシン使用を示すカードを見ながら言った。
 結局、先生は十六歳のままだった。私はそのことにどこかほっとしていた。引き止めたのは無駄ではなかった、と思った。
 葬儀には多くの人々が参列した。古いつきあいの人、新しいつきあいの人、けれど語られる思い出話の中の先生は、どれも同じ姿だった。ふと、誰かが言った。
「あの遺影、四十年前の写真だってさ」
 私は振り返って遺影を見た。たくさんの写真の中から選ばれたのだろうその遺影も、やはりいつも見ていた先生だった。
 突然、長い年月の間にたくさん撮られた、全て同じ顔の写真のイメージが浮かんだ。血の気が引くような思いとともに、私はなぜ先生がBを打ちたいと願ったのか、その時初めてわかったような気がした。たった一日でも、一時間でも、百歳の姿になった自分を見ることができれば、十六歳と百歳の間の姿も全て、先生は手に入れることができたのではないか。
(まだ大丈夫ですよ、先生)
(先生は二百までだって生きられます)
 引き止めたのは私だった。私が引き止めたために先生は、最後まで同じ姿のまま一生を終えたのだ。
 ──八十五年。
 あまりにも、遠くて長い時間だった。愛らしく微笑む先生の遺影から目を離すことができないまま、私はただ震えていた。