必ず帰ってくるよと言って戦場に旅立った夫が、骨になって帰ってきた。妻はそれから口をきかず、夫の骨を削って笛を作った。妻がその笛を吹くと、笛からは人の心を沸き立たせる、勇ましい曲が奏でられた。
 戦争の最中も、戦争が終わっても、人々は妻の笛を聴きたがった。その笛は前に進む勇気を与えてくれるように思えた。
 妻は富と名声を得て、口をきかないまま年老い、いよいよ死ぬことになった。妻に仕えていた召使いは、妻が笛を吹き始めた経緯を知っていて、妻が笛を吹き続けることを時に痛ましく思っていた。
「本当はつらかったのではありませんか」
 召使いは思わずそう聞いた。妻は笑って、何十年ぶりかで口をきいた。
「笛は笛です」
 そして死んだ。
 一度だけ聞いたその声はとてもきれいだったと、召使いは折にふれて思い出して泣いた。
「見たまえ、世紀の大発明だ」
「また始まった」
「ついに馬鹿につける薬ができあがったぞ」
「馬鹿はあんただろ」
「これを一塗りすれば、どんな馬鹿もたちまち治る」
「妄想もいいかげんにしてくれ」
「まずはいつまでたってもわしを信じない、君につけてやろう」
「やめろ馬鹿! 自分につければいいだろうが!」
「な、何をする、やめろやめろ、わああああ……すまなかった、今までくだらないことばかりして」
「え、ほんとに治っ……あれ?」

パラドックス
 親父が木を伐りに行く山は、他には誰も寄りつかない山だった。
「あの山は難しい」
「お前の親父はすごいからな」
 誰に聞いてもゆがんだ笑顔でそんな答えが返ってくるばかりで、不思議な気持ちだけが残った。なわばり、というわけでもないらしい。
「小十太。お前もそろそろ、あの山のことを知りたいだろう」
 だからその日、親父がそう言い出した時、おれは思わず居ずまいを正したのだ。
「あの山にはそれは色々と掟がある。ひとつでもそれを破れば、死ぬ」
 肩のあたりがぞっとした。
「これからそれを教えてやろう。あの山の木を伐るかどうかはお前が決めろ。なかなかいい木だが、命をかけてまで伐るほどでもないかもしれない」
 おれがうなずくと、親父は言った。
「まず、山の入り口が決まっている。俺がいつも入ってる、あそこからしか入ってはいけない。他のところから入れば山の呪いで死ぬことになる。場所は知っているな?」
 おれはまたうなずいた。
「その入り口に幹の皮のはげた木がある。その幹の皮を少しはがして口に入れろ。これは山を下りるまで入れたままだ。飲んだり吐いたりしたら死ぬことになる」
「わ、わかった」
「そこから少し行くと、黄色い葉の小さな木がある。その横を通る時は必ず右足を出せ。でなければ死だ」
「ああ……」
「山の中にいる時の呼吸も重要だ。吸って吸って吐く、この繰り返しだ。どんな時でもだ。でなければ死だ」
「山の中にいる時、ずっとか?」
「そうだ。時々イノシシが上から駆け下りてくる。音がしたらすばやく親指を隠せ。両手のだぞ。それから下りてゆくイノシシの後ろ姿は見るな。でなければ死だ」
「…………」
「地面にも注意しろ。キノコを踏めば死だ」
「…………」
「上にも注意しろ。落ちてくる木の葉を全部よけないと死だ。まあ、そんなとこだな」
「……親父」
「なんだ」
「親父は、何年あの山で木を伐ってるんだ?」
「そうだな、30年くらいかな」
 おれは親父をじっと見た。
 こんな男になりたいと思った。
 私の隣の席の安西さんの髪は少し変わっていて、ひっぱるとどこまでも伸びてしまうのだった。ブラシでとく時、からまっているところをほぐすために力を入れたりしても、やっぱり伸びてしまうので、彼女はいつもほとんど髪をとかさず、もつれた部分が肉眼でもわかるような頭で登校してきた。かわいいのにもったいないなあ、と思ったけど、しかたがないことのような気がしたので、私は何も言わなかった。
「おはよう」
「あ、おはよ……どうしたの、それ」
 その日、登校してきた安西さんを見て、私は驚いた。長く伸びた髪が教室のドアから外まで続いていたのだ。
「え? ……あーっ!」
 気づいていなかったようで、あわてて髪をたぐりながら教室から出ていく安西さんを、私は追った。
「どっかに引っかかったんだよ。家からとかだったらどうしよう」
「大丈夫だよ、きっと。それだったら誰かが注意するだろうし」
「怖くて注意できなかったのかも……」
「そんなこと」
 あるかもしれない。髪をたぐりながら、なにげない調子で自分を「怖い」と言う安西さんが悲しくて、なんだか胸がきゅうとなった。
「あ、あった! よかったあー」
 教室と同じ階の掲示板の画鋲に、安西さんの髪のもつれがひっかかっていた。
「やっぱりある程度はとかさなきゃだめだね……なんとか工夫して……」
「そうだね」
 そういう問題じゃないような気がしたけど、しかたがないことのような気もしたし、悪いことでもないはずなので、私はそれだけ言った。
「マウンド上にはピッチャーの石塚、実は石塚は、三日前にお父さんが亡くなり、今日はお通夜からこのグラウンドに直行したということです。これから親孝行できると思っていた、うまくいかないものですねと語った石塚、今日、勝利を父に捧げることができるのか。第一球、投げた、打ったー! 大きい、大きい、入ったー! ホームラン! レフト上段に突き刺さる! 父に捧げるホームラン!」
「違うよ」
 ぼくが通っていた光堂小学校の塀には大きな穴があいていた。その穴の形がちょっとおかしくて、なぜあんな穴があいたのかはわからないけど、人の形をしていたのだ。漫画とかで人が塀にぶつかって、その形に穴があくような、そんな形をしていたのだ。
 当然のように、その穴には伝説があった。壁のあの部分が人間になって抜け出して、今は生徒として学校にいるとか。あの穴にぴったりおさまると、そのまま壁になってしまうとか。同じクラスの福沢くんが、むりやり穴におしこまれて泣き叫んでいたこともあった。
 5年生の夏に、工事があって穴はふさがった。それからすぐの夏休みに、家の引っ越しでぼくはあの町を離れた。

 用事があって2年ぶりに、ぼくはあの町に行った。見覚えのあるような、見忘れたような町並みを見ながら歩いていると、同じクラスだった寺島くんにばったり会った。
「ひさしぶり! ぼくのこと覚えてる?」
「あっ!」
 寺島くんは目を丸くして立ちすくんだ。それでぼくはなんとなくわかった。
 あの時の5年生の中ではきっと、今ぼくは壁の中にいるのだ。
 わたしたちは知らなかったけれど、地球最後の日には警報が鳴ると、選ばれた人たちはみんな知っていたのです。
 満月なのに真っ赤な月が、月なのにピコピコまたたいて、どこからともなく地鳴りのような警報音が鳴り響いたその日、たちまち選ばれた人たちは、地球から避難を始めたのでした。あちこちの地面からスペースシャトルや円盤のようなかっこいい乗り物がせりだして、次々空へと消えてゆきました。
 何も知らなかったわたしたちは、ただぽかんとそれを見送り、笑ったような泣いたような顔を、ただ見合わせるばかりでした。

 警報は誤報だったそうです。みんな戻ってきて、また元の生活が始まりました。
 なんとなく、気まずい空気が流れています。
 背の高い草が風でそよぐ丘で、男が草笛を吹いていた。時々草を取りかえながら、長い間、ほとんど止まることなくメロディーは続いていた。
 ようやく休む気になったらしく、草を放り投げて座った男に、私は拍手を送った。男は驚いたように振り返った。私がいたことに気づいていなかったようだ。
「よくそんなに吹けますね」
「いや、こんなのは簡単です、お嬢さん」
 男は帽子を少し上げながら、笑って答えた。
「簡単なんですか? 私は笛も吹けないしメロディーの作り方も知らないから、すごいことのように思えるのですけど」
「や、縛るものがなければ、いくらでも吹けるものなんですよ。でもそれは吹くのも吹かないのも同じ笛です。お嬢さん、これに拍手をするのはね、流れる川に拍手をするのと変わりません」
 何と言っていいのかわからないでいる私に、男はまた少し笑って一枚葉っぱを取った。
「それじゃ、今度はあなたのために吹きましょう、お嬢さん」
 流れ始めた音は、さっきまでとはどこか違って、何か大切なものが失われているようで、けれども私の胸はぎゅうっとなって、いつまでもいつまでも聞いていたいと思った。
 変死した友人の日記をひょんなことから入手したら、最後のページに「星の王子様に隠された暗号を解読」と書いてあって、その日からこわい夢ばかり見ている。
 僕には好きな女の子がいるのだけど、ある日気がついたら彼女は鏡に映ってなかった。地面を見れば影もなかった。彼女は人間ではなかったのだ。
 人間でなければ何なのだ。魔物か。妖怪か。幽霊か。こっそり彼女の写真を撮った。ちゃんと普通に写っていた。
「わかったぞ! 彼女は幽霊だったんだ!」
 写真を空に掲げながら僕は叫んだ。その後そっと定期入れに入れた。