「夢じゃないかしら!」
 思わずほっぺたをつねったら、そこから皮がべろりとめくれて別の顔が出てきて、それまで精巧なマスクをかぶらされて生きてきたことを初めて知り、夢じゃなかった。
 美しいものをこわすのが大好きな男がいました。
 けれども男はとても優しい気持ちの持ち主でした。
 美しいものをこわしたくてこわしたくて、すばらしい彫刻を見たりすると手が震え、それにハンマーを振り下ろす夢を何日も続けて見るほどでしたが、作った人のことを考えると、とてもそんなことはできないのでした。
 どうすればいいのか考えて、男は気づきました。
「そうだ。自分で作ればいい」
 男は彫刻を習いました。先生はその熱心さと、上達の早さに驚きました。立派に売れるから彫刻家になるとよいとすすめましたが、男は言葉をにごすばかりでした。できあがった作品を持ち帰った男が、家でうれしそうにそれをこわしていることを、先生は知りませんでした。そのうちに、男は先生のところに来なくなりました。

 家の秘密の地下室で、男は彫刻を作り続け、こわし続けました。そのうちに男には愛し合う女性ができて結婚し、妻にだけはその秘密を打ち明けました。
 話を聞き、地下室に案内された妻は少し驚きました。そこにあった作りかけの彫刻は、本当に美しいものだったからです。
「もっと、こわしても惜しくないようなものかと思ってたわ」
「それじゃ意味がないよ」
「でももったいないわね。とてもきれいよ」
「そうだね。きれいなものが作れるようになってよかった。そうでなければ僕は、人のものに手を出したかもしれない」
 男は作りかけの彫刻をなでながら、優しい顔で言いました。

 時々地下から何か砕く音が聞こえる他は、平穏な日々がすぎてゆきました。妻はその音を聞くたびに、あの美しい彫刻を思い出し、少し悲しい気持ちになりましたが、あの優しい夫がそのためだけに作っているのだと思うと、やめろとは言えませんでした。
 妻は時々地下室に行ってみましたが、いつでも彫刻は作りかけでした。できあがるとすぐにこわされてしまうようでした。できあがったものを見たいな、と妻は思いましたが、見たらきっとこわさないでと言ってしまうだろうと思ったので、見たいとは言えませんでした。

 また穏やかに月日はたち、二人は年老いて、やがて男は死にました。
 残された妻は、ひさしぶりに地下室に入りました。彫刻らしきものはひとつもありません。さんざんに砕かれたあとの、石の混じった砂の山のようなものが、いくつかあるばかりでした。
 妻は砂をすくって指の間からこぼしながら、ほんとうにすてきな人だった、と思いました。
 通学路からちょっとはずれた道の途中に、白い丸が書いてあります。マンホールよりいくらか小さい丸です。チョークで書いたように見えますが、雨が降っても消えないで、ずっと前からあるものなので、チョークで書いたものではないのです。
 わたしはこの丸のことを、友達のすずこちゃんに教えてもらったのです。すずこちゃんはにこにこしながらこの丸の上に立って、
「この丸はねえ、とてもこわいんだよ」
 と言いました。
「この丸がくるってひっくり返ってねえ、子供はここから下に落ちてしまうんだよ」
 わたしはそれを聞いてこわくなりました。そういえばその丸は、もしもそれが穴だったら、大人ならひっかかって落ちないけど、子供ならすとんと落ちてしまうくらいの大きさなのでした。
 わたしがこわそうな顔をすると、すずこちゃんはよろこんで、丸の上でぴょんぴょんととびはねたりするのです。
「やめようよう」
「へいき、へいき、あっ!」
 すずこちゃんは急にしゃがんで、落ちたフリをしたので、わたしは泣きそうになりました。

 すずこちゃんは遊びに行く時、時々わざとそこを通るのでした。そして丸の上でぴょんぴょん飛んで、わたしがこわがるのを見て喜ぶのでした。
「やめようよう」
「へいき、へいき、あっ!」
 その日、いつものようにすずこちゃんがぴょんぴょん飛んでいたら、丸がくるっとひっくり返ったのでした。

 すずこちゃんは無事でした。穴のふちにひっかかったので、またのぼってこれたのです。
 丸がくるっとひっくり返るのなら、落ちる面積は丸の半分の大きさまでなのです。こわがる前に、もっとそういうことを、ちゃんと考えなくてはいけないなあと思いました。あの丸は、もっと小さな子供しか落とせないのです。
 すずこちゃんはしばらく元気がなかったけど、だんだん元に戻って、またわたしと遊ぶようになりました。たまにあの道を通る時、二人でちらっとあの丸を見ます。それでなんとなく、えへへ、と言います。
「釣れますか?」
 と訪ねたとたん、釣り人は海に飛び込んだ。すごいスピードで泳いで少し離れた岸に上がり、服のすそをしぼりながら歩いていった。
 残された釣り竿で僕は釣りをしている。全然釣れない。ふとクーラーボックスを開けてみたら、何も入っていなかったので、ちょっと悲しくなった。
「自分の絵を描いている最中の自分の絵を描いているんだ。それを描いている自分もまた、誰かに描かれているようで、ちょっといいじゃないか」
 私が得意になってそう話したが、友人はあまり感心してくれなかった。
「大砲の中に弾の代わりに大砲を入れて撃っても、飛距離は伸びないと思うんだよ」
 全然違う話をされた気がしたが、なぜか敗北感があった。
 町の中にあるとは思えないような見事な竹林だった。時々歓声が聞こえるのは、タケノコ狩りに来た子供たちがあげているものだろうか。もうそんな季節になったのだなと考えながら歩いていると、私と同じく道から竹林を見ている男がいた。
「たいそうな竹じゃありませんか」
 声をかけてきた。初老の男だった。
「そうですね」
「あんなに高く伸びている。ここまでのはなかなかありません」
 見上げると、竹は本当に高くまで伸びていた。なかなかないかどうかまでは私は知らない。
「満開の桜の根本には死体が埋まっているというでしょう」
「え? ああ」
「では、ここまで伸びた竹の根本には、何が埋まっているのでしょうね?」
「さあ……」
 薄気味悪いことを言いだした、早く切り上げて退散しようと思っていると、男はそれをそれがわかったように、ちょっと肩をすくめて言った。
「わらじですよ」
「……ああ」
 私は少し笑った。七夕伝説と天女の羽衣が一緒になった話。
『わらじを千足作って竹の根本に埋めてください』
 羽衣を取り戻した妻がそんな置き手紙を残して天に帰っていって、夫が言う通りにすると竹が天まで伸びるのだ。
「桜と死体も似合うが、竹とわらじも似合いますね。あんなことを思いつく人はたいしたもんです」
「そうですね。けど、死体と比べるとわらじはだいぶ」
 地味だ、と言おうとして、言えなかった。わらじを埋める。わらじがとける。竹が伸びる。一足分ずつ伸びてゆく。そんなイメージと、目の前の背の高い竹がつながって、なにか怖くなったからだ。また竹林から、子供たちの歓声が聞こえた。
 空にあるたくさんの星のうち、たった一つだけあるという自分の星を、ぼくはついに見つけたのだった。嬉しかった。身にせまる悪意も事故も、夜空を見れば事前に察知でき、対処できるのだ。

 その夜、いつものように星を見たぼくは、思わずあっと叫んだ。優しく輝く美しい星が、自分の星に近づいてくるのだ。ぼくはあわててさまざまな文書を調べて方位などを計算した。
 翌日、計算によって出た場所にぼくは行った。ここで待っていれば、計算によって出た時間にあの人が……来た! 一目でわかった。あの星と同じように、優しく輝く美しい女性だった。あの人がぼくと。夢のようだ。でもぼくの星に近づいてきたのだから大丈夫のはずだ。
 深呼吸をして、いざ声をかけようとしたぼくを、いきなり後ろから誰かが蹴った。振り返ると、けわしい顔をした知らない男がいた。
「なんだよ」
「なんだよじゃない。あの人に何の用だ」
「何でもいいだろう。知り合いかよ」
「知らない人だけど、これから知り合うんだ」
「何勝手なこと言ってるんだ。あの人と知り合うのはぼくだ」
「いいや、俺だね。なにしろあの人の星が俺に近づいてきたんだから」
 耳を疑うような言葉を聞き、ぼくはかっとなった。
「違う、ぼくの星に近づいてきたんだ」
「俺の星だ。8時頃、北西の高さ30°あたりにある、俺の星に近づいてきた」
「それはぼくの星だ」
「馬鹿なことを言うな」
「ふざけるな、人の星を」
 大ゲンカになった。殴り合いなんかしたことなかったけど、これだけは絶対ゆずれなかった。けれども、殴り合いなんかしたことなかったのがまずかったのか、ぼくはたちまちぼこぼこに殴られて倒れた。立てなかった。傷一つ負わなかった相手が、さっきの女性を追うのが見えた。

 夜になり、空を見た。いつも見ているあの星に、優しく輝く美しい星が寄りそっていたので、ぼくはおいおい泣いた。
 その日は友美の部屋でだらだらしていたのだけど、友美がだしぬけに「ふられちゃったよ」と言いだしたのだ。
「あらま」
「だめだねえ、あたし。はっきり言われるまで全然気づかなかった。そしたら、人の気持ちを全然わかってないとか言われちゃったよ」
 たしかに友美にはそういうところがある。こっちがいいかげんにしろと思ってるのに気づかずにずっとふざけ続けたりする。
「あたしねえ、小学校の時、テレパシー使える人になろうとしたことがあるんだよ」
 友美はぼんやりと天井を見ながら言った。けっこうこたえてるみたいだな、と思った。
「超能力者にあこがれてねえ、まずはテレパシーだ、って。それでさ、サボテンはテレパシーができるっていうじゃん」
「そうなの?」
「だから、家にあったサボテンをこんなふうにじーっと見てねえ、サボテンの気持ち、こっちに伝われ、伝われーって、やったの」
「ふうん」
「そしたら3日目くらいかなあ。伝わってきたんだよ」
「へえ? 何て?」
「頭なでて、頭なでて、って。それ以来テレパシーは欲しくなくなったんだ」
 その夜は2人で飲み明かした。
 大蚤湖はまったく神秘的な湖です。湖面はまるで鏡のようです。太陽が反射すればまぶしくてならず、顔をうつせば毛穴の一つ一つまではっきり見えるのです。
 ボートに乗ってそっと湖面をのぞくと、ボートから波紋がわきたちながらもやはり鏡で、どうも不思議でなりません。同じような奇妙な気持ちになったのか、少し離れたところのボートから男が一人、さっと頭から飛び込みました。
 湖にはいくつもボートが浮かんでいて、それを見ていた人も多く、「あっ」という声があちこちであがりました。すると、ちょうど飛び込んだその場所から、その男がさっと頭から飛び出してきました。そのまま空を泳いでどこかに行ってしまいました。
 水であり、鏡だから、そんなこともあるのかな……? と思いました。他のボートの人たちも、どうやらそんなふうに思ったらしく、なにごともなかったようにまた、あちこちでゆらゆらとボートが動きだしました。
 ええ、そんな神秘的な湖なのです。
 マークシートのテストだった。絶望的にわからないので鉛筆を転がした。
 コロコロ
 ……2
 コロコロ
 ……2
 コロコロ
 ……2
「待ちやがれ! そいつを改めさせてもらおう」
 ガリ
「おう! この片寄った芯は何だ?」
「イカサマか!」
「きたねえ!」
「この野郎!」
 大騒動にまぎれて逃げ出すことに成功