トントンツートンツートントン
「ええっ! た、大変だ!」
 ツーツートントントンツー(笑)
「あっ、今日はエイプリルフールか。くそー」
「じゃあさ。吉村君は、好きな人とかいるの?」
「いるよ」
「おおー」
「言った」
「誰? 誰?」
「誰って、それは……」
「ゴクリ」
「お前だー!」
 ワー! それを合図に枕投げ開始
「それー」
 バフ
「えーい!」
 バフ
「まだまだー」
 バシ
「あっ! 吉村の枕を古谷さんが受け取ったぞ」
「これは……」
「つまり……」
「カップル成立!」
「おめでとう!」
「おめでとうー!」
 パチパチパチパチ
「あ、ありがとう。みんな」
「ありがとう……」
「お祝いにこの木刀を贈るよ」
「僕からはこの派手な文鎮を」
「私からはこの変なキーホルダーを」
「さあ、みんなで旅館のまずい飯を食べながら祝おう」
「やんややんや」
「いやあ、実に似合いの2人だ」
「末永くお幸せに」
「お幸せにー!」
 ガラガラッ
「こらあ、お前ら! 消灯時刻はとっくに過ぎているぞ!」
 シーン
「寝たフリなんぞしやがって……」
 部屋の中を歩き回る教師。布団の中で息を殺す生徒たち。さっき成立したカップルが、同じ布団の中で見合わせた顔を赤らめ、身を寄せ合い、絆を深めながら夜はふけてゆくのだった。

「資料から推察すると、千年前、西暦2000年頃の修学旅行の夜はおおむねこのようなものだったと考えられます」
「いいなあ。昔の修学旅行はこんなに楽しかったんだ……」
「我々、秘密結社バルガインの世界征服計画もいよいよ大詰めだが、ここにきて敵の攻撃がいちだんと激しさを増している。先月は……15人だったか?」
「16人です」
「合計16人の改造人間たちの侵入を許してしまった。被害状況は?」
「27名の戦闘員が死亡、9のゲートが破られました。D-19、D-20、D-21、H-14、H-15のゲートはまだ補修が終わっていません」
「いいか諸君、野望が現実になるまであとわずかだ。ここが正念場だぞ」
「はい。しかし……そろそろ殺し合いがつらくなってきました」
「弱音を吐くな! つらいのは相手も同じだ。あれほど多くの人間を改造するのも心苦しいはずだ。心を鬼にしてやっているに違いない。心を強くもて! でなければ負けるぞ」
「はい……」
「改造人間はいずれもなんらかの動物をモチーフに改造されている。その動物が何か、まずはそれを見極めて作戦を立てることで被害を最小に……」
 ブーッブーッ
『侵入者です。侵入者です』 
「来たっ!」
「モニター映せ」
 パッ
「間違いない、改造人間だ」
「茶色の戦闘スーツ……。一体何の動物でしょう」
「茶色い動物は多いからな……」
「あ、戦闘員が襲われています」
 ガン ガガン
「おい、見たか今のジャンプ力を」
「はい!」
「茶色くて……ジャンプ力がある……」
「カンガルーでは」
「袋が見当たらないぞ」
「それにカンガルーはもっと黄色い」
「じゃあカモシカとか」
「あ、それかな」
「とにかくパワーはなさそうだ。閉じこめろ」
「総員退避! D-23、D-24ゲート、閉めろ!」
 ガシャーンガシャーン
「成功です、閉じこめました」
「よしっ!」
「あ、ゲートに攻撃をしています」
「壊れるほどの攻撃ではなさそうだ。生け捕りにしよう。催眠ガスを出せ」
「出ません。この前に来た改造人間に噴射口を壊されました」
「直ってないのか」
「はい。捕まえるにはゲート開けないと」
「まだゲートに攻撃しているな。疲れたところで捕まえよう」
「……あ。攻撃やめました」
「体力がないのか。カモシカってスタミナはどうなんだ」
「さあ……」
「それにまだカモシカと決まったわけでは」
「あれ?」
「どうした」
「改造人間が倒れました。動きません」
「死んだふりして油断させようとしてるんじゃないか」
「なんかそういう動物いなかったっけ」
「いた気がする。何だったかな」
「あの。なんかほんとに死んだみたいです。これ、生体反応が」
「本当だ。心臓が止まってる」
「心臓止める動物っていたっけ」
「いやあ、それはないんじゃないか?」
「じゃあほんとに死んだのか」
「一体なんで」
「そこの2人、ちょっと見てこい」
「は、はい」

「いやだなあ」
「大丈夫だろ、多分死んでるよ」
「多分な。でも、死んでてもそれはそれでいやだよ。俺死体とか苦手だもん」
「まあ、俺も得意ではないけど」
「ああ、早くこんなこと終わらないかなあ。改造だぞ。人間を改造とかしてるやつがいるんだぞ。そんでこっちはそれを殺してさあ。もういやだよ、こんなの」
「うん……。ほんと、早く終わればいいのにな……」
 ガーッ
「どうだ。死んでるか」
「んー……死んでるみたいだが」
「死因は?」
「外傷はないようだな……うわ」
「どうした」
「見ろよこれ。こいつの顔」
「……涙? 泣きながら死んだのか」
「それになんなんだ、この悲しそうな表情」
「閉じこめられて絶望したって感じでもないな……」
「あっ! わかった! こいつ、カモシカじゃなくてウサギだ!」
「?」
「ほら、ウサギはさびしいと死ぬっていうじゃないか! 死因は1人で閉じこめられたさびしさだよ、きっと」
「そうか! ウサギは白だけじゃなくて茶色もあったな!」
「よし、これで解決だ。解剖室に運ぼう」
「よいしょっと。毎回こんな弱点持っててくれれば楽なのにな」
「まったくだ。……しかし、ほんとさびしそうな顔だな」
「そりゃ、死ぬくらいだし」
「なんかさあ……こっちまで悲しくなってきたよ」
「やめろよ。顔は見ないで運ぼうぜ」
「…………」
「…………」
「……もういやだよ、こんなの」
「うん……。ほんと、早く終わればいいのにな……」
「すごくいいシャレを思いついたよ」
「言ってごらん」
「『鼻水がはなたれた』」
「おお!」
「ガキの頃俺はね」
「はあ」
「作家になりたかったんだよ」
「へえー。自分が主役の妄想小説でも書くんですか」
「違う。あのなあ、妄想と文学を一緒にするなよ!」
「は? 怒られた?」
「文学は受け取る相手がいてこそ文学だが、妄想はそのすべてが自分のためにあり、人に聞かせるためのものではない」
「なるほど。ではそういうことで今日はこれで……」
「作家の俺が書こうとしていたのは妄想ではなく真実だ。純文学! まあ自分が主役というのは当たっている。私小説!」
「またなんともいえないところに的をしぼりましたね」
「本屋にレモンを置いたとか石を投げたらヤモリに当たったとかそんな感じの人間の真実を描き出していきたい、そう思う」
「なんか馬鹿にしてるように聞こえるな」
「人生の悲しさ、優しさ、そして美しさ……生涯それを描き続けた魂の文学者、それが俺。今や知らぬ者はいない、日本が世界に誇る文学者、それが俺」
「そうですか」
「未発表の原稿が数千枚発見されて大騒ぎになったのも記憶に新しい出来事だ。『新たな財産を得て、人類はまた豊かになりました』ニュースキャスターは少々興奮気味でそんなコメントを寄せていたっけ」
「ふーん」
「まあ、少しばかり過大評価されているという気もしないでもないけどね。そもそも作品を読んで俺の人間性まで崇めたてまつってしまう人々の多さはどうかと思う」
「はあ」
「あまりに作品がすぐれているためか、どうも俺は聖人君子であるかのように思われがちだ。文庫本の解説なんかを読むと、戦時中に書いた作品のすべてに反戦のメッセージをくみ取られていたりして、あれにはさすがに閉口したよ。そんなつもりで書いたんじゃないのになあ」
「いつの人なんですか」
「ま、しかし作品を好きになると作者も素晴らしい人格であってほしいという気持ちになるのもわかる。ある意味これは作品の一人歩きともいえるし、別にそのことについて何か言う気はないんだ」
「はあ……」
「だが俺の本当の理解者は言う。『現在のこの評価を聞き、彼はあの世で苦笑いしながら文学の神と碁を打っているだろう』と……」
「どんなキャラなんだ」
「国語の教科書にももちろん俺の作品が載っている。教師はたいてい俺のファンなので、当然かなり時間をとってていねいにやることになる」
「へえー」
「俺の作品を読んだことがある生徒も多く、すなわち尊敬している者も多い。作品の後に作者の紹介が載っているが、俺の写真への落書き率は他の作家や歴史上の人物に比べて圧倒的に低いという統計もそれを表していた」
「なんてくだらない統計だ」
「『それではまず読んでもらいましょう。今日は3日だから出席番号3番の大野君。の後ろの松永さん』それを聞いた大野は、ほっとしたような顔をしながら内心少しがっかりする。せっかくこの作品をみんなの前で読めるチャンスだったのに……」
「チャンスですか」
「何人かが当てられ、作品の音読が終わった。教室内は静まり、生徒は生きていくことの意味とか輝きとか、そんなことを思わず考えている様子だ」
「はあ」
「国語教師はその光景に感銘を受ける。これからの生徒たちの人生において価値を持つのは、これから行う授業よりもむしろ……誰もが沈黙を守っている今この瞬間なのではないか?」
「それはそれは」
「けれども授業を続けないわけにはいかない。プリントを配る。それには生徒たちを感動させた作品の生みの親である俺の人生が年表でまとめてあった」
「はあ」
「魂の文学者は一体どんな人生を送ったのか? さあ、年表を見てみようか。裕福な家庭の長男として生まれ、何不自由ない少年時代を送った俺。けれどなぜだろう、何かものたりないような気がしてならない少年時代でもあった」
「そんなことが年表に?」
「中学の時に金持ち仲間に、『同人誌を作るから、君も小説を書いてみないか』と誘われた。思えばそれが第一歩だった」
「ふーん」
「初めて書いた小説、『耳かきと黒猫』。耳かきをしていた男が窓の外を通っていた黒猫と目が合い、その瞬間、自分の耳に耳かきが深々とつきささる光景が頭に浮かぶ。以後耳かきをしようとするたびその光景が頭に浮かぶためついに発狂するというストーリーだ」
「つまんなそう……」
「まあ正直、あれは小説とも呼べない、うんこ以下のしろものだった」
「でしょうね」
「でも他の連中が書いたものに比べればまだまともな方だったんだぜ。人力車にひかれて2つに割れた石が主人公。元通りになろうとするが、結局あきらめてそれぞれ1個の石として生きていく決意を固めたところでまたひかれて粉々になる『石』、心中したが2人とも死ねず、しかしそれから2人はそれまで以上にひどい目にあい続ける。実は2人は心中で死んでてそこは地獄でしたというオチの『お花角兵衛』など、まさに阿鼻叫喚の内容だった」
「なんか……全部発想が似てる気がするんですが」
「傑作を書いたような気になっていたけど、冊子になったのを読んで愕然、顔から火が出る。いくらなんでもこれはひどい。これまでの何不自由ない人生で、こんな気持ちは初めてだった。もっといいものを書きたい。俺にはできるはずだ。文学を志すと心に誓った」
「へー」
「何もかも忘れて文学に没頭した結果、素晴らしい傑作を書けるようになった」
「早いなあ」
「そのへんが省略されるのはやむを得ない。このたぐいの想像はたいてい成長部分がぼやけるものだから」
「ふーん」
「ところが、傑作を書けるようになったのは俺だけではなかった。『耳かきと黒猫』が載ったあの冊子に『お花角兵衛』を書いていた同級生、谷村。あいつも同じように死にものぐるいで成長していたのだ」
「そうですか」
「後に終生のライバルといわれる2人……けれどその時はライバルにすぎなかった」
「どう違うんだろう」
「卒業して俺は家を飛び出し、傘貼りやうちわ作りなどの内職で糊口をしのいでいた」
「浪人だ」
「ライバルの谷村は文壇でもてはやされているというのに、俺は。あせる気持ちは内職にも悪影響を及ぼす。『なんだこの傘は! 紙がしっかりくっついてねえじゃねえか!』納品先に怒られ、落ち込む日々」
「はあ」
「初期の傑作と名高い『傘』はそんな時に書かれた。この上もなく美しい傘を作った職人が、突然降ってきた雹からその傘をかばって死ぬというストーリーだ」
「傑作……?」
「運命とは不思議なものじゃないか。文学がうまくいかずに内職、内職がうまくいかずにふと書いた作品で俺は世に認められたんだ」
「はあ。それで認められてしまったんですか」
「たちまち人気作家になった俺、けれど決しておごり高ぶることもない。住んでいるところはあいかわらずの貧乏長屋だ。やっぱり気の合う人たちとの場所が一番だからね」
「そうですか」
「『先生! おかず持ってきてやったよ!』相変わらず売れない作家だと思われている俺。『やあ、いつもすみませんね』」
「ふーん」
「だがそんな幸せも長くは続かなかった。続々と押しかける編集者たち。『先生! お原稿をいただきに参りました!』『いつもながらすばらしいお作品!』大声で叫ぶ」
「なぜ」
「しだいに人気作家になったことがバレてしまう。見る目もどことなく変わったようで、居心地の悪さを覚える俺」
「へー」
「そんなある日、俺の作品に惚れ込み、ぜひ自分のところの雑誌に書いてほしいと頼みに来るやつが来た。『小誌に書いてくださるまで、ここを一歩も動きません!』断ると雪の中で座りこむ始末だ」
「はあ。それは困りましたね」
「雪の中で倒れていた男を近所の人が救出。その熱意に同情し、『書いてやってもいいじゃないか、先生』『あんたは冷たいよ』と言いに来る」
「そうですか。それは困りましたね」
「もうだめだ。ここにはいられない。長く住んだヤモリ長屋を出て、俺は豪邸に移り住んだ。そして非の打ち所のない女性を妻にした」
「なんでまた」
「金、地位、名誉、女。すべてを手に入れたというのに、どこか心が空虚だ」
「なんかそれ違う」
「相変わらず作品は量産している。誰もが俺をほめたたえる。だが俺の私生活はしだいに荒んでいった。飲んだ、打った、買った。『やめて! このお金だけは』『うるせえ!』『ああっ』」
「いきなり貧乏になった」
「金を湯水のように使ったからね。財力にも限界があったというわけだ」
「ふーん」
「とうとう妻にも逃げられ、家も差し押さえられた。そしてスランプに陥り、何も書けなくなった。どん底だ」
「はあ。なぜか全然同情する気になれない」
「さて、ここで国語の授業に戻ろうか。年表を参照すると、まったく作品を発表していない年が1年ある。そしてその次の年。俺は芸者との心中未遂を起こしていた……」
「どこかで聞いたような話だなあ」
「忘れたかった、何もかも。そのために溺れた。酒に溺れ、女に溺れ、海で溺れた末の入水自殺だった」
「何を言ってるのかわからない」
「しかし発見が早かったため、相手の女ともども助かってしまう。『なぜ助けたんだ。死なせてくれ』病院の窓から飛び降りる俺」
「元気だなあ」
「幸い1階だったためケガ一つしなかった。『なぜ死ねない? 僕を生かそうとしているのは何者なのだ?』」
「はあ……」
「病室で1人考え込む俺。『あなた!』そこに飛びこんできたのは知らせを受けて駆けつけた妻だった」
「そんなのがいたのか」
「しばしの沈黙の後、妻の目からこぼれる涙。『もうおやめになって、文学など。これ以上あなたが苦しむのを見てはいられません』『節子……』」
「文学あんまり関係なかった気がしますが」
「その時だ。まるで雷に打たれたかのように、俺は己の運命を悟った。そして叫んだ。『お前とは離婚だ』」
「なぜ」
「その時初めて気づいたんだ。家族を愛するがゆえに、家族に縛られていたと……」
「縛られてたかなあ」
「俺が命をかけると誓った文学というものは、なにものにもとらわれない心からしか生まれないものだったんだ」
「いつ誓ったんですか」
「あのなあ。今までの経緯からそれぐらい読みとれよ。どんなすばらしい文学作品も読者の読解力がなければ駄作になりさがってしまうんだぞ」
「あの、これでもちゃんと聞いてるんですけど」
「そうか? そうだとしても掘り下げては聞いてない。国語の授業だ、国語の授業のように、一文ずつその意味を考えろよ。あ、こういう解釈が可能なんじゃないかな? みたいな読み解き方をな、するべきだ」
「いやです」
「さて次の年。芸者との出会い、心中未遂、別れ、退院、離婚、旅に出発、までを描いた私小説、『山吹』が発表された。すさまじい反響だった」
「旅?」
「『彼はこれまでにも数々の傑作を世に送り出してきた。しかしそのすべてはこの作品のためにあったのである』それが識者の一致した見解だった」
「はあ」
「けれど俺はその頃遠い空の下で旅の向こう側。自分の巻き起こした一大センセーションなどどこ吹く風がここちよい」
「はあ?」
「それからというもの、俺は決まった住所を持たなかった。ただ時々出版社をふらりと訪れる男がいる……そう、それが俺だった」
「ふーん」
「『ここはあんたみたいなのが来るとこじゃないよ』みすぼらしい身なりだったため、事情を知らない新人社員に邪険にされる俺。そこに通りがかる古株社員、『あ、あなたは』1分後、2人そろって『申し訳ございません!』」
「何がやりたいんだ」
「俺は手を振り、笑って原稿を渡す。原稿料を受け取り、去って行く。震える手で原稿を開く2人」
「それで涙流して感動ですか」
「まあそうなることもある。ならないこともある。旅を続ける中で起きた出来事、人との出会いや別れ、そんなことを書きつづった俺の作品はシリーズものになって多くの人々に親しまれた」
「そうですか」
「けれども徐々に新しい作品が届かなくなり、ついにとぎれた。生きているかすらわからない、伝説の作家。ライバルの谷村はそんな俺のことをなつかしそうに語った。『いつも後ろからあいつの足音が聞こえていた。けれどある時それが聞こえなくなって、ほっとしたような心配になったような気分で振り返ると、もうあいつはいなかった。あいつはいつのまにか翼を持ち、俺のはるか上空を飛んでいったのさ』」
「ほんとにライバルだったんですか」
「そんな谷村も86歳で眠るように逝った。その葬式に現れた1人の老人。それを見た1人の男はハッと気づく。『あの人は、もしや……』」
「はあ」
「男はかつて原稿を求めて雪の中俺の家の前で座りこんだことのある編集者だった。そして老人の正体はなんと俺だったのだ」
「ふーん」
「『先生!』呼びかけられ、振り返る俺。『やあ、君は……』『お久しぶりです! その節は失礼いたしました。あれからもう60年……お元気そうで何よりです!』『いやいや、もう老いぼれじゃよ』『いや、まだお若い!』」
「編集者の方は変わってないんですか」
「『最近作品を発表されてないので心配しておりました。もうお書きにはなられないのですか』『うむ』『なぜ? もう文学への情熱はなくなったと言われるのですか』『いいや』しわの刻まれた口元をかすかに歪ませて笑う俺」
「はあ」
「『文学への情熱はなくなってはおらん。わしという存在が文学そのものになったと言っていいじゃろう……』」
「図々しい」
「意味がわからずぽかんとする編集者に、俺は谷村の思い出を語り始めるのだった」
「そんなに思い出あったんだ」
「俺の口から流れるように言葉が紡がれ、彼はそれにうっとりと聞き惚れた。その声がとぎれ、ふと目を開けると、もう俺はそこにいなかった。そしてそれが、俺が目撃された最後になった」
「それはそれは」
「こうして国語の授業は静かな感動とともに幕を閉じたのだった」
「まだ授業だったのか」
「授業の感想文を書く生徒たち。『よかったです』『泣きました』『僕には彼が死んだとは思えません。人を愛し、世界を愛し、彼は今でも旅をしながらあらゆるものを見聞きし、語り続けているのではないでしょうか……』」
「はいはい、終わりですね」
 ゴオオオオオオオオ
「吹雪はやみそうにないな」
「…………」
「おい!」
「……あ」
「寝るな! 寝ると死んでしまうぞ!」
「……もう、無理だ……眠い……」
「あきらめるな、何か話をしよう」
「話なんて……眠いということで頭がいっぱいだよ……」
「じゃあ、眠いということについて話そう。どれくらい眠いんだ」
「どれくらいって……」
「徹夜した後の眠さを100とすると今の眠さはどれくらいだ!」
「あ、ああ……そうだな、740くらいかな」
「そうか」
「…………」
「寝るな!」
「いや、話終わったし……」
「終わってない、まだこれからだ! ちなみに俺は今290くらいだ、ええと、単位がほしいな。290スイマとかどうだ」
「睡魔……? ううん、いまいちかな……」
「そうか。じゃあ候補をどんどんあげていこう。お前も考えろ」
「そうだな……。ヒツジなんてどうだろう」
「それだ! 290ヒツジ! 最高だ!」
「そ、そうかな」
「こんな極限状態で的確なアイデアをすぐに出す。尊敬するよ」
「よせよ……ほめすぎだよ」
「いや。こいつは自分の才能をうまく使えば確実に大物になると、実は前からそう思ってたんだ」
「お前はほんと、人をおだてるのがうまいな」
「おだててなんていないさ。だけどそれは無事に下山できればの話だ」
「そうだな。明日まで耐えればきっとなんとかなる。おかげで少し目がさえて、今は473ヒツジだ。もっと話そう」
「よし、その意気だ。さっきの話の続きだけど、徹夜明けが100ヒツジだと、つまらない映画を見た時は80ヒツジくらいだよな」
「ううん。俺はもっと上、徹夜明けよりむしろ大きいな。142ヒツジ」
「それは大きすぎだろ」
「そんなもんだと思うけど。つまらなければ実際寝るし」
「まあ映画にもよるからな。あ、俺酒飲んだら75ヒツジ」
「酒では眠くならないなあ。多少はなるのかもしれないけど、せいぜい3ヒツジ、いやもっと下かも」
「もっと上じゃないか? 3じゃむしろ目がさえてる状態だよ」
「それもそうか。じゃあ4ヒツジか5ヒツジくらい」
「いや、6ヒツジとか7ヒツジ……8ヒツジ……」
「9ヒツ……」
「…………」
 ゴオオオオオオオオオオオ
 ちょいとさかのぼって元禄の世、お上は犬公方綱吉様、おれのじいさんはその時代、旅から旅する絵師だった。名前は今じゃあ残っちゃいない、時太と言っても知らんだろ。けれどもその絵、じいさんの絵は、どんな絵師でもかなわねえ、誰にも描けない絵だったのさ。
 今じゃあ誰も知らないが、その頃浮絵師時太と言やあ、知る人ぞ知る名前だった。浮世絵じゃあねえ、浮絵でいいんだ、時太、じいさんにしか描けなかった絵、それを浮絵といったのさ。まあ聞きなよ。

 ある日時太は峠の茶屋で、店のばばあに引き止められた。
「お客さん、山越えするなら明日にしなよ。あの山にはねえ、出るんだよ」
「なんだ出るって、幽霊かい」
「もっとひどいものさ、化け物だよ。食い殺された旅の人が、何人いるかわかりゃしない」
「はっはっ、そりゃぜひお目にかからんといかんなあ」
「ちょっ、ちょっ、お客さん待ちなって、ねえ、おい、ちぇっなんだい勝手にしなよー」
 袖をつかんだばばあの手、振り払って山に入る。あたりはしだいに暗くなり、それと同時になにやらざわざわ、草木の揺れるのとは違う、人の群れがささやきあう音、時太はあたりをぐるりと見回し、
「おい出てこいよ、食うんだろ」
 とたんに静まり返る山道、風もないのに土煙があがる。その土煙が形を取って、たちまち現れた化け物は、身の丈八尺をゆうに越え、肉がどろどろ溶け続け、穴という穴から湯気噴き出して、子供の頭ほどもある目ん玉、体のあちこちにつけている、その目ん玉がいっせいに、こっちをぎろりとにらむんだ。
 おそろしいなんてもんじゃねえ、きっとおれなら腰抜かし、座りしょんべんもらしてる。けれど時太はそうじゃねえ、落ち着きはらって懐から、とりいだしたるは反古の束。腰にさしたる二本の筒、蓋を開ければ筆と墨汁、時太は筆に墨つけて、化け物見ながら反古を広げる。まるで化け物の姿形を、描き留めようとするかのようだ。
 化け物は時太に襲いかかった。ごぼごぼ汚え音をたて、でっけえ腕が飛んでくる、時太はそれをよけながら、すげえ早さで筆動して、たちまち反古は一枚の絵、けれどもそれは化け物の絵じゃねえ、実に立派な龍の絵だった。反古に描かれたその龍が、なんと宙に躍り上がり、化け物めがけて飛んでいく、あんなおそろしい化け物だったが、とても勝負になりゃしねえ、あっというまにその龍に、ずたずたに引き裂かれちまった。

 見てきたようなことを、と思ったろう。その通り、おれはほんとに見たんだよ。もちろんその場にいたわけじゃあねえ、けれどはっきり見たんだよ、10年前に、夢の中でさ。おや、なあんだってなツラをしたね、けれどこれは、ただの夢の話じゃねえんだ、まあ聞きなよ。

 おれはその夢見る前にも、時太のことは知っていた。親父がひどく自慢げに、しょっちゅう話していたからだ。おれにとってはうるさいばかり、あまりのうまさに絵が飛び出す、そんな与太なぞ信じるもんか。ただ時太というじいさんが、凄腕の絵師だったってこと、そこだけはまあ信じてたんだ。なぜならおれの親父も絵師で、その師匠がよく言ってたのさ、「こんな絵しか描けないのか、時太が見たら泣くぞ」ってね。
 へぼ絵師だったくせに親父は、おれにも絵師の道を望んでた。子に望む職じゃねえだろう、おれはそんなふうに怒ったが、本当は絵師になりたかった。けれど自分でわかってた、おれにはそんな才はねえ。他の道に行こうとするのを、親父が絵師はどうだと言う、腹を立て、揺れ動き、そんな時にあの夢を見たんだ。

 今でもはっきり思い出せる、あの化け物の姿形、でっかい目の一つ一つ、まつげや目やにまで覚えてる。むろん時太の描いた龍、身をくねらせて空を踊る、光り輝くあの姿、あの鱗の一枚一枚、全部そのまま覚えてる。
 夢から覚めておれはまず、親父の話は本当だった、そんなふうに思ったよ。それからそんな天下の絵師が、わざわざ夢に現れて、この孫に道を示してくれた、そう考えて感激し、よしおれも絵師になろう、まったく固い決心をした。
 その決心がまずかったのか、決心しなくてもそうなってたのか。おれはまず手始めに、さっきの化け物を描こうと思った。なにしろはっきり覚えてるから、うまく描けるに決まっていると、そんなふうに思ったんだな。
 ああ実際うまく描けたさ、あんなにいい絵を描けたのは、生まれて初めての経験だ。やたらな早さで筆が動き、それでも全然追いつかない、おれは夢中で描きつづけ、たちまち一枚描き終わってみれば、おれが描いたとも思えない、あの化け物がそのままに、紙の中におさまっている。あんな感激は初めてで、多分二度と味わえもしない、けれどもそれは凍りついた、紙がぼこりと盛り上がり、肉のどろどろ溶けたのが、床にあふれてきたじゃないか。みるみるうちに現れる、頭、肩、腕、腹、とうとう足が、化け物の絵だった紙を踏みつけた。穴という穴から湯気噴き出して、子供の頭ほどもある目ん玉、体のあちこちにつけている、その目ん玉がいっせいに、こっちをぎろりとにらむんだ。やあおそろしいなんてもんじゃねえ、たちまちおれは腰抜かし、座りしょんべんもらしてた。そんなおれに化け物は、容赦なく腕を振り上げて、おれはようやくはいつくばって、逃げた先には紙と筆、それでようやく思い出す、あの時の龍を描けばいい。
 けれどもあんなせまい部屋、逃げながら描くなぞ無茶もいいとこ、ああ龍の姿はその時も、はっきり思い出せたから、筆の早さだってすごかった、しかし時太のあの早さ、あれに比べれば牛の歩み、半分も描かないうちに鋭い爪で、肩を切られ足を切られ、その場に動けずうずくまる。とどめをさそうと近づく化け物、その間にも筆動かしてはいたものの、どうも間に合いそうもない、駄目かと思ったその時に、やめろと化け物を後ろから、殴りつけたのは親父だった。
「親父」
「なんだこれは、どういうことだ」
「そいつはおれの絵だ、描いたら出てきたんだ」
 おれはそれしか言えなかったが、親父にはわかったようだった。親父は時太の息子だが、絵の才能はさっぱりで、それでも時太にあこがれて、絵を描き続けてきた男、あんな場面でも息子のおれが、そんな絵描くことができたこと、喜んでいるふしさえあった。
「早くそいつを描いちまえ」
 おれが別の絵描いている理由、親父にはそれもわかったらしい。化け物は今度は親父に襲いかかり、この間にとおれはまた、龍の続きにとりかかる。筆はますます早く動き、たちまち描き上がった龍、ばあっと光って紙から飛び出し、化け物めがけて宙を走った。けれどもちょうどそれと同時、化け物は親父を噛み裂いて、噴き出した血、飛び出たはらわた、しかし親父は龍を見て、あれはたしかに笑ってた。
 あとは夢と同じ光景、たちまち化け物は引き裂かれ、あとに残るは美しい龍、どろどろの肉を浴びてもいない。とにかくおれはほっとして、その龍をただながめてた。ところが今度はその龍が、こっちをぎろりとにらむんだ。そしてこちらにやってきて、品定めでもするかのように、おれの全身龍の目で見る、その目が筆を持つ手に止まり、どうやらそこが気にくわなかった、筆ごと指二本食いちぎり、躍り上がって天高く消えた。

 後で親父の師匠に聞いた。師匠も昔化け物に逢い、あやうく命を落とすところ、時太に助けられたらしい。師匠はその頃すでに絵師、けれど時太には度肝を抜かれ、しばらく逗留願ったそうだ。その時時太は子供連れ、その子ってのはおれの親父だ。時太は一月滞在し、旅立つ時にその子供を、師匠に頼んで行ってしまった。
「言っちゃなんだがお前の親父は、あまり絵描きにゃむいてなかった」
 師匠はぽつりと言ったもんだ、そいつはおれも知っていた。あんな親父を見捨てない、師匠はどういうつもりかと、常々不思議に思ってたんだ。
「お前はどうする? その指でも、いつかは描けるようになるかもしれん」
 多分師匠はそう思っちゃいない、時太の恩を忘れかね、おれの面倒も見てくれようと、そういう腹だったに違いない。
 けれどもおれは断った、そんな同情は必要ない、ちぎれた中指人差し指、それでも多分前よりは、ずっといい絵が描けるだろう、一度浮絵を描いたおれには、そんな自信があったんだ。

 指欠けのおれが旅の絵師、続けてるのはそういうわけさ。今までだって聞かれたよ、どういういきさつなのかって。ただあんまりほんとのことは、話す気にはなれなかった。もののわからん連中が、信じてくれるはずもない。けれどもわかってくれそうな、あんたみたいな人に会えば、たまにはこうして話してもみる。いまだ時太にとうてい及ばぬ、未熟者のおれではあるが、そんじょそこらの絵師どもには、負けない絵を描いてるつもりだ。どうだね、二三枚記念に買ってくかい。

 よう太っ腹、まいどあり。
「まさかお前が寿司職人選手権の本選まで残るとはな」
「はい。自分でも驚いてしまって」
「驚いたのはこっちさ。だが本選に残ったことより、お前の寿司のうまさの方にもっと驚いた。腕を上げたな」
「川崎さん……」
「いいか、忘れるなよ。大切なのは味だ。今のお前なら、うまいものを食べてもらいたいという気持ちで握れば必ずうまい寿司ができる」
「はい」
「握り方を見る審査員もいる。だがアピールしようとするな。握る手をよく見せようなんて思えば必ずいつもと違う味になる。わかるな、絶対てだとうとするな」
「はい!」
(てだとうとするな)
(てだとうとするな)
(てだとうとするな)
(てだつって何だ?)
(言いたいことはなんとなくわかったけど)
(手を目立たせようとするなと言いたかったっぽい)
(てだつなんて言葉があるのか)
(それとも川崎さんの造語か)
(あるいは間違えてうっかり言ってしまったとか)
(聞いてみるか)
(なんか今さら聞きにくい)
(はい! とか返事しちまったしなあ)
(その場で指摘すべきだった)
(いやちょっと待てバカ)
(何考えてるんだ、そんなことどうでもいいじゃないか)
(寿司のことを考えろ)
(そうだ、寿司のことに集中して)
「おい、何をぼんやりしてるんだ」
「あ、いえ、すみません」
「しっかりしろよ。何かてだつことはないか」
「いえ……」
(てだつことはないか)
(てだつことはないか)
(てだつことはないか)
(手伝うって言いたかったんだよな?)
(これはどう考えても間違いだ)
(いやわざとかも)
(今度は聞いてもいいはず)
(むしろ聞くべき)
(聞かないと)
(聞くぞ)
「川崎さん!」
「なんだ」
「あ、あの……」
「どうした。言ってみろ」
「……僕1人でやれます。てだち無用です」
「そうか。その威勢があれば大丈夫だ。しっかりやれよ」
「はい!」
(だめだ)
(思いついたからつい言っちまった)
(もう聞けない)
(くそ)
「……おい。ちょっと、聞いてくれるか……。俺の、最後の説教だ」
「な。なんだよ。最後だなんて。そんな縁起でもないこと言うなら何も聞かないぜ」
「は、ははは。は。まったく……お前は孝行息子だな。最後の、最後まで……」
「またそういうことを言う。やめろよ! たいした病気でもないのに弱気になりすぎだ」
「なあ……。お前はいつでも俺の言うことを聞いて、俺の期待に応えてくれたじゃないか。だったら今度も、ちゃんと俺の言うこと……聞いてくれても、いいんじゃないのか」
「……。ま、それじゃ聞くだけは聞く。言えよ」
「ああ。……俺が死んだらな」
「おい」
「まあ聞けよ。俺が死んだらな、お前には数々の困難が、立ちはだかってくるだろう。だが……負けるなよ。堂々と、それに立ち向かえ」
「あ、ああ」
「むしろ、その困難を楽しむんだ……。自分の知らなかった新しい世界を、見た、喜びを、ゴホ。ゴホ」
「わかった。わかったよ。もうしゃべるな」
「……お嬢様だ」
「あ?」
「世間知らずのお嬢様が、初めて庶民の生活を見た時の、あの気持ちになれ。どんな苦難もすべて、このような体験、初めてです、と目を輝かせる、あれだ……。いいか。お嬢様になれ。それが俺がお前に望む、最後の、ゴホ、ゲホン」
「おい、親父」
「わかった……な……お嬢様……だ」
「親父」
「…………」
「……おい、嘘だろ」
「…………」
「……お……」
「…………」
「お父様あああ!」

「おいたわしや。旦那様さえご存命なら、お嬢様がこの屋敷からお出になるようなこともなく……ウッウッ」
「じいや……。泣かないで。わたくし、嬉しいのですから」
「う、嬉しい、ですと?」
「お父様が亡くなったのはもちろん悲しいけれど、今まで憧れてきた外の世界、これから色々見たり聞いたりさわったりできるのよ。ほんとうに、ずっと憧れ続けてきたのですもの」
「お嬢様」
「では、行くわ。体に気をつけてね」
「お嬢様……。どうか……どうか、ご無事で! ……ああ、とうとう行ってしまわれた」
「心配するなよ、じいやさん」
「あ、あんたはボディーガードの。まだこの屋敷にいたのか」
「俺にだって、あのお嬢さんを見送りたい気持ちくらいあるさ。大丈夫。あの方は生まれついての貴婦人だ。危害を加えようとする者などいやしないよ」
「そうだといいが」
「もともとは誘拐目的であの方に近づいた俺の言葉を信用しないのかい」
「ははは、そうじゃったなあ……」

 不安も多いけれど、世界の大きさに目がくらむこともあるけれど、閉じられた邸宅の中から見ていたのと同じ空が、今大地を歩む自分の上に広がっている。
「どこにでもゆけるのだわ」
 それは彼女の心に、はちきれそうな喜びをもたらすのでした。
「かきねのかきねのまがりかど」
「たきびだたきびだおちばたき」
「あたろうか?」
「あたろうよ」

「ふざけんなこのたき火!」
「とっとと消せ!」
 ザバー
「な、何をす……ぐわっ」
「うるせえ! 心の寒さはたき火じゃ暖まらないんだよ!」
「ああむしゃくしゃする!」
「やつあたり!?」

 あたろうか
 あたろうよ
 きたかぜぴーぷーふいている