○月○日
 右腕に3つあったホクロが、気がついたらなくなっていた。おかしいな、わりと大きかったはずなのに、と思ったら、鎖骨の下あたりに3つ並んでホクロができていた。移動? そんなことがあるのかな。

○月×日
 転んで右腕をひどくすりむいた。

○月△日
 やっと治ってきた。と思ったら、鎖骨の下のホクロが明らかに右腕に戻り始めている。なんだか無性に腹が立った。
 石を蹴り続けて、ふと気づいたら、全然知らない場所にいた。
 でも、それに気づいてちょっと辺りを見回して、また足元を見たら石がなくなっていた、そのことの方がずっとショックだった。
 母が買ってきた湯飲みの内側に、いやらしい笑顔の妖怪らしきものの絵が描いてあった。
 なんとなく使っているのだけど、熱いお茶を入れるたび、その絵は少しずつ薄くなっていて、一体私は何を飲んでいるのだという感覚が、たまりません。
 空が暗くなるほどのいなごの群に、何もかも食われてしまった。
「わはははは」
 じいちゃんがいなごの群の中で大声で笑っていた。笑っているじいちゃんの口の中にもいなごはどんどん飛び込んでいる。
「わはははは」
 じいちゃんは笑い続ける。いなごは飛び込み続ける。
「わはははは」
 口の中がいなごでいっぱいになっても、じいちゃんは笑っていた。
「わはははは」
 おかしいな、口にあんなにつまってて、なぜ笑い声が出せるんだろう。
「わはははは」
 僕の口の中に何かがどんどん入ってきていた。聞こえていた笑い声はいつのまにか、じいちゃんを見て笑う、僕の笑い声になっていたらしい。
 わたしの叔父さんは旅の絵描きさんです。時々うちに寄って、めずらしいおみやげをわたしにくれます。

 この前は、青い絵の具をくれました。
「やすえちゃん、この絵の具はね、ちょっと特別なんだ」
 バス停までわたしが送って行って、一緒にバスを待ってる時に、叔父さんは言いました。
「描いたものが紙から飛び出して、本物になるんだよ。そういう絵の具なんだ」
「すごい」
「でも、他の絵の具と混ぜちゃだめなんだ。本物にはならない」
「ふうん……」
「それから、うそを描いてもだめなんだ。本物にはならない」
 バスはすぐに来て、わたしは叔父さんと手を振って別れました。

 わたしは何か飛び出す絵を描きたくて、たまに絵の具をパレットに出してみるのだけど、なかなかうまくいきません。青だけでうそもつかない絵はむずかしいです。どうしても描けなくて、いつも最後は画用紙を塗りつぶして、紙から飛び出した真っ青の四角が、空に吸い込まれてゆくのを見ています。
 僕には死期が近い人が分かってしまう。頭の上に死神が乗っているのが見えるのだ。
 登下校中に何人も見る。僕に見える死神はいつも同じ姿だ。同じ日に何人見ても、全員頭の上に同じ姿の死神が乗っている。若い女だ。長くて黒い髪が波打っている。長いまつげの、少しつり気味の目で、右目の横にホクロがある。色が白くて、唇はふわっとしてて。
 僕が見つめると、彼女も僕に気づいて笑う。彼女と目が合うと、彼女が笑うと、何か甘いものに胸をくっとしめつけられるようだ。とりつかれた人がうらやましいとまでは思わないが、高いテーブルの前に腰かける時のように、彼女がそいつの頭の上に豊かな乳房を乗せていたりすると、さすがに死の運命を気の毒に思う気持ちは失せてしまう。
 しかし、なぜ僕だけがこんなものを見るのだろう……。

 学校に着いて教室に入ったら、みんながあ然とした顔をした。しばらくざわめいた後、まるでみんなを代表するかのように一人が近づいてきて言った。
「目の錯覚かと思ったけど、みんな見てるみたいだ。その頭の上の女の人は何?」
 僕はそれを知っている。でも僕には見えないし、何も感じない。これまでにもっとよく見ておけば、今、僕の頭の上の彼女を、もっとリアルに思い浮かべることができたんだろうか。
 彼女のハンガーを彼が折り曲げ、キースヘリングっぽい人型を作ったら、なんとそれが起きあがり、キースヘリングっぽい動きをしはじめたではありませんか。二人はそれをテーブルに乗せてながめましたが、なぜだかその部屋は、ものすごく静かなのでした。
 虎弦先生はおそろしい。どんな病気でも治してしまうと言われているが、なにしろ治し方がすさまじいし、中には即死する人もいるのだ。
 先生はまず患者の背中に手を当てる。そして「むっ」とか「ほほう」とか言う。まるで悪徳新興宗教みたいだ。本当はどんな体を診ても、「ほほう」なんて思ってやしないのだろうに。
「体に毒がたまっておる」
 ますますあやしげだ。でも患者は背中で何か感じるらしく、もうその時には「治してください!」と必死になって言う。そこでぼくが治療費を受け取りに部屋に入る。一律210万円。死んでも文句言わないという内容の誓約書も書いてもらう。
 さて患者は診療台に座り、先生は背中に手をかざす。ぐっとその手に力を込めると、患者の背中がみるみるうちに赤黒く、らくだのこぶのようにふくれてゆく。体の毒をそこに集めているのだそうだけど、それにしてはあまりにも大きい。背中のこぶがふくれるにつれ、患者の体の他の部分がみるみるうちにしなびてくる。
 虎弦先生が止めなければ、こぶはどこまでも大きくなる。ほどほどのところで止めないと、あ、まずい。またやった。こぶの膨張は止まったが、先生は明らかにしまったという顔をしていた。
「さて、それでは毒を取り除いてしんぜよう」
 先生は手をかざし直し、はあっと気合いを入れた。

 パアン

「先生、もっと早く止められないんですか」
「まだ毒が残っておったのだ」
 虎弦先生は偉そうに言う。こぶの中に入っていた血膿は部屋中に飛び散り、これを掃除するのはぼくの仕事だ。内臓らしきもののかけらがまぎれこんでいてげんなりする。ひどい藪医者だ。
 そう、虎弦先生は藪なのだ。同じような治し方をする人がたくさんいれば、それがはっきりわかるのにと思う。いないものだからここにはいつも患者が絶えない。
「おい、給料だ」
 10万円を渡される。気前がいいのかそうでもないのかはわからないけど、ありがたい。腕を上げてさえくれればなあ、と思う。
 きたなくてよく分からなかったけど、多分白い犬だった。小さくてかわいい犬だった。道ばたに座ってじっとこっちを見ていたので、ちょっと頭をなでたら、後をついてきてしまったのだ。
 困った。本当にこんなことがあるんだなあ。うちでは飼えないので追い払おうとしたが、ずっとついてくる。
「シッシッ」
「クーン」
 本当に困った。しかたないので走って逃げた。ところが走りながら振り返ると、すごいスピードで犬が追いかけてきていた。息が切れて止まったら、追いついてきた犬も止まった。疲れた様子もない。
「うちじゃ飼えないんだよ」
「クーン」
 木の棒を拾って投げた。
「それっ、取ってこい」
 犬がまっしぐらにそれを追いかけてゆく。そのすきにまた走って逃げた。ところが振り返ると、木の棒をくわえた犬がすごいスピードで追いかけてきていた。犬ってこんなに足が速いものなのだろうか。なんだか怖くなって、近くの駅に逃げ込んだ。隣の駅まで行って、そこから家に帰ろう。
 さすがにホームまでは追いかけてこなかった。電車に乗り込み、ほっとして外を見たら、電車と同じスピードで犬が走っていた。顔だけこっちを向けて走っている。
 隣の駅に着いても、降りる気になれなかった。電車はまた走り出した。犬は同じスピードでずっとついてきた。30分くらい乗り続けたが、犬は引き離される様子はなく、余裕さえあるように見えた。
 逆方向の電車に乗りかえて戻った。窓の外で当たり前のように犬が走っていた。改札を出ると、やはり当たり前のように犬が寄ってきてクーンと鳴いた。
「うちじゃ飼えないんだってば」
 無駄だと思いながらも言ってみた。
「クーン」
「困るんだよ、ついてこられても。ね」
「クーン」
「だから、バイバイ。さよなら。ね、さよ……」
 さよならと言ったとたん、ずっとこちらを見ていた犬はくるりとむこうを向いた。そのままとことこと歩いてゆく。
(あれれ……)
 ただ、それを見送った。
 家に帰って、電気もつけずに床に寝ころんだ。疲れた。本当に疲れた。
 隣から歌声が聞こえてくる。CDに合わせて歌っているらしい。三日に一度くらい歌っている気がする。楽しそうだ。うるさいなあ。それとも、こっちが静かすぎるのか。
 きたなくてよく分からなかったけど、多分白くて、小さくて、かわいい犬だった。きっともう、二度と会えない。
 わたしのおばあちゃんは空を飛べる。おばあちゃんは一人で暮らしている。ちょっと足が悪いから外を歩くのには杖がいるけど、家だと人目を気にしないで飛べるので、生活に不自由はないらしい。
「どうやったら飛べるの。わたしも飛んでみたい」
「飛んでみたいって気持ちがなくなれば、飛べるかもしれないわねえ。飛ぶのなんてどうってことないことだ、と思うから飛べるのよ」
 なんだかよく聞くごまかしのようだけど、おばあちゃんがそう言うならそうなのかもしれない。床から少し上をすべるように動いてゆく。おばあちゃんは家の中でしか飛ばない。わたしだったら。もしわたしが空を飛べたら。
「でも、わたしもおばあちゃんの血筋だし、いつか飛べるかもしれないね」
「そうねえ」
 おばあちゃんはそう言ったが、それはなぜかわたしには「無理」と言ってるように聞こえた。
「だめ? わたし、才能なさそう?」
「才能」
 おばあちゃんはくすくす笑った。
「自分にできないことできるのを、才能なんて思うのは若いわねえ」
「若いもん」
「私はもう年だから。面白い本も、すてきな絵も、スポーツのすごい記録も、みんなそれぞれ、ただ自分のやり方で作ってるだけだって、そんなふうに思うようになっちゃったのよね」
 わたしは少し考えた。そりゃ、自分のやり方で作ってるだろうけど。でもおばあちゃんが言うのとわたしが思ってるのとでは、きっと何かが違うのだろう。
「昔は面白い本なんて読むと、まるでその本が魔法でどこかからわいてきたような、そんな気がしたものだけど。もうずっと長い間、そういう気持ちになってないわねえ。世の中に魔法があるって思えないのは、さびしいものよ」
 おばあちゃんは1メートルくらい浮いて、戸棚の上のお菓子をがさがささぐりながら言った。