「……先生」
「なんだい」
「ぼく、あとどれくらい生きられるの」
「何を言ってるんだ。いくらだって生きられるよ」
「嘘だ。ぼくの病気、治す方法ないんでしょ」
「困るなあ。治そうと思わないと、治るものも治らなくなってしまうよ」
「もう、手も足もちょっとしか動かない。こんなに固くなったし、色も変わった。葉っぱもこんなに生えてきたよ」
「たしかに、君の病気はとても珍しい。けどね」
「眠ってる時間も増えた。ほんとに木になっちゃうまでもうあとちょっとだ」
「…………」
「治るなんて嘘ばっかり。そんなのもう聞きたくないよ」
「……大地くん」
「…………」
「正直に言おう。君の病気を治す方法は、今のところ見つかっていない」
「……だったら、初めからそう言えばいいんだ」
「でも、希望を捨てちゃいけない。今は見つからなくても、いつかきっと見つかる」
「いつかじゃ間に合わないよ。もうぼく、木になっちゃうんだから」
「木になったって、死ぬわけじゃない。元に戻す方法が見つかるはずだ」
「……本当?」
「ああ、本当だとも」
「……やっぱり嘘だ」
「なんだ。信じてくれないのかい」
「だって、木になったのが人間に戻るなんて、信じられないよ。先生は適当なこと言ってなぐさめてるだけだ」
「そんなんじゃない。大地くん、君は」
「もういいよ。ぼくは木になるんだ。そんなのはまさに、きやすめなんだ」

「……先生」
「なんですか」
「わたしは、あとどれくらい生きられますか」
「何を言ってるんですか。まだまだいくらだって生きられますよ」
「隠さないでください。自分の体です、もう長くないことはわかっています」
「困りますね。治そうと思わないと、治るものも治らなくなってしまいますよ」
「先生、わたしが死んだ後のことなんですが」
「またそのお話ですか……。法律も絡んできますし、私が決められることでは」
 ガチャ
「おじいちゃん。お見舞いに来たよ」
「おお、ハヤトか。ああすみません、先生」
「いえ。それじゃ」
「さきほどの話については、ぜひ」
「…………」
 バタン
「さきほどの話って何、おじいちゃん」
「ああ、それは……。そうだな、お前にも関係ある話だった」
「?」
「ハヤト。おじいちゃんの昔のことは、前に話したっけね」
「昔……。病気で木になったって話?」
「そう。わしは木になっていたが、50年たって治す方法が見つかり、元に戻った」
「うん、聞いたよ」
「あの時話さなかったことがある。実はな……わしは、病気で木になったのと同じ木ではなかったんだよ」
「……?」
「その木は、枯れてしまったんだ。色々実験したみたいだから、そのせいかもしれないね」
「だって……でも、おじいちゃんは」
「挿し木というのを知っているかい」
「ううん、知らない」
「木の新しい芽のところを切って、土に挿すんだ。そうすると同じ木が生えてくる」
「……それじゃ」
「そうなんだよ。花も咲かなかったし実もならなかったが、その木はそんなふうにして何本かに増やされた。枯れてしまった時のための予備だったのだが、実際枯れたので役に立った。わしはそのうちの一本だったんだ」
「じゃ、他にもいるの、木から元に戻った人」
「いや、戻ったのはわし1人だ。他の木は、今も木のままだ。治療すれば、元に戻るのだろうが……」
「どうして? なんで治療しないの?」
「だめなんだよ。わしは元の木ではないが、ちゃんと子供の頃の思い出を持っている。他の木も治せばきっとそうなるだろう。同じ姿で同じ思い出を持ったわしが、何人にも増えてしまうのだよ」
「でも……」
「ああ。わしもいつもそれを考えた。自分だけが治って、他の木は治せるのに治さない。なんだか悪いことをしているように思えた」
「おじいちゃんは悪くないよ」
「ありがとうよ。……実はな、わしはぜひにと頼んで、その木のうちの1本をもらったんだ。今も家の庭に生えている」
「えっ、どの木?」
「小さな木だ。お前と同じくらいの身長でね、それ以上には大きくならない。枝に赤い布を巻いておいたから、今度見てみるといい」
「ああ、あの木。ぼく知ってるよ」
「つらいことがあるとよくあの木に、お前ならどうする、なんて話しかけたもんだ。何もしなくていい木の身分が、うらやましいと思うこともあった。だが、わしが治ったばかりにこいつは、と思うと、こいつの分までしっかり生きなくてはとも思った。色々なことを思いながら、わしはずっとあの木とともに生きてきたのだよ」
「…………」
「ハヤト。ひとつ、頼みたいことがある」
「なに?」
「わしはもう長くはない。そろそろ死ぬだろう」
「えっ、そんなの」
「まあ聞け。わしはいろんな人に、わしが死んだら例の木のうちの1本を治してほしいと頼んである。わしがいなければ、同じ人間が2人ということにはならないわけだからな」
「…………」
「もしもそれが実現すれば、木でいる間は年をとらないから、子供として治るだろう。お前と同じくらいの年だ」
「ぼくに頼みたいことって?」
「ああ。そいつのな、友達になってやってほしいんだ」
「友達……」
「わしが子供だったら、お前のような子を友達に持ちたいからな……。どうだ。なってくれるか」
「うん。なるよ。約束する」
「そうか、ありがとう。これであいつらにも、少し埋め合わせができる」
「おじいちゃんは悪くないよ」
「ありがとうよ。だが、あの木を見るたびに心が痛んだ。まさに、きがとがめていたわけだ」

「ハヤト、お葬式が始まるわよ。何してるの」
「お母さん。この木のこと、知ってる?」
「あら……それは」
「これ、おじいちゃんの木なんだ。治療をすれば、人間の姿に戻るんだよ。ぼくと同じくらいの年なんだって」
「おじいちゃんに聞いたの?」
「うん。おじいちゃんが死んだら、木のどれかが治療してもらえるかもしれないって言ってた」
「そんなことまで」
「ぼく、おじいちゃんと約束したんだ。おじいちゃんの木のどれかが治ったら、友達になるって。できればこの木がいいなあ」
「ハヤト……」
「この木だったら前から知ってるもん。まさに、きごころの知れた友達なんだ」
「なあ。僕の気持ち、わかってくれてるだろう? 愛してるんだ、君のこと」
「…………」
「どうして何も言ってくれないんだ。僕のこと嫌いならはっきり言ってくれよ」
「…………」
「あ、ゼスチャー? ゼスチャークイズ?」
「…………」
「風呂……あたたかい? あ、いい湯加減! で、湯を捨てる? いい加減。大きな荷物……荷物。荷? いい加減、に。マスク? 白い。白。いい加減に、しろ」
「…………」
「ごめん……僕のこと、そんなに迷惑に思ってたなんて」
「…………」
「さよなら」

「あれ。どうしたの、そのマスク。花粉症だっけ」
「…………」
「声出ないの? 風邪?」
「…………」
「あ、ゼスチャー? ゼスチャークイズ?」
「…………」
「風呂……風呂でリラックス……じゃない、風呂で寝ちゃった。お湯を捨てる……お湯が少ない。大きな荷物……じゃない、太った人? ああ、太った人が先に入ったからお湯が減ってた。その風呂で寝ちゃったから、風邪ひいた。ふーん」
「…………」
「うん、ちゃんと伝わったよ。え、何。なんで握手求めてくるのよ」
 どよどよ
 ざわざわざわ
「国民の皆様。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。歴史的な発表があった昨日は、呆然とする者あり、泣きわめく者あり、国を揺るがす騒動になりましたが、一夜明けた今日、皆様も多少は落ち着きを取り戻されたでしょうか」
 どよどよ
 ざわざわざわ
 すすり泣きの声
「やはり、衝撃は大きいと痛感します。無理もありません。我が国を統べる女王、巫女の中の巫女、地の果てまでを照らす光であられるユギ様の、突然の引退発表。今後の国の行方についての心配もおありでしょう。実は本日は、女王じきじきにこの件についてお話しくださることになっております」
 ざわ
「じょ、女王が?」
「嘘だろ、そんな」
「それではご登場ください、我が国の女王、ユギ様です!」
 占い用の亀の甲羅を手に、ゆっくりと現れる女王
「女王だ!」
「女王様ああ!」
「やめないでー!」
 笑顔で手を振る女王
 ワアアア
 キャーキャー
「いや、これは……わたくしの声などかき消されてしまいそうな状態です。いかがでしょう、ユギ様。今、国民の生の声をお聞きになり、引退を撤回する気にはなっていただけないでしょうか」
「いいえ、もう決めたことですから」
「女王の力、いまだ衰えずという見方が一般的ですが」
「いいえ、気づいている者はもう気づいているでしょう。私は衰えました。衰えていないように見えたとしたら、それは長年の経験によってつちかわれた実務能力でカバーしていたからにすぎません。必要なのは私ではなく、巫女としての力を持った女王なのです」
「引退を決意されたきっかけは何だったのでしょう」
「ご承知の通り、先日隣国のコワナ国が攻めてきました。しかし私はそれを察知するのが数刻遅れ、出してはならない犠牲を出してしまいました」
「いや、しかしあの時は。奇襲だったにも関わらず、女王の占いによってそれを未然に察知できたのではありませんでしたか」
「本来ならば、もっと早く察知しなければならないところだったのです。それができなかった……」
 ざわざわざわ
「女王のせいじゃないよー!」
「そうだよー!」
「やめないでー!」
 笑顔で手を振る女王
 ワアアア
 キャーキャー
「ご決心は固いのでしょうか」
「はい。迷いもありましたが、今はすがすがしい気持ちです。後継者候補は全員、いずれは私を超えるであろう才能の持ち主ばかりですから」
「引退したらまず何をなさりたいですか」
「そうですね……フフ、色々と節制をしてきたので、まずはおいしいものをおなかいっぱい食べたいわ」
 群衆から笑い声があがり、空気がほぐれる
「後継者はすでにお決めになっているのでしょうか」
「いいえ。今日、この場で決めたいと思います。国民のみなさんとともに」
「それはどういう意味でしょう」
「後継者候補は4人。この場に全員呼んであります。これから候補者には1人ずつ国民のみなさんに、自分の巫女としての力をアピールをしてもらいます」
「では、これからこの場で新しい女王が決まるのですか」
「そうです」
 ざわざわざわ
「こ、これは大変なことになりました。まさか全国民の前で新しい女王が決まるとは」
「多くの人々の前でも実力を発揮できる者でなければ、女王はつとまりません。審査員には各分野の大臣、そして今ちょうどいらしている、コワナ国の和睦の使者の方にもお願いしました」
「いやあ審査員も実に豪華、この国の行方を決めるにふさわしいですね」
「そうですね。それではさっそく、一番手の方からアピールしていただきましょう」
 ワーワーワー
「さあいよいよ始まりました、まずはエントリーナンバー1、クバさん。しずしずと登場して……おや、様子がおかしい。苦しみ始めました。不測の事態でしょうか」
「そうではありません。ほら」
「あっ。た、倒れた。いや、また起きあがりました。おお、顔も声も別人のようになっています! ユギ様、これは?」
「神懸かりですね。自分の体に神を乗り移らせるのです」
「それはすごい。……おお! 神が今年の豊作を約束してくれました! 場内が喜びの声で満ちています!」
「ううん、少々信憑性に欠けますが……。しかし、国民の心をがっちりとつかみましたね。いいアピールです」
「続いてエントリーナンバー2、カラさんです。おや、舞いですか?」
「そうですね。しかし、もちろんただの舞いではないようです」
「おお……何か、舞いに引き込まれるような妖しい感覚を覚えますが」
「ええ、なかなか巧みですね。体の動き、ステップなど、見る者を軽い催眠状態にする効果のある舞いです。女王という立場にはカリスマ性も必要ですし、そういう意味では実にいいアピールになるのではないでしょうか」
「なるほど……いやあ、思わず見入ってしまいました。アピールタイムが終わるのが惜しい。客席からもアンコールの声」
「見応えがありましたね」
「続いてエントリーナンバー3、イナさんです。おや、天を仰いで、祈りをささげているようですが、あれは?」
「雨乞いですね。ううん、しかしここで雨乞いとは……」
「何か問題があるのでしょうか」
「空を見てください。雲一つない。雨乞いは巫女の力も必要ですが、やはり天候にも左右されます」
「なるほど」
「しかも今回は時間制限もあり、これだけの大人数の前だと集中も難しい。不利な題材を選んだな、という感じですね」
「ははあ……おや」
 ポツ ポツ
「降りました! 降ってきました! それほどの量ではありませんが、いやあすごい! 女王候補の実力を見せつけられた気がします!」
「やってくれますねえ。ふふ」
「続いてエントリーナンバー4、フヨウさん。最後の方ですね。おや、壇上に火をたいて……呪文を唱え始めました」
「う、あの呪文は」
「何なのでしょう。こう言ってはなんですが、どこかまがまがしい感じがしますね」
「あれは強大な力を持つ呪文ですよ。一歩間違えれば大変なことになります」
「といいますと」
「あれを使うと、何かは予想できませんが、なんらかの天変地異が起こるのです。民はおびえ、女王の力に心服する。国の統治に効果絶大ですが、まさかここで使うとは」
「そんな恐ろしい呪文が、あ、あれは!」
 ヒュー
 ドドーン
「なんと! 少し離れたところに火の玉が落ちました! ユギ様、あれは!」
「星が落ちたようですね。会場に落ちなくて助かりました」
「場内騒然としています! 巫女の力のすさまじさを改めて思い知った国民!」
「インパクトの点では随一でしたね」
 わあわあわあわあ
「さあ、まだ興奮さめやらぬ場内ですが、これで全員のアピールが終わりました。いよいよこれから新女王が決定するわけですか」
「はい。審査員の先生方の協議、そして私の占いによって決定します」
「えっ。では女王の占いをこの場で拝見できるのですか」
「ええ、この場で行います。そのためにこの甲羅を持参したのです」
 ワアアア
「おお、まさかこの目で女王の占いを拝見できるとは! 感激です。今日はなんという日でしょう」
「ふふ、占いなんかよりもう少し面白いものも見れるかもしれませんよ」
「そ、それはどういう……あ、今協議が終わったようです」
 審査員の1人が女王に耳打ち、少しほほえんでうなずく女王
「では、候補者4人はここに並んでください。これで決定します」
 亀の甲羅が火にくべられる
「いよいよ女王の占いが始まりました。実に神々しい、胸に迫ります。衰えたなどと、とても信じられないお姿、占いより面白いものを見せるという、さきほどの発言も気にかかります。一体どういう意味なのか……おやっ。女王、立ち上がり、火から離れました。そしてかなたの空、いや、太陽をごらんになっているようです。これは一体……」
 太陽に向かって手をさしのべる女王
「消えよ」
 声とともに欠け始める太陽、みるみるうちにあたりは暗くなる
「うわああああ」
「女王が太陽を消したああ」
「ひいいい」
 大騒ぎの場内
「こ、これは! なんということでしょう、女王の命によって太陽が姿を消し始めました! 恐ろしい! 実に恐ろしい! これでも! これでも力が衰えたというのでしょうか! 偉大なる女王! 我らの女王!」
 手を下ろし、再び甲羅をくべる火の前に座る女王
 それを見て静まる場内、闇の中に女王の祈りの声だけが響く
 カッと目を見開く女王
「次期女王は……」
 バリーン
 音を立てて割れる甲羅
 同時に現れた太陽の光が、壇上の候補者の1人を照らす
「エントリーナンバー3! イナ!」
 大歓声
 驚いた顔で周囲を見回すイナ
 笑顔で拍手を送る他の候補者たち
「おめでとうございます! あなたが次期女王に決定しました!」
「ほ、本当ですか……信じられない……」
「審査員の先生方、コメントをお願いします」
「ええ、イナさんには実に、フレッシュな魅力がありましたね。天に祈る表情にもぞくっとくるものがあった。まさしく天に通じる魅力だったと思うな」
「抑えた演技の中に光るものがあった」
「難しいテーマにあえて挑戦し、それをこなしたところを買いました」
「他の候補者の方と比べて少々地味なアピールながら、もっとも民のためになるテーマを選んだところに、女王としての資質を感じた」
 ワーワー
 パチパチパチ
 土偶に金印と銅鏡をあしらったトロフィーを手に歩み寄る女王
「おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「ほら、もっと堂々としないと。みんな見てるわよ」
「す、すみません。まさか私だなんて思ってなくて……それに、女王にお声をかけていただけるなんて」
「今はもう、あなたが女王よ。わたくしはあなたに仕える国民の1人でございます」
「そんな」
「いけません、そんなことでは。わたくしに対しても、女王としての威厳をもって接してくださいませ」
「は、はい。では……ユギ。元女王として、これからも私を助けておくれ」
「調子のんなよ」
「えーっ!」
 群衆から笑い声があがり、空気がほぐれる
「ははは、いやさすがにユギ様は手厳しい。イナさん、この喜びを誰に伝えたいですか」
「あ、ええと、修行の時にはげましてくれた友達に」
「これからはその友達とも一線を画す立場になるけど、その友達のためにもがんばってね」
「はい! せいいっぱいがんばります!」
 トロフィー授与
 盛り上がる場内
「皆様、空をごらんください。太陽はいまや完全に姿を現しました。紡がれる歴史、しかし栄光はいつまでも限りなく。新しい太陽が照らすこの国に、今、新しい女王が誕生したのです!」
 ワアアアアア
「女王!」
「女王!」
「女王様ー!」
「女王ばんざーい!」
 笑顔で手を振る新女王
 ワアアア
 キャーキャー
 ハシがうまく持てない。そのことで長い間苦しんでいる。

 自分のハシの持ち方はおかしい。いつの頃からか、それがひどく気になるようになった。食事をしていると、人の手元にばかり目がいく。比べて自分のハシの持ち方を見る。やはりおかしい。恥ずかしくてならない。
 しだいに人と食事をするのをさけるようになった。誰とも疎遠になってゆくが、やむをえないことのように思えた。
 何度も何度も練習したが、どうしても持てない。必ず中指が変な位置にある。なぜこんなことになるのかわからない。くやしくて悲しくて泣けてくる。

 夢にまで見る。教室で何かのテストを受けている。難しいテストだ。全然わからない。時間がなくなってゆく。あせる。人の答案をのぞこうと考える。そっと横を向くと、隣の生徒が正しい持ち方でハシを持っていた。
 わあと叫んで目が覚めて、みじめな気持ちでしくしく泣いた。

 外で食事をしないようにすると、家にいる時間が多くなる。よくテレビを見る。好きな番組はそんなにないが、なんとなく消す気にもなれなかった。
「いや、犯人は陽子さんではありません」
 探偵役が謎解きを始めていた。もうドラマも終わりに近い。
「……つまり犯人は、あの時間に庭に行った人物」
「まさか」
「そうです。木下さん、あなただ」
「……はは。何を言ってるんですか」
 名指しされた男がひきつった笑いを浮かべながら、正しくハシを持っていた。
 わあと叫んで目が覚めて、みじめな気持ちでしくしく泣いた。
「日本の河村、はたしてゴールテープを切れるのか、あと300メートル」
 マラソンの最後のトラックで競り合いになっていた。
「これはいける河村、30メートル、20、10、やりました日本の河村!」
 ランナーが両手をあげてゴールテープを切りながら、正しくハシを持っていた。
 わあと叫んで目が覚めた。泣いた。
「だから日本の経済というものはね」
「あんたいいかげんにしろよ!」
 怒鳴りながら机を叩いた評論家が、もう片方の手で正しくハシを持っていた。
 わあと叫んだ。泣いた。
「アウト! 優勝決定ー!」
 監督を胴上げする選手たちの手に正しい持ち方のハシ。
「殿! 一大事でござりまする」
 駆けつけた家老の手に正しい持ち方のハシ。
「天気予報です。関東地方は」
 天気図を指す正しい持ち方のハシ。

 寝不足になった。それに他人の手を見るのが怖い。地面を見ながらふらふら歩いていたら、人とぶつかってしまった。
 すみませんと小声で言って立ち去ろうとしたが、相手はその態度が気に入らなかったらしい。無言で襟首をつかんで引き戻された。

 我に返った時にはもう何発も殴られていた。こんなのは初めてだ。死ぬんじゃないかと思った。
 けれども、この殴ってくる手は固く閉じられた拳で、そのことに少し安心した。安心が力を与えてくれた。
「おっ」
 反撃されるとは思っていなかったらしい。相手は驚いたようだった。そのすきに無我夢中で殴ったり蹴ったりした。何発か当たった。その5倍くらい殴られた。

 しばらくそんなことを続けて、相手は馬鹿馬鹿しくなったようだった。
「やめよう」
 血が出ている口元を袖で拭いながら言った。
 それを聞いたとたん、力が抜けた。後ろの壁によりかかった。
「悪かったな。立てるか?」
 苦笑しながら差し出された手に、正しい持ち方のハシがあった。
 わあと叫んで目が覚めた。ものすごく泣いた。
 チリリン

「ちょっとちょっと」
「はい」
「自転車。ライトついてないよ」
「あ。すみません」
「ええと、防犯ナンバーのチェックさせてもらえるかな。名前は?」
「山根太一です」
「山根さんね。じゃ、ちょっと電話して確かめますから」
「はい」
「もしもし。あのね、防犯ナンバーの確認を、はい。番号は……うん……ええっ! で、では、このお方が……!?」
「?」
「ああ、わかった……うん、大丈夫だ。ちゃんと伝える」
 プツ
「勇者よ!」
「……は?」
「我々は、あなたを長い間待ち続けていました!」
「え、あの」
「受け継がれてきた伝説のナンバー、そのナンバーのついた自転車に乗れるのは、勇者よ、大魔王を倒し、この世を闇から救うことができるあなただけです!」
「ぼ、僕が……勇者?」

 チリリン

「フ、フハハハ……勇者よ……よくぞこのわしを倒した……。だがわしは滅びぬ。いずれまたよみがえり、その時こそ世界を我がものにすることになろう……」
「その時は、また新たな勇者が現れ、お前を倒すだろう」
「そううまくゆくかな……フ、フ、ハハ……ぐふっ」

 チリリン

「ちょっとちょっと」
「はい」
「自転車。ライトついてないよ」
「あ、すみません」
「ええと、防犯ナンバーのチェックさせてもらえるかな。名前は?」
「山根太一です」
「山根さんね。じゃ、ちょっと電話して……おいおい、それナンバー読めなくなっちゃってるじゃないの」
「え……あ、さっき魔王の攻撃で焼かれて……」
「困るなあ。どこで買ったの?」
「ええと、駅前の……」
「駅前の?」
「…………」
「駅前のどこ?」
「……いえ、このままでいいんです。ナンバーはないままで」
「は?」
「いつの日か魔王がよみがえれば、あのナンバーもまた必ずよみがえる……」

 だからせめてそれまでは
 静かに眠らせてやろう
 いつか始まる新たな戦い
 新たな勇者とともにお前は
 また戦わなければならないのだから

「ちょっと来なさい」

 チリリン
 ある日判明する、人類という種族の寿命

「では10年後に、人類が滅亡すると言うんですか!」
「そうだ。年齢や健康状態は関係ない。すべての人間が10年後のこの日、死亡するんだ!」
「そんな……」

 打つ手はない

「全世界の皆さんに、重要なお知らせがあります」

 公式に発表される、滅亡へのカウントダウン

「いやだ、死にたくない」
「せいせいするぜ」
「今までつらくあたって悪かった」
「こっちこそ」
「ちくしょう、どうせ死ぬなら」
「やめろ!」
「残念だ、人類滅亡まで生きていたかった」

 生まれる様々な人間ドラマ

「あー」
「ふーやれやれ」

 そしてこんな状況でも訪れる、3年目の中だるみ期間

「ひまだー」
「なんか面白いことない?」

 人類滅亡まであと7年
 訪ねると尋ねるは同じたずねるですが、何か「を」たずねると言えば訪ねるで、何か「に」たずねると言えば尋ねるですから、間違うことはないはずなのです。

 その女は娘を探しているのだと語った。いなくなってもう10年経つが、心の中の娘はいまだに幼いままだと言った。
「明日は天気になるかしら」
「お空にたずねてみなさいな」
「うん」
 うなずいた娘は家を出て、それきり帰らないという。
「娘はそちらにいるのですか」
 何度も空に尋ねるが、間違えて訪ねることがどうしてもできないと、女は妙に屈託のない顔で笑うのだった。
「緑だ。ああ、緑だ」
 男はただ岩ばかりが転がる乾いた大地を歩いていた。はるか前方に森が広がっているのが見える。くっきりと線を引いたように、そこからは木々がおいしげっているのだった。
「緑だ。ああ、緑だ」
 ただひたすらに真っ青な空。乾いた真っ赤な大地。真っ黄色の服を着た男はよろめきながら進んだ。
 彼女は彼が好きでしたけれど、彼は彼女のことが好きではないだろうと思うので、がまんしてあまりそばによらないようにしていました。だからいつでも彼女と彼は、さよならと一言言えば、もう二度と会わなくなるくらいの距離で、彼女はさよならと同じ意味の言葉を、うっかり自分が口にするのではないかと、おそれて無口になっていたのでした。

 今日は彼に会えたので、彼女は帰り道を幸せに歩いていたのですが、思い返せばやっぱり自分はびくびくしすぎていて、あれでは会ってもしかたがないような気がしてくるのでした。いっそ二度と会わないから今日だけ恋人になって、とか言ってみたらどうだろう、一日だけなら承知してくれるかも、そしてその1日はかけがえのない思い出となってこれから先の人生に、などと考えて、あまりにくだらないのでなんとなく「ばか」と口に出してみたら、それが何かのドラマで見た、ヒロインの声にそっくりで、彼女はあわてて、その呼吸を忘れないうちにと「ばか」「ばか」繰り返してみたのですが、もうその声は最初と違い、ヒロインとは似ても似つかぬものだったので、彼女はがっかりして、けれどなぜかその時、彼と二度と会えなくなっても、多分平気だなあと思ったのでした。
 ただいまと言っておかえりという返事があれば、そこは自分の場所になる。

 あの飲み会はあまり居心地が良くなかった。だからとりあえずどんどん飲んでしまった。気分が悪くなり、居酒屋のトイレで吐きながら、テーブルに戻りたくないなと思った。吐いて少しすっきりしたせいもあり、なんとなくほっとして便器の穴に向かって言った。
「ただいま」
「おかえり」
 返事があった。正確にはゴボボボだったけど、あれはおかえりに違いない。そのタイミングで音があった。ただいまに対する返事は他にはないはずだ。

「行ってきます」
 返事はなかった。でも自分の場所になったここのことは、ずっと忘れない。