三ヶ月

「ねえ、ちゃんとした先生のところに通わせた方がいいかしら」
 ケースを開け、私をしげしげと見ていたお母さんが、そんなことを言った。
 あの子はもう寝ている。お父さんは新聞を読んでいたが、顔を上げた。
「その方がいいかな。あんなにうまくなるなんて思わなかったよ」
 あの子は毎日私を弾いた。小さな体で一生懸命弾いていた。私は他の人を知らないので、彼の上達が早いのかどうかはわからない。けれど、彼はたしかにうまくなっていた。時々美しい音色が出る。それがだんだんとひんぱんに、だんだんと長くなってゆく。彼にもそれがわかるようで、飽きることなく練習していた。
 けれど、一人で進むのは難しい。あの子は楽譜の読み方を覚え、それと私が出す音だけを頼りに手探りで進んでいた。先生か。うまく導く人間がいれば、きっと上達は早くなるだろう。
 ただ、私は少し残念だった。あの子と私、2人だけの時間が減ってしまうのが惜しいと思った。

「大人用のバイオリンですね」
 先生はまず、そう言った。
「やっぱりこれくらいのお子さんには、子供用の方がいいですよ」
「そうですか……」
 お母さんは困ったような顔をした。
「とりあえず、弾いてみてくれるかな。どこまでいってるの?」
「えっと、この曲……」
「あら、三ヶ月でしょ? ずいぶん進んでるのね」
 感心している先生に、その曲を聴かせた。私は不安だった。子供用のバイオリンに換えるとなると、私はどうなるのだろう。彼が大人になるまでケースの中だろうか。もしかしたら、捨てられてしまうかもしれない。不安は音に出た。私はふと、彼もまた不安がっていることに気づいた。
「……すごいわ……」
 聴き終わり、先生はつぶやいた。

「お母さん。ぼく先生に習うのやだ」
 家に帰って彼はすぐ私を取り出し、音を合わせる時のように弦をざあざあと鳴らしてから言った。
「どうして? 優しそうな先生だったじゃない。才能があるってほめてくれたし」
「だってぼく。このバイオリンじゃないとやだもん」
 涙声だった。不思議な思いで私の胸はつまった。幸せなような。せつないような。
 それから彼は、先生のところで弾いたのと同じ曲を弾いた。音色はさっきとは違っていた。それは自分でも初めて聴く音で、私はこんな音も出せたのだな、と思った。


一歳

 結局彼はあの先生のところに通うことになった。ことの顛末を私は彼自身から聞いた。
「お母さんがね。あのバイオリンじゃなきゃやだから行かないと言ってますって先生に断ったんだよ。そしたら先生がね、あのバイオリンでいいから来てくださいって言ったんだって」
 練習の前や後、まわりに誰もいない時、彼は私に話しかけるようになっていた。弾かれるのも楽しかったが、私はその時間も好きだった。
 発表会がせまっていた。彼もそれに出ることになっている。彼はその不安を私にたびたび訴えた。
「間違ったらどうしよう」
「知らない人がたくさん見に来るんだよ」
 そしてそわそわと心のこもらない弾き方をした。私は気の抜けた音を出した。彼はそれに気づき、音に耳を傾けながら弾く。しだいに彼は不安を忘れ、私とひとつになって音を奏でるようになってゆく。

「さ、次よ」
「はい」
 舞台の袖に彼は立った。そろそろ出番だ。
「人があんなにいっぱいいるよ」
 私にささやきかけた彼の声は笑っていた。緊張の色は見られない。私がいれば大丈夫だと思っている、そんな気がした。ふつふつと喜びがわいてくる。
 舞台に出る。ライトがまぶしかった。そして拍手。私を持つ彼の手の力が、いつもより強いようだった。一つ深呼吸をしたのがわかった。大丈夫、私がいるのだから。なんとなく、自分が彼の手を握り返したような気になった。
 弾き始めた瞬間、舞台に上がった彼の緊張は消えた。いつもの、彼と私だけの時間がやってくる。けれどもここは舞台の上で、その音色はたくさんの聴衆に広がってゆく。彼と二人きりでいながらも、演奏を聴くたくさんの人々の驚きや喜びが私に伝わってくるのだった。

 すさまじい拍手。彼は頭を下げ、急いで舞台袖にひっこんだ。
「すごい。すごいね」
 興奮して私に言う。何がすごいのかは言わなかった。多分この状況すべてについて、すごいと言っているのだろう。私も同感だった。
 拍手はなかなか鳴りやまなかった。次の出番の子供がおどおどと立ちすくんでいた。


十歳

 バイオリニストになるという夢を、彼は誰にも隠していないようだった。学校でもオーケストラに入っている。ソロを弾くのは必ず彼だった。

 その日、ケースが開くと、見たことのない女の子が彼と一緒に私をのぞきこんでいた。彼と同じ年頃。同じ学校の生徒だろうか。しかしオーケストラの子なら見たことがあるはずだ。
「それじゃ、弾くよ」
 彼は私を肩に乗せて言い、それからふざけたように付け加えた。
「君のために」
 私の心は真っ黒にざわめいた。自分の体がきしむようだった。女の子は笑いながら拍手している。
 ひどい演奏になった。女の子は彼のいつもの演奏を知っているらしく、不思議そうな顔をした。彼はもっと不思議そうな顔で私をながめた。情けない思いでいっぱいになったが、どうにもならなかった。
「おかしいなあ。ごめん」
「ううん、いいよいいよ」
 女の子は手を振り、私をちょっと見た。その顔がなぜか、私を笑っているように見えた。

 彼女はたびたび家に来るようになった。たまに彼は私を取り出し、彼女の前で弾いた。そのたびに私はひどい音を出して彼を困らせたが、出そうと思って出しているわけではなかった。
 彼に悪いと思いながらも、彼女を見るたびに私の心はきしんだ。それはどうしても止められなかった。


二十歳

 彼はあの女の子と長い交際の末、とうとう結婚した。バイオリンで身を立てるめどがついたのだそうだ。彼女は彼の奥さんになった。
 どうしようもないことだとわかってはいたが、私は寂しくてならなかった。どんな曲を奏でても、ため息が混じった。
「おかしいなあ」
 彼は首をかしげ、スランプかな、などと言っていた。心が通じ合っていると思っていたのに、彼はこの件に関してはまったく私の気持ちをわかってくれなかった。むしろ奥さんの方がわかっているようで、「私、なるべくそのバイオリンの目に入らないところにいるわね」などと冗談めかして言っていた。そして実際、私のいるところには現れなくなった。
 奥さんの姿が見えないだけで、私は少し落ち着いた。そしてようやく決心した。いつまでもこんなふうではいけない。彼のために、いい音を出さなくては。

 少しずつ、音は元に戻っていった。
「ああよかった」
 彼が私に笑いかける。私もほっとした。奥さんのことを考えても、あまり心は痛まなくなっていた。彼と私はお互いなくてはならない存在で、誰も私たちの間には入れないのだ。彼が私を弾いている時だけは、そう思えた。いつまでもいつまでも弾き続けてほしかった。 
 けれどももちろん、そうはいかない。ある程度の時間が過ぎれば、私はケースに入れられて、闇の中に一人になる。今までだってそうだったけど、今までとは意味が違う。私をケースに入れた彼は、奥さんのところに行くのだ。奥さんはどんな顔で彼を迎えるのだろう。そして彼は……。
 この苦しみにもいずれ慣れるだろうと思いながら、それでもやはり苦しかった。


三章

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