ピルルルルルル
「は、はい。……もしもし」
「後藤さんだね?」
「はい」
「フフフ。その声からすると状況はだいたい分かっているようだね」
「わ、分かるはずがないだろう! ここはどこだ。お前は誰なんだ。早く家に帰してくれ」
「やれやれ。物分かりの悪い人だ。いいかい、あんたは誘拐されたんだよ」
「な……」
「あんたの命が惜しければ、1億円用意してもらおうか」
「ま、待ってくれ。私は無事なのか。元気でいるのか!」
「ああ、安心してくれ。傷つけるようなことはしていない」
「声を、声を聞かせてくれ!」
「やっかいなことを言う人だ。まあいい。……『声を、声を聞かせてくれ!』 どうだ、納得したかい」
「……私の声じゃない」
「あんた、自分の声をテープに取って聞いたことないのかい? 他人が聞く自分の声は、自分の聞く自分の声とは違って聞こえるんだよ。電話だとまた音質も変わるし」
「ごまかされないぞ。お前は……お前は私を殺したんだろう」
「馬鹿馬鹿しい。交渉する前に大事な人質に手をかけるような真似をするか」
「いや、そうに決まってる。よくも……よくも愛する私を……」
「弱ったね、どうも。あんたは扱いに困るくらいぴんぴんしてるよ」
「必ず復讐してやる。地の果てまでもお前を追いつめ、私と同じ方法で、こ、殺してやるからな!」
「まあ落ち着いてくれ。そんなにあんたが大切なら、生きていることを信じて行動するのが愛情ってもんじゃないのかい。金さえ受け取れば家には帰すよ」
「……じゃあ、ちゃんとした声を聞かせてくれ」
「『じゃあ、ちゃんとした声を聞かせてくれ』」
「私の声じゃない」
「困るねえ。これがあんたの声なんだよ。いいかい、違うように聞こえても似てはいるだろう? 直前にあんたが口にしたのと同じセリフを似た声で作るなんて、そんなことができるはずがないじゃないか」
「お前が物真似をしたんだろう」
「どうしてそうくだらないことを考えるんだ。おい、信じられないなら交渉を終わらせてもいいんだぞ」
「待て。これならどうだ。東京特許許可局」
「『東京特許許可局』 どうだ、信じたかい」
「うむ……しかし、この程度だと言えるやつも多いからな」
「じゃあもっと難しいのを言ってみろ」
「よし。ジャズ歌手シャンソン歌手魔術師呪術師手術中」
「『ジャズ歌手シャンソン歌手魔術師呪術師手術中』 おい、これでもまだぐだぐだと……あっ、何だお前ら、うわーっ……」
「…………」
「もしもし、後藤さんですか」
「は、はい」
「無事、犯人を逮捕しました。見事な引き延ばしでしたね。敬意を表します」
「いや、自分でも驚きました。私のためだと思うと、こんな力が出せるなんて」
「指紋占いってのはここかい」
「はい、いらっしゃいませ」
「よく当たるって話を聞いて来たんだ」
「ありがとうございます。さ、どうぞ手をお出しください」
「いや、すまん。俺じゃない」
「は?」
「実は俺は刑事なんだが……。強盗殺人があってね」
「はあ……」
「おそらく顔見知りの犯行ではないので、手がかりがない。唯一残るのが現場に残された指紋だけ、というわけなんだ」
「ああ、そういうことですか。いや、しかし残された指紋とは、うーむ」
「本人がいないとだめかい」
「そんなことはないんですが……。ちょっと見せていただけますか、その指紋」
「ああ、これだ」
「1つだけですか」
「そうだ。全部の指がないと無理かな」
「無理といいますか、実は指によって見える運勢の種類が違うのですよ。たとえば右手の人差し指なら仕事運とか、まあそんな感じで」
「ほう」
「どれ、これは……左手の中指ですね」
「すごいな、一目で分かるのか」
「これで分かるのは健康運です」
「健康? ……旅行運とかは分からないかな」
「右手の薬指の指紋を持ってきていただければ」
「恋愛運とか、家族運とか」
「それは左手の小指と親指です。どうします。見ないならお代もいただきませんが」
「いや、一応見てくれ」
「はいはい、ありがとうございます……ああ、こりゃいかん」
「どうした?」
「最近胃がもたれるでしょう?」
「おい、俺じゃないよ」
「そうでした。胃をいためているようですね。ストレスかな」
「あまり手がかりにはならないな。他には?」
「長い間放置していた奥から2番目の虫歯が、そろそろ猛烈に痛みだします」
「お、それは手がかりになるかもしれん。他には」
「今鼻にある大きなニキビは、つぶすとあとになりますよ」
「おお、それは確実に手がかりになる。他には!」
「そんなところですね」
「そうか。いや、ありがとう!」
「お役に立てれば何よりです」

「お次の方、どうぞ」
「はい。ええと、こう手を出せばいいんですか」
「はい。どれどれ……」
「さっきの人、声が大きかったんで聞こえちゃったんですけど、すごいですね。あんなに分かるんですか」
「ええ、あれくらいなら。でも、たいした手がかりにはならないでしょう」
「捕まるかどうかは分からなかったんですか。健康運では」
「分かりませんでした。でも、捕まらないかもしれません。追いかけてる刑事があの人では」
「それはそうかもしれませんね。あんなにここの占い信じてて、どうして自分の指紋で仕事運見ようと思わないのか…」
「あ。これ九官鳥?」
「そうだよ」
「おー。本物見るの初めてだ。しゃべるの?」
「しゃべるよ。いいぞ、さびしくなくて」
「へー。おーい。なんか言ってみろー」
「…………」
「なんも言わないな」
「あ、だめだめ。優しく話しかけないと。……可乃子、愛してるよ……」
「……オネガイ。ココカラダシテ……」
「いやがってんじゃないか」
「バカ、そういうセリフを言うようにしこんだんだよ。こいつが女、俺はそれを監禁したサイコ野郎、という設定でセリフを覚えさせてるんだ」
「お前……。いや、別にいいけどさ」
「可乃子……おなかはすいてないかい?」
「イヤ、コナイデ……」
「好きなだけお食べ……。君に決してひもじい思いはさせないよ」
「アタシハ、アタシハ自由ニナリタイノヨ……ウッ、ウッウッ」
「かわいそうじゃないか。出してやれよ」
「だから。これは俺が覚えさせたんだってば」
「そうか。でもなあ……」
「なんか話しかけてみ。優しく」
「ええと……君を助けてあげたいけど、僕の力ではどうすることもできないんだ……」
「アタシ……ココデ死ヌノネ……」
「そんなこと言うなよ。いつかきっと外に出られるよ」
「セメテ、オカアサントオトウサンニ……オワカレヲ言イタイ……」
「可乃子さん……」
「あはははは。おい、けっこう会話になってるじゃんか」
「お前、ひどすぎるぞ。そんなやつだとは思わなかった」
「何怒ってるんだよ。俺が覚えさせたんだって言ってんだろ」
「そうか。そういえば今のセリフはお前に言っても不自然じゃない……うーん」
「面白いだろ、けっこう」
「ああ」

「さあ、可乃子さん。君はもう自由だよ」
「……コワイ……」
「怖くないよ。君は、あいつの手の届かないところに行くんだ」
「……ドウシテ、コンナコトヲスルノ?」
「どうしてって……君がかわいそうだと思ったから」
「…………」
「君の悲しい顔、見たくないんだ。会ったばっかりでこんなこと言うの、変かな?」
「……コンナコトヲサレルマエハ、アタシ、アナタノコト、スキダッタノニ」
「え……どういうこと? 自由になりたかったんだろ?」
「帰リタイ……」
「な、なんでだよ。あんなことされたのに、どうして」
「イヤ、コナイデ……」
「違う、俺、ただ君のことを救いたくて、それで」
「……アナタの思イガ、アタシヲコワスノ……」
「か、可乃子さん」
「アタシハ、スベテヲ失ッテシマッタ……」
「……君、ほんとはあいつのこと、愛していたのか」
「オネガイ、タスケテ……」
「バカだな、俺。ははは。ほんとバカだよ」
「……アナタモ、カナシイノネ……」
「可乃子さん……」

「なんかな、変なことがあったんだよ。この前見せた九官鳥がさ」
「ああ、可乃子さんね」
「こないだ家に帰ったら、いなくなってたんだ」
「えーっ。逃げたのか」
「その時はそう思ったんだよ。まさか空き巣が鳥だけ盗ってくなんて思えないからさ」
「うん」
「それが昨日帰ったら、いたんだよ」
「なんだ。じゃあいなくなってたってのが勘違いだったんだろ」
「うーん。けどそんな勘違いしないと思うけどなあ。部屋中探したんだぜ」
「なら1回逃げたけど、自分の意志で戻ってきたんだな」
「適当なこと言うな……て、おい。何泣いてんだよお前」
「なんでもない。なんでもないよ。お前……可乃子さんを大切にしろよ」
 初めてあの影絵を見た時にはもう、私は橋本さんのことが好きになっていたのだと思う。

 なぜその部室をのぞいてみようと思ったのかは覚えていない。
 どうぞ、という返事を聞いて『影絵研究会』と書いた紙がとめてあるドアを開け、最初に目に入ったのは部屋の中央に張ってある白い布だった。
「新入生の方ですか」
「はい」
 声は布のむこう側から聞こえた。窓から入る光で、布に影が映っている。
「部長の橋本です。つーか俺しかいないんですけど」
 手の影が動いていた。それが手ではなくなり、動物の顔になる。体になる。奇妙な動きで地を這う。走る。跳ねる。手だけではなく、影が人の形ではなくなり、違うものになって動いていた。
 私は口を開けてそれを見て、それから拍手をした。
「どうもありがとう」
 橋本さんが布のむこうから出てきた。照れたように笑っている。
「すごかったです」
「いやいや」
 あんなもんは、とかぶつぶつ言っている橋本さんを見て、あれで不満なのかと驚いて、そして私は影絵研究会に入部した。

 影絵研究会には他にも何人か入部したけれど、すぐ誰も来なくなった。
「去年もこうだったんだよ。なんでなんだろう」
 橋本さんには分からないようだったけど、私にはなんとなく分かった。
 橋本さんはいつも影絵の練習をしている。道具を使わない、体だけの、不思議なほどレベルの高い影絵。けれどなぜか人を不安にさせる影絵だった。部屋に落ち着いていられない、そんな気分になってくる。
「橋本さんがみんなに影絵を教えようとしないからですよ」
「そんなもん盗めよ」
 無理だ、と思った。布のこちら側とむこう側。布のむこう側の橋本さんをのぞいてみると、それほどおかしな動作はしていなかった。それなのに布に映る影はとても人の形には見えない。不気味だった。盗むも何も、どうしてそうなるのかが分からなかった。
 でも私はやめなかった。少しおびえながら、でもあの影絵を見るのが好きだった。橋本さんと布をへだてた同じ部屋にいられることが、うれしかった。

 やめた人たちをそのまま名簿に残し、実質2人でも影絵研究会は安泰だった。
 私は部室だけでなく家でも影絵の練習をした。机のライトを壁に向け、暗い部屋で影を作る。馬鹿馬鹿しい気もしたけど、しだいに面白くなった。
 部室で練習するのは1人の時だけだった。橋本さんがいる時には橋本さんが練習していたし、私はそれを見ていたかったから。
 けれどある時、1人で練習していたら、部室に橋本さんが入ってきた。やめるのもおかしいのでそのまま続けた。橋本さんはイスに座って、それをずっと見ていたようだった。
「加賀さん」
「はい」
「いつもは俺がやってるからやらないの?」
「いえ、えーと」
 返事に困る。橋本さんはそれ以上は何も言わなかった。
 それからは2人でいる時にも、私は布のむこう側によく行くようになった。その時には橋本さんが見ていて、たまにアドバイスをくれる。そのアドバイスがなんとなく理解できるようになっている自分に驚いた。
 どちらにしても、橋本さんと私は、たいてい布をへだてていた。世間話もしない。でも、多分それでちょうどよかったと思う。私には話題もないし、きっと橋本さんの顔もろくに見れなかっただろうから。

 2年の時、学園祭で影絵をやった。暗くした教室に布を張って、後からライトを当てる。ただ影絵を見せ続けるだけだったけど、教室のざわめきはだんだんと大きくなっていった。隣にいる私には、橋本さんの動きはそんなに不思議なものではない。でも、影絵だととんでもないことになっている。目の前の布にもそれは映っていたし、むこう側から見るともっとそうなのも知っていた。
 2人でやってはいても、影を合わせるような影絵は作らない。打ち合わせもない。ただ、今までに覚えたものを作り続けるだけ。私の影絵が邪魔になっていないか、それだけが心配だった。
「終わった終わった」
 片づけをしながら、橋本さんは機嫌よく言い、ふと付け加えた。
「加賀さんの影絵はいいね」
「は?」
「優しい感じがする。どうやったらああいう雰囲気出せるのかな」
 私は驚いてしまって、何も言えなかった。
 橋本さんにほめてもらったのは、それが最初で最後だった。

 学園祭が終わると、新しく入部する人が増え、今度は残る人も多かった。部室には人が多くなった。そして当然橋本さんは尊敬された。
 その次の年の2月14日。部室に行くと、橋本さんが1人で机の上にチョコレートを並べていた。
「あ、すごい。そんなにもらったんですか」
「うーん。こんなにもらうの初めてだ」
 しばらく何か考えこんでいた橋本さんは、包みの1つを開け、小さなチョコを1つ取り出して布のむこう側に行った。
 左手がワニの横顔のような形になる。右手はそのまま、チョコを持った右手の形。ワニがチョコにかぶりつく。もぐもぐと食べる。飲みこむ。そして橋本さんは両手をぱっと開いた。チョコはどこにもない。
「影絵マジックですか」
 私は笑って拍手した。橋本さんは戻ってきて、もう1つチョコをつまんで食べた。
「うまい、これ」
「高そうですもんね」
「高いのかな」
「高いでしょ。きっとあれですよ、本気のチョコですよ」
 私はそう言って、橋本さんの反応をうかがった。橋本さんは少し首をかしげた。
「それは困る」
「困るんですか」
「俺好きな人いるもん。ちょっと遠いところにだけど」
 胸が一瞬ずきんと痛んだ。でも顔に出るほどの衝撃ではなかった。私の「好き」はその程度らしかった。
「遠いところって、海外ですか」
「そうじゃないけど。海外より会いにくいところ」
「……?」
「加賀さん、今夜空いてる? ちょっと試してみたい影絵があるんだけど、見てくれないかな」
「え。今じゃだめなんですか?」
「だめなんだよ」
 不思議に思いながら、大丈夫ですと答えた。

 暗い部屋に、月の光が入っていた。橋本さんは布のむこう側、私はこちら側に座ってそれを見る。もう見慣れた影絵をいくつか見せながら、橋本さんが言った。
「怪談みたいな話なんだけど」
「はい?」
「こんなふうに月の光で、自分を食う魔物の影絵を作ると、影の国に行けるんだ」
「影の国? 何ですかそれ」
「さあ。でも、どこか遠いところなんだろうな」
 少しぎくりとなった。好きな人が遠いところにいる、という話を思い出したからだ。
「2年前、加賀さんが入学する少し前だ。俺は今加賀さんが座ってるそのイスに座って、先輩が月の光で作った影絵を見ていたんだよ」
 影が動く。もう、どこが体のどの部分の影なのか、分からなくなった。
「影絵を作っていたのは俺の2年上で、その時4年だった先輩だ。あの人の影絵はすごかった。俺なんかあれに比べたら全然だめだ」
 そんな人がいたなんてとても信じられない。目の前の影は何か化け物が口を開けたような形になっていた。
「影の国の話はその時に、その先輩が言ったんだ。ふざけてやったんだと思うけど、自分が食われる影絵を作って、先輩はそれっきり消えた」
「消え……?」
「消えたんだ。影が消えて、俺がそっちに行っても、誰もいなかった」
 私は声が出なかった。笑い飛ばしたかったけど、できなかった。目の前で、布の上の魔物が伸びたり縮んだりしていた。
「俺は先輩に会いたくて、自分も影の国に行こうと思った。何度もやってみた。でも行けなかった。下手だから行けないのかと思って必死で練習した」
「橋本さん」
「でも、気がついたんだ。行けないのは下手だからじゃない。あの時にあって、俺が行こうとしている時になかったものがあった」
「……まさか」
「そうなんだよ。影絵を見る人がいなかったんだ」
 魔物の影がそのままあるのに、橋本さんの影が現れた。こんな馬鹿な、と思うより先に私は立ち上がった。
「来ないでくれ。頼む」
「でも」
「今度こそ、あの人に会えるかもしれないんだよ」
 昼間、左手のワニがチョコレートを食べたように、大きな影が口を開け、橋本さんを飲みこんだ。

 それが2年前の今日だった。橋本さんが行方不明になったことは、私が知る限り、そんな騒ぎにはならなかったようだった。もう私も卒業が近い。
 あれを見てから、私の影絵はずいぶんうまくなったようだ。橋本さんもそうだったのだろうか。
「どうやったらそんなふうにできるんですか、加賀さん」
「そりゃもう練習あるのみですよー」
 本当のことは言えるわけがない。

 あの時、止めようと思えば止められたんじゃないかと思う。来ないでくれ、と言われてなぜその通りにしてしまったのだろう。
 でも、もう一度同じことがあっても、私には止められないような気がする。私は橋本さんが好きだったけど、橋本さんが消えても、影の国に行きたいとは思わなかった。いずれ来るお別れが少し早かっただけのように、橋本さんは少しずつ過去の人になっていった。誰かに会いたい、それだけのために影の国なんてところに行ってしまおうとする橋本さんは、私とはあまりにも違っていた。
「加賀さん、影絵やってくださいよ」
「んー。じゃあひとつ……」
 昼食後の休み時間。私は布のむこう側に入った。この部室ともそろそろお別れだ。
 あれをやろう、と思った。2年前に橋本さんがやった、あの魔物の影絵。今の私ならきっとやれる。月の光ではなく、太陽の光だけど。

 布をへだてて見ている後輩が、息を飲むのが分かった。成功している。魔物の影絵ができている。さあ、そしてここだ、ここで私は食われる……。
 突然、目の前が暗くなった。本当に食われた。かろうじてそれが分かった。声が出ないまま、自分の体が床に吸いこまれてゆく。
 最後に見えた真昼の空に、細い細い月が浮かんでいた。

 行くつもり、なかったのになあ。
 でも、橋本さんに会える。最後にちらりとそう思った。
「琵琶湖水切り選手権もいよいよ大詰め、最後の選手、水上平次の最後の一投です。さあ、どこまで行くのか、何回跳ねるのか? おおっと水上、あの体勢から投げようというのでしょうか!」
「な、なんだあのフォームは!」
「体をギリギリまでねじった回転力がすべて石に伝わっていく!?」
「さすがは平次……水切りファイターと言われる男」
「やめるんだ平次! そのフォームをそれ以上使えば君の体は」
「平次ー!」
「水上の最後の一投……投げましたあああー、こ、これはああー」
 ドビャーン
「失投だ! 着水までの距離が長すぎる」
「いや、平次はまさにこれを狙っていたんだ」
「なんだって」
「見たまえ、石が着水する」
 ビシャアン! ビシャアン! ビシャアン!
「こ、これは! なんという跳ね方だ!」
「そしてまったく石のスピンが失われない。一体どこまで伸びるのか……」
 ザザーン
「うっ! 波が来た」
「ここまでか……」
 ババババババ
「何ーっ! 石のスピンが波を粉々にしたーっ!」
「平次……まさかここまで成長していようとは」
「跳ねる! 跳ねる! 石は一体どこまで行くのか!」
 ばしゃっ
「うっ! 魚が石の前ではねた」
「ここまでか……」
 ババババババ
「何ーっ! 石のスピンが魚を粉々にしたーっ!」
「平次……まさかここまで成長していようとは」
「跳ねる! 跳ねる! 大会記録を超えましたーっ!」
「まさか、あいつの狙いは」
 ズギュルルル
「あーっと! 石が大きく跳ねた! これまでよりさらに大きい跳ねを見せております! これは一体どうしたことでしょうか!」
「恐ろしい男だ。湖の流れで石の回転力が増すように計算していたとは」
「もしや、これは……」
 バラバラバラバラ
「こちら上空からの中継です。石はまだ跳ねております、衰えを知りませーん!」
「まだ行く! まだ行く! まるで水面であることを忘れたかのようだー!」
「平次。お前、最初から狙っていたのか?」
「まあね。どっちにしてももうオレは、水切りはできない体だ」
「…………」
「最後にどうしてもやっておきたかった。体がぶっこわれても」
「平次……」
 バシャン バシャン
「まさか! まさか! 対岸に届くのか!? 琵琶湖横断を今! 1個の石が果たそうとしております!」
「しかし、さすがに勢いがなくなってきたな」
「お願い……届いて! 届いてーっ!」
「あああー! 岸を目前にして、今、石が止ま……」
 ザザーン
「な、なんとこれはああー! 波の勢いでまた跳ねて……」
 トスン
「と……」
「届いたああああー! やりましたああああ! 前代未聞の快挙、水切りで琵琶湖横断! 誰も予想すらしなかった偉業が今! 達成されたのです!」
「やったね、平次」
「おめでとう。そして感動をありがとう」
「まさに……水際だったプレーだった」
「判決! 死刑!」
「裁判長、嬉しそうに言うのはやめてください」

「先生、私はどうしてしまったんでしょう。重々しく言わなくてはならないところで、必ずそうなってしまうんです」
「なるほど……。実は最近、あなたと同じように、つらい宣告を嬉々として言ってしまうという人が急増しているのです。社会の空気が重苦しいために、バランスをとろうという心が働いてそうなっているのかもしれませんね」
「それであの、治るんでしょうか」
「ごめん! 無理!」
「先生、嬉しそうに言うのはやめてください」
「お前その食べ方やめろよー」
「いっつもそれだよね」
「あたしも1人の時はやるけどさ」
 アハハハ……アハハハ……

「夢を見たよ。俺がたけのこの里のチョコをはがして食べてるのを、みんなが笑ってる夢だった」
「そうか。うらやましいな、そんな夢が見れるなんて」
「あんな日もあったんだな」
「ん。ずっと昔のことみたいだけど」
「ええと、5年前か。あの研究結果が発表されたのは」
「じゃあ僕はここに来てまだ2年だ。遅いなあ、時間が過ぎるのは」
「俺は1週間なのに、おそろしく長く感じる。2年なんて想像もつかない」
「……菓子を分解する衝動を抑えることのできない者は凶悪な犯罪に走るケースが多い、か。本当なのかな、あれ」
「さあね。……ああ、あの時まで俺、菓子を分解しないで食べてみようなんて考えたこともなかったんだよな。まわりにも分解してるやついたし、自分が異常だなんて思わなかった」
「僕もだよ。分解しないで食べろと言われるまで、自分にそれができないって知らなかった。どうしても分解してしまう自分に愕然としたっけ」
「あれから色々あったけど、多分もう俺、治らないと思う。本当に凶悪犯になるんなら、ここに閉じこめられてた方がいいのかもしれない」
「まあね」
「だからまあ、それはいいんだけどさ。分解できない菓子しかくれないのがつらいな。治るのあきらめたから菓子を分解させてほしいよ」
「ダース食べる?」
「ダースってチョコの? いらないよ。ほしいのは分解できる菓子だ」
「知らないの?」
「何を」
「ほら。このダースを、上1/4だけ食べるつもりで前歯でかんでみな」
「……おっ」
「な? 中から小さいチョコが出てきただろ」
「なるほど。小さいチョコをチョコでコーティングしてあるわけか」
「隠れ分解菓子だ。それがあるから、僕もここで狂わないでいられる」
「もう1個くれよ」
「あと1個だけだぞ。あんまり減りが早いとバレるから」
「遅くたっていつかはバレるぜ」
「だろうね。その時は、僕は終わりだな」
「それまでに、別のそういう菓子を見つけないとな」
「見つかるといいけど」
「……おい」
「ん?」
「見ろよ、こんなにきれいに取り出せた。歯形もつかないで」
「あ、すごいな。僕ももう1個……」
「あとは、この証文さえ燃やせば……」
「ええ。……長かったわね。あいつに虐げられ、つらかった日々」
「だが、犯行には何一つ証拠は残っていない。そしてこの証文がなくなれば」
「あたしたちがあいつを恨んでいたという証拠もなくなる」
「完全犯罪……。そうだ、完全犯罪だ」
「さあ、早く燃やして」
「ああ、いくぞ……」
「…………」
「ち、ちょっと緊張するな」
「そ、そうね。完全犯罪だと思うと」
「完全犯罪ってけっこう響きが重いからさ」
「完全ってところがね。存在してはいけないのでは? なんて思っちゃって」
「完全な上に犯罪だもんな。二重の意味で、こう……。でも、そんなこと言っててもしょうがない」
「そうよ。とっておいてもどうにもならないし、万が一そこから発覚したりしたら泣くに泣けないわ」
「そうとも。さあ、燃やすぞ……」
「…………」
「き、きみが燃やしてくれないか」
「ちょっと……情けないこと言わないでよ」
「でも、分かるだろ? 燃やしたらもうほんとに完全犯罪なんだぞ」
「分かるけど。私にやらせてどうするのよ」
「殺す方はちゃんとおれがやったじゃないか!」
「あたしだってちゃんと役割を果たしたわよ!」
「けど、おれの方が重要な役割だったことはきみも認めるだろ?」
「何よそれ! 今さらそんな」
「いや、違う。そういう意味じゃないんだ、ただ……」
「ちょっと危ない! 火のついたマッチなんかふりまわさないでよ!」
「うわっ」
 ガタン ボオオオ
「キャアア」
「まずい、火の回りが早い。逃げよう!」
「あ、待って! 証文を……」
「置いてけよそんなもん」
「でも、証拠が! 証拠が燃えてしまう!」
「バカ、もう手遅れだ!」
「証拠が! 唯一の証拠が!」
「命の方が大事だろ! 逃げるんだ!」
 ゴオオオオオオ
「燃えてる……全部燃えてしまう……」
「これでよかったんだ。……成立したな、完全犯罪」
「そうね……。でもおかしいわね。胸にのぼってくるのは、取り返しのつかないことをしたという後悔だけ……」
「おれもだよ。けど、いつかきっと笑えるようになるさ」
「そうね……」

「隣の部屋の住人が、お前たちの言い争いを聞いていたんだよ」
「…………」
「こっちは出火の原因を調べてたんだが。まさに飛び火ってやつだな、ハハ」
「…………」
「馬鹿なことをしたもんだ。完全犯罪になるところだったのにな」
「……いえ、いいんです。おれたちはもともと、完全犯罪なんてできる器じゃなかったんですよ」
バケモノを見た
びっくりした
びっくりして
瞳孔が開いた
白目も瞳孔になった
もっと開いた
顔中瞳孔になった
全身から毛が抜けた
抜けた後の毛穴が開いた
1個5センチになった
もっと開いた
体中穴になった
内臓がけいれんした
けいれんしながら
開いた穴から飛び出した
出た後もけいれんした
のたうちまわった

大声で叫ぶ
体中の穴から声を出す
穴から出た内臓も声を出す
のたうちまわりながら
叫び声をあげ続ける

そんな
バケモノを見た
びっくりした
びっくりして
瞳孔が開いた
 でんでんでんぐりがえって ばいばいばい

「この『でんでんでん』と『ばいばいばい』だが、でんぐりの頭にでんでん、ばいばいの頭にばい、つまり2+1と1+2、似て見えるが実質は違うということになる」
「ちょっと待ってください、『ばいばいばい』はばいばい+ばい、つまりばいばいの後ろにばいがついていると思われます、2+1です」
「後ろにつくという根拠はどこにある」
「歌ってみれば明白じゃないですか。でんでん、でんぐりがえってばいばい、ばい」
「そんな歌い方をするのは君だけだ」
「誰でもこう歌いますよ!」
「2人とも落ち着いて。そもそもばいばい+ばいだったとしても、それはでんでん+でんぐりとは違う内容の2+1ではないでしょうか」
「それはそうだが、今それを言い出されると混乱してしまいます」
「しかしそれ抜きで議論を進めては……」
「待て、ばいばい+ばいを前提に議論を進めるのは時間の無駄だ、ばい+ばいばいが正しいのだから」
「根拠もなしに断言しないでください」
「君こそばいばい+ばいであるという明確な根拠を示せなかった」
「でんでん、でんぐりがえってばいばい、ばい」
「だからそんな歌い方は君だけだと」
「痛い、何をするんだ」
「落ち着いてください、乱暴はやめてください!」

 いいないいな にんげんていいな