「元気出して。気にするほどのことじゃないわよ」
「無理よ……。ほんと最低なことしちゃった。なんで私、あんなこと……」
「もう、深刻に考えすぎよ。そうだ、こんな話があるわ。ある人がね、鼻水をすすって口から出したら、その中に鼻毛が入っていたんですって」
「…………」
「そしたらその人は、鼻毛が鼻から口、そしてティッシュへと渡ってゆく様子を想像してしまって、今までどうってことなかったその行為を急に汚いと思うようになったんですって。そんなの、錯覚にすぎないのにね」
「…………」
「今のあなただって、それと同じで」
「違う」
 ……さあ、さあ、おい! 手の上少し吐けよおい……(笑い声)……さあ、さあ、おい! 手の上少し吐けよおい……(笑い声)……さあ、さあ、おい! 手の上少し吐けよ……

「おじさん。落語の一部だけ繰り返し流れるテープなんかかけんのやめろよ」

 ……おい! 手の上少し吐けよおい……(笑い声)……さあ、さあ、おい! 手の上少し吐けよおい……(笑い声)……骨がめちゃめちゃになっちゃうよ! ……さあ、さあ、おい! 手の上少し……

「そんなことだからこの店誰も来ない……あれ? 今ちょっと違わなかった?」

 ……手の上少し吐けよおい……(笑い声)……さあ、さあ、おい! 手の上少し吐けよおい……

「何勝ち誇った顔してんだよ。わけわかんねえよ」
 あと1カ月でクリスマス。百貨店内以外の場所でもそういう雰囲気が広がりつつあるようで、あの雰囲気がわりと好きな私はちょっとうきうきしたりしています。
 クリスマスに一緒に過ごすカップルの中に自分が入っていないからってそれが何でしょう? 皆が幸せであれと祈らずにはいられません。

 しかしそんな私でも、イブの夜にはカップルばかりが集まったそういうスポットに出かけて行き、そのちょうど中心部でやおらコートを脱いでウエストをぐるりととりまいたダイナマイトを披露、
「爆心地はアタシだよう」
 絶叫しながらライターをカチリとやったあたりで駆けつけた警官に取り押さえられて署にご同行、しかしダイナマイトの正体はこの日のためにためておいたトイレットペーパーの芯にそれっぽい紙を巻いたもので、
「みんなが……だってみんなが……」
 泣きじゃくる容疑者の前に置かれている手つかずのカツ丼に、疲れた顔をした初老の刑事が黙ってロウソクを立ててくれる。

 なんてことを全く考えないと言ったら嘘になります。
 複雑な人間心理、計り難きは女心。フウ。
「なあ」
「あ?」
「オレたちが初めて出会ったのは、中学1年生の時だったな。それ以来、苦しい時には助け合い、つらい時には励まし合い、しかし決してなれあいの関係ではなく、ためにならないと思えば突き放すこともあった。自他共に認める親友……それがオレたちだった」
「なんだいきなり。今さら何を」
「聞いてくれ。もうこれ以上、お前をあざむき続けることはできない。オレにはお前に親友と思われている資格なんか、ないんだ」
「……。どういうことだ?」
「今までの友情が嘘だったと言ってるわけじゃない。けどオレは……オレはお前にこれから訪れる最大の危機を救うことができないんだ」
「おれに訪れる危機? 一体何の話なんだ。最初から話してくれよ。それを聞いておれが許すか許さないかを決めればいいことなんじゃないのか」
「そうじゃない。許す許さないの問題じゃ……。けど今日はもともと全てを話すつもりだった。まあ聞いてくれ。あれはオレたちが中2の時のことだ」
「そんなに昔の……」
「ああ。ある時オレはお前と廊下で立ち話をしていた。ふとグラウンドに目をやると、運動部らしい生徒が他の生徒に肩を貸されて校舎に入っていくのが見えた。覚えてるか?」
「いや。すまん」
「謝るようなことじゃない。覚えてなくて当然だ。オレはそれを見て『どうしたんだろう』と言った。お前は『足つったんじゃないか』と答えた」
「…………」
「そしてオレは言ってしまったんだ。『オレ、足つったことってないんだよ。どんなもんか一回体験してみたいんだけど』と」
「……で、おれはどう答えたんだ」
「お前は言った。『ふくらはぎにずーっと力入れてみろ、つるから』オレがそれを家で実行し、実際につったことは言うまでもない」
「お前、まさかそのことで」
「違う、違うんだよ。それを根に持ったわけじゃない。いや違わないのかもしれないが、とにかく最後まで聞いてくれ」
「ああ」
「これが足がつるというものか! オレは激痛でのたうち回りながら理解した。お前に治す方法も聞いておかなかったことを後悔し、もう2度とこんなことはやらないと心に誓った」
「…………」
「しかしそれから1カ月ほどたったある夜。寝ていたオレは突然の激痛で目を覚ました。そんなばかな。これはあの時のあの痛みだ。なぜ! 以来、そんな夜のそんな目覚めがしばしば襲ってくるようになった」
「知らなかった。そんなことがあったのか」
「ああ。そして……なあ、オレがそんな時『あいつがあんなこと言わなければ』とつい思ってしまう、と言ったら……軽蔑するか?」
「いや。おれだってお前の立場ならそう思うさ。そんなことで親友の資格がないなんて思ってるんだったら」
「違うんだ、本当にオレが言いたいのは……。つまりあれだ、お前親友と言えば誰と誰を連想する?」
「ん。オバQと正ちゃんかな」
「くそ。メロスとセリヌンティウスと言ってほしかった」
「ああそうか。とっさには思いつかなかった。で?」
「ちょうどその頃、国語の授業でやってたんだよ、走れメロスを。メロスは走っていた、友を救うために。その姿にオレははっと胸をつかれたんだ。そしてオレとお前にもこのような、友情を試される試練がいつか必ず訪れるだろうと思った」
「…………」
「オレだってお前に対する友情はメロスに負けないつもりだ。走るとも。だが、オレは走るのにはなれていない。走れメロスにはメロスが途中で倒れる描写があるが、オレの場合は足をつるシーンが挿入される。確実に」
「…………」
「その時もきっとオレは『ああ、あいつがあんなこと言わなければ』と思うだろう。そう思った後で、痛む足を動かしお前を助けるために再び走ることができるだろうか。はっきり言って……自信がない」
「そうか……そういうことか」
「ああ。これで分かったろう、オレには親友の資格などないと。王にいくらからかわれても、あいつは来ます、と言い切ってオレを待ち続けるお前の姿を想像すると、いつでも胸が張り裂けそうだった。何度も言おうと思ったけど、でも言えなかった。友情を失うのが怖かったんだ。オレはこんな卑怯者なんだよ。ちくしょう」
「……ありがとう」
「え?」
「ありがとう、正直に言ってくれて。足がつるのはカルシウム不足が原因とも言われているから、妹さんの結婚式ではカルシウムが含まれている食品を多く取るように心がけるといい。あとは準備運動だな……時間をかけて、ゆっくりと、たっぷりとやることだ。日没時刻なんか、気にしなくていいからさ。な」
「…………」
「なんだよ、何泣いてるんだよ」
 電気自動車は本当に全然音しないんだよ、と聞いて以来、怖くて青信号の時しか渡れなくなりました。音のない車……これは一種の怪談なのではありませんか?

 通行のない静かな道を渡ろうとするところへ、音もなく猛スピードでつっこんでくる車。
 あっ! 驚き見開かれた目のアップ。衝撃。音もなく交通事故。
 吹っ飛ばされ、車道に横たわる被害者。音もなくドアを開け、慌てて降りてくる運転手。
 大丈夫ですか! 音もなく動く運転手の口。
 いえ、私はもう……家族に伝えてほしいことが……。被害者の音もない遺言。
 そして願いもむなしく音もなく弱まってゆく心臓の鼓動。ご臨終です。医者が音もなくつぶやき、家族は音もなく泣き崩れるのです。
 (歌)
 われら泥人形部隊 精鋭中の精鋭
 嵐に体が崩れても 乾季に体が崩れても
 進め 泥人形部隊 精鋭中の精鋭
 輝く泥魂 あるかぎり

隊長「全隊ーッ! 止まれッ!」
 ザッザッ。
隊長「我々に課せられた使命は! この私すらまだ知らぬ! しかしこの地点に着いたら皆に読んで聞かせよと指令書を受け取っている! オデー閣下の直々のお言葉である! 敬礼!」
 ザワザワ。皆敬礼。
隊長「謹んで拝聴せよ! 読む! 『前略。お元気ですか。この手紙を1人でも多くの方が無事に聞いていることを願ってやみません。さて、今回のこの戦いですが、皆さんも薄々知っておられる通り、我々不利なことおびただしい。相手はたった1体、数では圧倒的に勝るものの、むこうは鉄でこちらは泥。あまりにも強度が違う上、むこうは大きさも山のようだ。そこで私が自ら選んだ精鋭中の精鋭である皆さんの出番となりました』」
 皆息を飲む。誇らしげな者、不安げな者。
隊長「『ヤツの弱点は関節である。それは以前から分かっていました。しかし残念ながら我々にはそこにダメージを与える武器を持たない。ならばどうすればよいか? 答えは1つです。自らの体をそこにねじこむ他はない。それが成功しさえすれば、我々の体を構成する泥が確実にヤツの関節を詰まらせ、作動不能を起こさせることでしょう。皆、協力し合い、確実にこの任務を遂行されることを望みます。オデー』……以上である」
 皆青ざめて黙り込む。隊長は平静な様子。
隊長「聞いての通りだ! 失敗は許されない。この史上初とも言われる悲惨な戦いを、自分たちの手で終わらせることができることを光栄と思え!」
「おう」
 皆応じる。
兵卒A「嫌だ!」
 突然の大声。皆驚いて硬直。
A「何が精鋭だ。おれたちは捨てられたんだ」
兵卒B「な、何を言うっ」
A「言うとも。こんな死に方はごめんだ。お前たちは役立たずだからせめて死んで役に立てと言われて、はいそうですかとその通りになんかできるもんか」
B「やめろ!」
A「やめられるか」
B「お前には閣下のお心が分からないのか! もうこれしか方法がないから苦渋の選択をなさったんじゃないか! おれはやるぞ、立派に任務を果たしてみせる。おれは死んでもおれの体の肥沃な泥からは草が生え、やがて新たな命を育むだろう」
A「ハッ。何が育まれようと知ったことか」
B「この……お前の泥魂は腐っているんだ!」
A「お前の脳泥こそ腐ってるよ!」
B「何この野郎」
 乱闘。泥が飛び散る。
「やめろお前ら。仲間割れして何になる」
 数人が止めに入る。乱闘拡大。飛び散る泥も増量。
A「はあはあはあ」
B「はあはあはあ」
 はがいじめにされて引き離される2人。殴り合いの激しさを物語る双方の顔の切り傷。鼻からも泥が出ている。
A「ペッ」
 憎々しげに泥を吐くA。
A「お前の体からなんか、ペンペン草だって生えるもんか」
B「何をっ」
隊長「いいかげんにしろ! お前もだ!」
 一喝。皆静まる。
隊長「死ぬのは誰だって怖い。私だってそうだ。だが、国に残してきた者たちのことを思い出せ。自分にとって大切な者たちをだ!」
 ハッとして隊長を見つめるA。
隊長「私は今の今までこの戦いの行く末に絶望していた。国が滅びるのは避けられないと思っていた。だから今、思わぬ可能性を知って信じられない気持ちだ。犬死にになるはずだった私たちの命で、大切な者たちを救うことができるのだ……」
A「わああっ」
 泣くA。
A「隊長! 自分が間違っておりました」
隊長「分かってくれたか!」
 隊長も泣く。皆も万感胸に迫り次々と目から泥を流す。
「わああ」
「わああ」
 ポツリ。ポツリ。そこに雨が降りだし、次第に激しさを増してゆく。
隊長「見ろ、この雨を! これで我々の体はいちだんと柔らかくなり、ヤツの関節を詰まらせる可能性も高くなる。天は我々に味方した! 行くぞ!」
「おう」
「おう」
 雨の中あがるときの声。
 ビシャーン。突然、雷鳴がとどろく。
「うわあ」
「落ちたぞ」
 皆、その方向を見やる。
B「……今、妙な音が聞こえなかったか」
A「ああ。何かこの世のものとは思えない、悲鳴のような……」
 言ってハッとするA。Bと顔を見合わせる。
A「隊長! 自分を偵察に行かせてください!」
B「自分も!」
隊長「よし、行ってこい。決して油断はするなよ」
A・B「はっ!」
 立ち去る2人。残った者、所在なげに待つ。誰も口を開かない。
A「隊長ーッ」
 転がるように戻ってくる2人。
B「ヤツが……ヤツが……」
隊長「どうした、落ち着いて話せ」
A「雷はヤツに落ちていました! 我々2人、ヤツの死亡を確認!」
 一瞬の静寂。
 次の瞬間、歓喜の叫びがいっせいにあがる。泣く者、抱き合う者、肩を叩き合う者。騒ぎの中で何本かの手足がもがれ、また元に戻される。飛び散る泥の量は先ほどの乱闘の比ではない。
隊長「我々は勝った!」
「おう!」
隊長「凱旋だ!」
「おおう!」
 祖国に向けての輝かしい行進。エンドロール。

 (歌)
 われら泥人形部隊 精鋭中の精鋭
 指でつづった背番号 バカと書いたら村八分
 進め 泥人形部隊 精鋭中の精鋭
 母なる沼地へ 帰るまで
「発木さん、この縁談は難しいですな。お宅に娘をやったら、娘がひどく粗末な扱いを受けるのが目に見えてますからね」
「何ですって。振津さん、何か私どもがいけないことでも」

「…ほんとにわからないんだ、どうしてあの人があんなに怒ってしまったのか…」
「この間の店で出されたポッキーはどちらですか?」
「こちらのムースポッキーだね」
「なるほど。降津さんが怒った理由がこれで分かりましたよ」
「えっ何だって!」
「本当かね山岡君」
「降津さんは由緒正しいプリッツ一族の末裔。ポッキー一族の本流である発木家に娘さんを嫁がせるのには抵抗もあったはずです」
「それは確かに。しかし直前までは上機嫌でメンズポッキーを召し上がってたんだよ」
「口で説明するより実際にやってみましょう。このメンズポッキーとムースポッキー、チョコの部分だけを歯でこそげとるようにして食べてみてください」
「…………」
「…………」
「ああっ! これは!」
「メンズポッキーはチョコがきれいにはがれて残った棒がプリッツ状になるのに対して、ムースポッキーのチョコはうまくはがれず中途半端に棒に残るわ!」
「普通の食べ方をしていては、永久にこのことには気づかない。発木さん。降津さんは丹精こめてチョコをはがしていました。本物のプリッツと見分けがつかないほどに……」
「そうだったのか……。そこまでしてポッキー側に歩み寄ってくれたのに、こちらが無神経なものを出したのでは怒るのも無理はないな。自分の娘をも新感覚の味にされたらたまらんと思ったんだろうな……」
「もう一度降津さんをお招きしたら如何でしょう。このポッキー四姉妹の店に」
「あら、私の店なんか」
「ヒマだね」
「ヒマだ」
「何かしようよ。しりとりとか」
「また? 他のことやろうよ」
「じゃあミッションじゃないインポッシブルなものを言いあおう。全裸でファッションインポッシブルとか」
「うん、いいよ。死人はアクションインポッシブル」
「じゃ、死人はモーションインポッシブル」
「あ、ずるい。死人とコミュニケーションインポッシブル」
「だめ。心が通じてればできる。あともう死人は終了」
「できないよ通じてても。葬式でアトラクションインポッシブル」
「死からは逃れられないの? 鉄製のクッションインポッシブル」
「うー……父の日にカーネーションインポッシブル」
「苦しくなってきたぞ。1人でセッションインポッシブル」
「あっそれがあったか! えーと交番の前で……何でもない」
「何さ」
「いい、僕の負けでいいよ」
「言いなよ。気になるから」
「いいんだ。もういいから」
「交番……あ。分かったぞ、このクズ野郎。立ちションインポッシブルって言おうとしたんだろ。この」
「痛い! 違うよ。やめてよう」
「じゃあ何だ。言ってみろよ。この」
「…………」
「ほら、言えないじゃないか。嘘までついて、ヘドが出る! この」
「痛い痛い痛い。ごめん。ごめんよう」
 見つめては言えない言葉がある
 見つめられては言えない言葉がある
 だから今
 その想いを手紙に託して伝えたい
 16小節のラブソング



「しいちゃん

 お元気ですか。早いもので、しいちゃんと初めて会ってからもう10年以上たつのですね。
 あの日のことは忘れられません。多分、これからもずっと。

 あれは中学2年の時でしたね。当時学校では変わった語尾をつけて個性をアピールするのは大流行で、私もかなり早くからそれを実行していました。
 あの日の昼休み……。
『美幸。あんたに用があるって子が来てるっポミ』
 呼ばれて扉の方を見ると、そこにいたのは顔くらいは見たことはあったけど名前も知らないあなたでした。
『何?』
『梅野さん。あなた、ゲゾルっていう語尾を使ってるよね?』
『うん。それがどうかしたゲゾル?』
『その語尾、私にゆずってくれない?』
『えっ』
『私もそれ使おうと思ったんだけど、あなたが先に使ってるって聞いて。でも使いたいし。それに……こんなこと言うのはなんだけど、その語尾はあなたより私の方が合ってると思う』
 あれは腹が立ちました。本当のことを言うと、あの語尾は適当に決めたものだったから惜しいわけでもなかったのだけど、でもこんなやつに誰がゆずるか、と思いました。
『何ふざけたこと言ってんでゲゾル? そんなことできるわけないゲゾル。他をあたってゲゾルゲゾル』
 頭に血がのぼった私は、必要以上に語尾を強調して断ったけど、あれであなたの情熱はかえって燃え上がってしまったようでした。
『お願い! かわりの語尾もいろいろ考えてきたの』
『じゃあ自分でそれを使えばいいゲゾル』
 押し問答はだんだんエキサイトして、とうとう語尾を賭けた決闘をすることになってしまいましたね。馬鹿馬鹿しいとは思ったけど引き下がれず、私は約束通り放課後に裏庭のすみに行きました。

 しいちゃん。あなたは弱かった。でも、何度倒しても立ち上がってきた。何度でも何度でも。勝ち目はないと分かっているはずなのに、全然あきらめていないその目に私は圧倒されました。血まみれな顔とあいまって、とてもおそろしかった。今でも夢に見ます。
 いきなり語尾をゆずれ、なんて言うからわがままなバカだと思ったけど、本当はこの人はまっすぐできれいな心を持った人なんだ。負けてあげよう、こんなに欲しがっているのだから。そう思いました。
 だけどあなたの攻撃はまるで涼風で、蚊が刺したほどにも感じず、ダメージを受けたフリすら不可能なものでした。どうしよう、どうしようとタイミングを計って2時間、あなたはとうとう負けを認めてしまいましたね。
『くやしいけど、やっぱりその語尾はあなたにふさわしかったみたい』
『幹本さん……』
『私の分まで大切にしてね』
 そんなに思っているならゆずってもいいよ、と言いたかったけど、やっぱり言えませんでした。なんだか、あなたが流した血がむだになるような気がしたから。
『うん、大切に使うゲゾル。いっぱい使うゲゾル』
 そして私たちは友達になりました。

 しいちゃん。結局自分の語尾にマワタとつけるようになったあなたとすごした高校の3年間、私にとって何よりの宝物です。くだらないことばかりやって、失敗もして、ケンカもして。でも本当に楽しかった。あの日々があったから、私はあの後つらいことがあっても乗りこえられたのだと思います。
 卒業して、あなたは自分の夢を叶えるために上京、私は家の道場を手伝うことになり、私たちは離ればなれになりました。見送りに行って、元気でゲゾルと言って、電車のドアが閉まっても、まだ私には実感がありませんでした。でも家に帰って、自分の部屋に閉じこもって、また会おうマワタというあなたの言葉を思い浮かべたとたん、今までの思い出がいっぺんにおしよせてきて、涙もいっぺんに出てきました。

 しいちゃん。あれからずいぶんたつのに、会うとやっぱり私たち、当時の語尾に戻ってしまいますね。最近はお互い忙しくてなかなか会えないけど、また今度お酒でも飲もうゲゾル。
                            美幸」


 泣き笑いのゲスト。あたたかい拍手。
「強情なやつだな。そろそろ吐いた方が身のためだぞ」
「し……知らない……本当に何も知らないんだ」
「もう潮時だと思わないか? こっちもそういつまでも優しくはできないんだぞ。いいかげん話してくれないと、その役立たずの口にこんなものをつめこまれることになる」
「そ……それは」
「フフフ、大量の整髪料がついた髪の毛の束を見た気分はどうだ? これを見てもまだ話す気になれないか」
「や、やめてくれ。本当に知らないんだ。信じてくれ」
「そうか。見ただけでは気が変わらないか。おい、口につめろ」
「やめろー! ぐぶ。ごぶっ」
「出してやれ。どうだ。話す気になったか?」
「……だから……知らないと……」
「しぶといな。腹が立ってきたよ。おい、その髪をそいつの歯の間に入れろ。ばか、そうじゃない。糸ようじの要領で……そうそう、入れられるだけ押し込め」
「がうああ」
「取りたいだろう? しゃべれば取ってやるぞ、1本残らず」
「知らない……本当に……」
「くそ、なんてやつだ。尊敬すら覚える。おや、ずいぶん体が汚れているな。まあ無理もないが……きれいにしてやろう」
「うぐ……何を。なんだその安全ピンは」
「おい、これでへそのゴマを取ってやれ」
「やめろー」
「暴れるな、危ないじゃないか」
「そいつ手が震えてるぞ!」
「もう年だからな。集中力もあまり続かないだろうよ。さあ、そろそろしゃべった方がいいんじゃないか?」
「だから知らないんだ! 本当なんだよ!」
「おいスポイト持ってきてくれ。耳の穴に1滴ずつ醤油をたらそう」
「やめろ! やめろー!」
「おいおい、動くんじゃない。へそのゴマ取りと同時進行だってことを忘れるな。さあ、まず1滴……」
「ぎゃああぁあ……ぁ」
「ち。気絶しやがった。おい水ぶっかけろ。ばか、その水じゃない。腐った蟹でダシをとったのがあったろうが」