三十歳
軽い練習の後、彼は私を持ったまま、難しい顔で机の上に広げた本を見ていた。
「もう練習終わり? あら、何見てるの」
奥さんがドアからのぞいていた。
「こないだの演奏会の評が載ってた」
彼も今は立派なバイオリニストだ。有名というわけでもないが、ファンは多いようだった。
「観衆の心を浮き立たせるここまでの表現力がありながら、今ひとつ深さに欠けるのが惜しい。もう一皮むければ……だって。深さって何だろうね」
「私はそのままでいいと思うけど」
奥さんが言った。私もそう思ったが、同じ意見なのは少ししゃくにさわった。深さ。どうしたら深さが出せるのだろう。
「そういえば、前にも言われたことがあった。バイオリンはすすり泣く楽器だが、お前のバイオリンは泣いてないってさ」
なんとなく、どきりとした。
「泣かせたいの?」
「いや、それだったらこのままでいいよ。こいつにはいつでも笑っててほしいんだ」
奥さんが吹き出した。
「私にもたまにはそういうこと言ってよ」
「それはもう、ハハハ」
彼はごまかすように笑った。
四十歳
彼は色々なところに行く。私はいつも一緒だ。奥さんは家にいる。
くだらないと思いながらも、それが嬉しかった。私の方が彼に近い。そう思うことで、私は少しずつ奥さんを許す気持ちになった。今はもう、奥さんが目の前で聴いていても、変な音を出したりはしない。そう思っていた。
けれどその日、彼が奥さんの前で一曲弾いた後、奥さんは少し笑って立ち上がった。
「やっぱり私はいない方がいいみたい。音がいつもと違うもの」
「なんだ、まだそんなこと言ってるのか。同じだよ」
「いいのいいの」
奥さんはちらっと私を見て、部屋を出ていった。その目を見て、私は初めて気づいた。
私だけではなかった。奥さんも私に嫉妬していたのだ。たしかに音は完全にいつもと同じではなかったかもしれないけど、違うように聞こえるのは奥さんの嫉妬心のせいだ。
お互い嫉妬し合っていたのだ。そう思い、私は喜んだ。奇妙な喜びだった。
五十歳
何かおかしいと思っていた。私から出る音色はいつもと変わらなかったけれど、弾くたびに彼の何かが崩れていくような気がした。彼が弾くたび、私の不安は大きくなっていった。
ある日、ケースは開かなかった。ほとんど毎日私と顔を合わせていた彼が、私を取り出さなかった。その次の日もケースは開かなかった。その次の日も。次の日も。何かあったのだろうか。おそろしい時間が過ぎていった。
ケースが開いた。しかしそこにいたのは彼ではなく、奥さんだった。暗い顔で私を取り出し、弦をゆるめた。
すうっと心が冷たくなった。毎日のように私を弾いていた彼は、弦をゆるめることなどほとんどなかった。私を弾けなくなるようなことが彼に起こったのか。いつまで弾けないのか。何があったのか。
奥さんは私をていねいに拭いた。その手が震え、途中で止まった。奥さんは泣いていた。
「もう……助からないって……転移してて……もう……」
人間のことは私にはわからない。けれど、それでもわかることはあった。彼は死ぬのだ。もう、私を弾かなくなるのだ。
まるで自分が石になったように、何も考えられなかった。どれくらいの時間が過ぎたのだろう。持ち上げられ、どこかに運ばれていった。ケースが開いた。私をのぞきこむ顔、語りかける声。
「久しぶりだな」
彼だった。ひどくやせて、顔色が青黒くなっていて、でも彼だった。その優しい手で、いつものように私を取り出してくれた。
「放っておいて悪かった。ここに連れてこようかって、あいつは何度も言ってくれたんだけど……」
奥さんがこちらを見て笑っていた。
「こんなになっちゃったところ、お前に見せたくなくてね。つい意地張ってるうちに、もうそろそろ死ぬみたいでさ。あわてて連れてきてもらったんだよ」
死ぬという言葉も悲しく響かなかった。彼が目の前にいる。そしてまた私を弾いてくれるのだ。しかし彼は、私をしばらく黙ってながめた後、そのままケースにしまおうとした。私はあわてた。弾かないつもりなのか。どうして。
「あなた。弾かないの」
「うん……。今の僕じゃ、いい音出せないから」
「また意地張って」
奥さんはちょっと叱るように言った。
「七歳の頃から弾いてるんでしょ。あなたが一番ヘタだった頃のことも、そのバイオリンは知ってるのよ」
奥さんはわかってくれていた。私の気持ちをわかってくれていて、代わりに言ってくれた。感謝の気持ちが、今まで奥さんに対して抱いていた他の気持ちを溶かしていった。そうだ、奥さんは私と同じだった。ずっと彼を愛していて、そして彼を失おうとしているのだ。
彼は苦笑いして音を合わせ、弾き始めた。音色が病室に広がり、廊下にあふれてゆく。いつもと違う、聴いたことのない音だったけど、私にはわかった。これはすすり泣きの音だ。病室をのぞきこむ顔が現れ、どんどん増えていった。
彼がそっと弓を離すと、外から拍手が起こった。奥さんは拍手しながら涙を流していた。
「なんだ、感動した?」
彼がおどけたように言った。奥さんは涙をふいて言った。
「そのバイオリンはねえ……私のことが嫌いだったのよ」
「え?」
「私の前だと、なんだか音がいつも固かったもの。でもさっき、私が弾けって言ったから許してくれたみたい。現金ね」
彼はきょとんとした顔をしていた。奥さんはくすくす笑った。私も多分笑っていた。
それから一ヶ月もしないうちに、彼は死んだ。家族にみとられて、そして私も、いすの上でケースを開けてもらっていた。
「見せてもらっていいですか」
ケースの外で声が聞こえた。彼が死んだ次の日だ。私は家に戻っていた。
どこかで聞いたような声だと思ったが、思い出せなかった。
「ええ、どうぞ」
奥さんの声がして、ケースが開いた。
五十年ぶり。それに、私が前に彼の顔を見た時間はほんのわずかだったけど、でもわかった。すっかり小さな老人になっていたその男は、私を作った父だった。
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