すばらしい演奏だった。オーケストラの息はぴったり合い、美しいハーモニーがさざ波のように広がり、大波のように押し寄せてくる。来てよかった。こんな演奏を聞けることなど、何十年に一回あるかどうか。
 しかし、まるで一つの生き物のようになっているオーケストラの中で、ただ一つの違和感が私の目を引いていた。一人だけ、他と違う。ずれている。おろおろしてあらぬ方向を向いたりしている。
 それは指揮者だった。楽器はみな一様に指揮者を無視していた。楽章が変わり、指揮者が指揮棒をさっと上げても何も始まらなかったりする。しばらくしてから見事な出だしで始まる。指揮者はあわててそこから、曲に合わせて指揮棒を振る。それにしてもすばらしい演奏だ。また指揮者がずれる。すばらしい演奏はそれとかかわりなく続いてゆく。

 ブラボー、ブラボーの叫びがまだ聞こえる。最初から最後まですばらしい演奏だった。アンコールが終わっても拍手は鳴りやまない。観衆の大部分が立ち上がって拍手を送っていた。
 私も立ち上がって、痛くなるほど手を叩いていた。本当にすばらしい演奏だった。でも……。視線の先に、客席に何度もおじぎをする指揮者がいた。
 その時、指揮者がさっと手で合図をした。すると楽器を持った人たちがいっせいに立ち上がり、客席におじぎをした。拍手がいっそう高まる。私も胸が熱くなり、涙をぼろぼろこぼしながらブラボーと叫んだ。
 立ち読みというのは重要だ。たとえば漫画雑誌の表紙を見て、ふと気になった漫画を立ち読みする。続きが気になって次の号も立ち読みする。ページをめくっている時に気になった、他の漫画も読むようになる。立ち読みする漫画が増え、とうとうその雑誌を買うようになる。立ち読みの時と家で読む時とで面白さが違う漫画も多い。これは研究に値するテーマではないだろうか。

 週刊ヘッドバンクで大場ともあきの「トレジャービュー」が始まったのは、二年前のことだった。その頃僕はヘッドバンクを立ち読みですませていたが、面白いものが始まったな、というのが最初の印象だった。
 回が進むごとに「トレジャービュー」はますます面白くなっていった。他にも立ち読みしている漫画はいくつかあったので、僕はヘッドバンクを買うことにした。
(あれ?)
 家で読んで、首をかしげた。あんなに面白かったはずの「トレジャービュー」が、あまり面白くなかったのだ。というより、全然面白くない、つまらない、といってよかった。
 次の週も、やはり面白くなかった。しかし今までとどこか違うというわけでもない。どういうことだろうと考え、はたと気づいた。
 「トレジャービュー」がつまらなくなったわけではなかったのだ。これはきっと、立ち読みと家で読む時とで同じ漫画でも面白さが違う、その極端な例なのだ。多分大場ともあきは、そういう作家なのだろう。
 僕はヘッドバンクを買うのをやめて、また立ち読みに戻った。家で読んでみたら他にも面白い漫画があるのがわかったのだけど、それでもやめた。
 立ち読みに戻ったら「トレジャービュー」はやはり面白かった。毎週楽しみにしていたのだが、それからしばらくして連載は終了した。人気がなかったらしい。無理もないとは思ったけど、残念だった。
 その次の週から、僕はまたヘッドバンクを買い始めた。

 ベッドに寝ながら今週号のヘッドバンクを読んでいた。次号予告のページをめくり、思わず「あっ」と言った。
 ──新連載 大場ともあき「クロスバー吉兆」
 大場ともあきがヘッドバンクに戻ってくる。来週から連載が始まる。僕は予告のページを開いたまま、しばらく動かなかった。そして考えた。ヘッドバンクはあれからまたいくつか面白い連載が始まり、今では一番好きな雑誌になっている。
 でも僕は、来週からまた立ち読みに戻ろうと思った。他の漫画をじっくり読めなくなるのはつらいけど、そうしよう。
 自分が大場ともあきの熱烈なファンだということに、僕はその時初めて気づいた。
 昔この村に、恐ろしい伝染力と致死力で知られるカナド病がやってきた。全員が血液検査を受け、感染しているという結果が出た僕は、他の人々とともに村はずれの古い館に隔離された。
 みんな高熱を発したり血を吐いたりしていた。次々と死んでいった。中には治ってそこを出ていく者もいた。治ったことが許せないなどとリンチを受けて死ぬ者もいた。まるで地獄だった。
 僕は、その中で例外だった。何の症状も出なかったのだ。本当に感染しているのかと疑われるほどだった。
 カナド病はいい薬もできないまま、各地で猛威を振るい、そして消えた。館の中にいた人々も、死ぬか治るかして僕一人が残された。

 一月に一度、医者が血液検査にやってくる。
「腕出してください」
 先月の検査の結果については何も言わない。だめだったんだな、と思う。もうなんとも思わない、と思おうとしている。
「ありがとうございました」
「来月から、ここに来る医者が交代します」
「え……」
「私はもう定年ですので」
「はあ、そうですか」
「はい。それでは……」
「あ、今までお世話になりました」
「いいえ」
 しばしの沈黙の後、医者は付け加えた。
「お大事に」
 そして出ていった。僕は窓から後ろ姿を見送るだけだ。
 前にもこんなことがあった気がする。僕はいつからここにいるんだったか。
 時々、夢を見る。あのカナド病がまたやってきて、今度は世界中が、あの頃のこの館になる夢だ。ようやく館から出ることを許されて、僕は病におかされた世界中を旅するのだ。
 僕が作ったびっくり箱だよ、と箱を渡された。
 開けたとたん、箱は煙のように消えた。
 約束の時間を過ぎても、彼は現れませんでした。
「もう帰ろうよ」
「もうちょっと待って」
「でも……」
「もうちょっとだけ」
 来ないような気もしました。彼は露骨に私を避けているように思えたから。一生懸命文面を考えたあの手紙も、無視されてしまうのかな。少し、悲しくなりました。
「ねえ、まだ待つの?」
「…………」
「来ないよ、もう」
「けど……」
「あんたが待ってやるほどのやつじゃないじゃん」
「ごめん……もう少しだけ待たせて」
「別にいいけどさ。それで気がすむなら……あ」
 目を上げると、彼がいました。ゆっくりとこちらに歩いてくる。まさか。来てくれるなんて。私は喜びを隠すことができませんでした。
「ごめん、遅れて」
「来てくれたんだ」
「あんな手紙を受け取っては、来ないわけにもいかないよ」
「ありがとう」
「いや」
 彼は私から少し離れたところに立ち、ゆっくりと身構えました。
 勝負は一瞬でつきました。予想通り彼の太刀筋は、どうというほどのものでもありませんでした。それをぎりぎりまで待ってから、斬る。私の極めようとしている刀法の、極意の一つです。
「お見事」
 彼が倒れると、ついてきた介添人は私に言いました。
「これで、江戸一番はあんただね」
「うん」
 でも、大変なのはこれから。私は刀をさやにおさめ、彼のためにほんの少しだけ黙祷してから、歩き出しました。
 待っている間に、ずいぶん時間が経っていたようです。今日のためにきちんとひげを整えたあごが、夕方の風に吹かれて少し寒いように感じました。
 髪は自分で切るしかない。人に見られるわけにはいかない。
 部屋の床に座って、刃がついた櫛で髪をざくざくとすいた。百円ショップで買ったやつだ。床には何も敷かない。髪が床に落ち、たまっていった。
 鏡を見る。まあこんなもんでいいか。切れた毛が頭に残っているのをぱっぱっと払う。床にたまった髪の毛の上にまたそれが落ちた。
 さて。私は一呼吸して、たまった髪の毛の上に手のひらをおろした。たちまち、髪の毛はいっせいに逃げていった。いつ見てもあれにそっくりだ。海のそばの岩場のあれ。フナムシ。
 床にはもう髪の毛は一本も落ちていなかった。どこに逃げていくのか、私は知らない。ただなぜだろうか、いつか年を取り、家族に看取られながら安らかに死のうとしている時、今まで切ったあれが全部、黒いのも茶色いのも白いのも全部、いっせいに訪ねてくるような気がしてならないのだ。
「昔、虜囚の辱めを受けるなと渡されたのがそれです」
 白い粉が入った小さな瓶に目をやった私に、老人は穏やかにほほえみながら言った。棚の中の目立つところにあった。
「毒薬、ですか」
「まあ、そうでしょう。もっとも今はただの粉ですが」
「……?」
「いつまでも毒のままではありません。もう変質してしまっています」
「ああ。なるほど」
「もらってから何年か後に、少し飲んだことがあるんです」
 私は驚いて老人を見たが、老人の表情は変わらなかった。
「死ななくてはならないような気がしたんです。誰にでもあることでしょう」
「…そうかもしれませんね」
「なんともありませんでした。もうその頃には毒ではなかったんですね」
「よかったですね」
「ええ」
 老人は目を細めて瓶を見た。
「それをくれたのは、私がとても尊敬している人でした」
「そうなんですか……」
「時々、もともと毒ではなかったのではないかと思うことがあります」
「…………」
「甘いと思いますか」
「いいえ」
 少し、うらやましいと思った。何に対してかはわからない。
 きょうは、わたしは、からしまランドにいきました。ゆうえんちは、大すきなので、ときどき、いきますが、きょうはすこし、こわかったです。
 からしまランドにある、メリーゴーランドは、うまが、ほんものみたいです。ほかのゆうえんちは、おもちゃみたいだけど、からしまランドのは、ほんものにのっている気もちになります。おかあさんは、「なんだかきもちわるいわねえ」といっていました。おとうさんは、「はくせいなんじゃないのか」といっていました。はくせいというのは、どうぶつの、死がいを、かわかしたものです。
 わたしは、メリーゴーランドにのって、ほんもののうまに、のってるみたいで、たのしかったです。でも、ちょっとしかまわってないところで、とまりました。ほうそうのひとが、「きかいのトラブルです。しばらくおまちください」といいました。
 わたしは、うまのうえで、まっていたのだけど、うまが、だんだん、あしをうごかしたり、ブルルルブルルとかいったりして、はしりだしたそうになってきたので、こわいとおもいました。もしもはしりだしたら、きっと、どこかとおくにいって、もどってこれません。けど、もうだめだとおもったら、またメリーゴーランドが、まわりはじめたので、よかったです。
 また、いきたいと、おもいました。
 老朽化が予想以上の速度、かつ複合的に進んでいるとかで、俺たちは修理が終わるまで、地上に避難することになった。
 今、海底の町はどれくらいあるのだろう。大部分は海底の資源を効果的に採取するために作られたらしい。海底都市と呼ばれるほどの大きさのところもあるが、ここは別に大きくもない、よくある規模の町の一つだ。ただ、かなり古い方ではある。今では海底の町は比較的簡単に作られているが、ここが作られた頃はそうでもなかったのではないだろうか。
 俺はその頃のことは知らない。海底で生まれ育った。昔の話を聞くのはあまり好きではない。たいがいは俺の知らない、地上の話になるからだ。そして俺の知らない太陽のことを、変な畏敬をこめて話されるからだ。
 地上に行くのは別に難しいことではない。行きたいと思えばすぐ行ける。けど、俺は行こうとはしなかった。海底にある他の町にはたびたび出かけたが、地上には行かなかった。用事がないから、と思っていたが、地上に対して何かの反発があったのかもしれない。
 しかし、今度はそうはいかない。地上で身元の確認をしなければならない。海底の町でそれをすると手続きが面倒になる。そこまでして地上に出たくないわけではない、と俺は自分の気分を測りながら考えた。
「おい、トシヒト。まだいるか」
「もう出るよ」
 隣に住むケイタロウじいさんだった。両親をすでに亡くした俺を子供か孫のように思っているらしく、よく家にやってくる。このじいさんがする地上の話や太陽の話は、なぜか俺は嫌いではなかった。
「お前、地上は初めてなんだよなあ」
「ああ」
「驚くぞ」
「そうかな。地上の映像なんかよく見るけど、そんなすごくもないぜ」
「実際に見るとまた違うさ。それに太陽があるからな」
 また太陽だ。俺が苦笑すると、じいさんはそれを見とがめたようだった。
「地球は太陽があるから始まったんだぞ」
「わかってるよ」
「生き物は太陽の下で暮らすのが自然なんだ」
「なんだ。俺たちは不自然かよ。まあその通りだろうけど」
「そうさ。まあ若い頃はいい。けど俺はもう、ここには戻らないつもりだ」
 俺はじいさんの顔を見た。冗談を言っているようではなかった。
「地上で暮らすのか」
「ああ。昔から、余生は上で過ごすつもりだったんだ」
「荷物、それだけなのか」
 じいさんは小さなカバンだけを下げていた。
「持っていくものなんかない」
 じいさんは少し笑った。

 潜水艇が海上に出た。窓から光が射し込んでくる。
「見ろ、これが太陽の光だ」
「ああ」
「あ、おい、まだ見るな」
 窓に顔を近づけ、太陽本体の姿を見ようとした俺をじいさんは止めた。
「船から出た時にまとめて見ろ。感激が薄れるから」
「わかったわかった」
 俺は首を引っこめた。感激なんてあるとも思えなかったが、じいさんの言う通りまとめて見ようと思った。
 地上に降りたとたん、じいさんは大騒ぎだった。
「やあ、太陽だ。見ろ、あれが太陽だぞ」
「言われなくても分かるよ」
 俺にもそれなりの感慨はあった。これが太陽か。もっと強烈なものだと思っていた。もっと大きいものだと思っていた。光も想像していたよりずっと優しい。この程度の光や熱なら海底にもいくらでもある。巨大な暴君のように思っていた太陽は、穏やかで親しみやすかった。心のどこかに、こんなものかという落胆があるのを感じた。空の広さの方がよほど圧倒的なものに思えた。
 黙って空を見上げている俺を、じいさんは満足そうに見た。太陽に感心していると思われていることは分かっていたが、訂正するつもりもなかった。
「お前これからどうするんだ、トシヒト」
「どうって。住むとこは保証してもらってるだろ」
「そうか。そうだったな」
「行かないのか、そっち」
「ああ。昔の知り合いが遊びに来いと言うんでな。そこにしばらく置いてもらう」
「そうか」
 じいさんは昔こっちに住んでいたんだ。わかりきったことに、今さら驚いていた。
「新しい家が決まったら連絡するよ。多分、その頃にはお前は下に帰ってるだろうけどな。たまには遊びに来てくれ」
「ああ」
「それじゃあな」
 俺がじいさんの家に行くことなどあるだろうか。後ろ姿を見送りながら考えた。

 地上での滞在が終わり、帰りの潜水艇が出る日が来た。地上も悪いところではない。それが分かっただけで十分だ。早いとこ帰ろうと海へ急ぐ道の途中、俺は意外な顔を見つけた。
「じいさん」
「おう、トシヒト」
「地上に住むんじゃなかったのか」
「いや、やっぱり帰るよ」
「どうして」
「もう年だからな。まぶしすぎていかん」
 じいさんは親指でちょっと空を指した。太陽がある。
「太陽の下で暮らすのが自然なんじゃなかったのか」
「いいんだ。地上にはちゃんと太陽がある。そのことがわかってれば、太陽が見えないとこでだって暮らせるさ」
 そうか、とだけ俺は言った。地上での生活がしばらく続き、太陽への印象も最初の頃とはまた変わってきていた。太陽は俺が考えていたよりもずっと優しく親しみやすく、しかし地上の生活は、それでも太陽が支配していた。日が昇り、暮れる。それが繰り返されるたび、俺の心の中の太陽は、輝きを増してゆくようだった。太陽は暴君ではなかったが、やはりただの光でもなかった。
 艇が海底に向けて出発した。太陽の光はみるみるうちに届かなくなる。海底と地上の間で、俺は突然なつかしさに襲われた。海底と地上、どちらに対するものだったのか。
「じいさん」
「あ?」
「じいさんの言う通りだ。太陽はいいもんだったよ。地上も。いつかまた行こうと思う」
「そうか。そりゃいい。そうさ、まだ若いんだからな、そうでなきゃいかん」
 じいさんはなぜかひどく嬉しそうに、俺の肩を何度も叩いた。
 白羽の矢が立ったのがおゆきの家だと聞き、俺は耳を疑った。
 この村のそばにある山の神は、数年に一度若い娘のいけにえを望む。白羽の矢はそのしるしだ。拒めばその年は必ず凶作になる。娘が帰ってくることは決してないが、拒むことは許されない。村の者はもうそのことはあきらめている。
 だがこれまで、山が望む女は、いつも村一番の美女だった。おゆきはみにくいわけでもないが、目立たない女だ。おかしいと思っているのは俺だけではなく、村では何かの間違いではないかという噂が立っていた。間違いならば凶作になる深刻な事態だ。だが、その噂は声高にはささやかれなかった。
 村一番の美しい女といえば、挙げられる女はほとんど決まっていた。庄屋の娘のおなつだった。噂は最初から、庄屋が自分の家に突き立った矢をはずし、おゆきの家に刺したという疑惑になっていた。だが庄屋がからむとなると、あまり大声で言うわけにはいかない。
 しかし村人たちはさりげなく庄屋の家のそばを通り、矢のあとがないかどうか観察した。
「俺あ見つけたぜ」
「本当か」
「あれは間違いねえ。戸の右側にある柱の上の方だ……」
 それは言われてみればそうだと思える穴だった。しかし違うと言えば違う。これだけで庄屋に談判するのは難しい。というよりしたくない。
「おゆきが嫌だと騒げばいいんだがな」
 誰かが言った。それだ、とみなが同調した。山に捧げる駕籠に乗る前、いけにえは村人たちの前に姿を現す。その時に嫌だとかこんなのはおかしいとかおゆきが騒ぐ。命がかかっているおゆきならば、叫び損ということはない。そしてそういえばおかしいのではないかと村人全員で騒ぐ。それがいい。誰も最初に言い出したくはないのだ。少々情けない話だが、そんな相談がまとまった。
 だがおゆきはすでに庄屋の家にいる。逃げ出さないようにという用心からだ。
「まかせてくれ。入りこむ」
 俺は言った。こういうのは得意だ。庄屋の家はそれほど警備が厳しいわけでもない。

「おい、おゆき」
「あっ」
 部屋のすみから声をかけると、おゆきは目を見開いてこちらを見た。
「伊平さん。どうやってここに」
「そんなことはどうでもいい。実は話があってきた」
「なに?」
 言おうとして少し困った。そんな場合ではないのだが、お前が美人じゃないのでみんな疑ってるんだとは言いづらかった。
「お前、これでいいのか。捧げられるなんて」
「これでって……しかたないじゃないの」
「いや、こんなのはよくない」
「どうしてそんなことを言うの。今までみんな従ってきたのに」
「実は俺は……前からお前に惚れてたんだ」
 我ながら馬鹿なことを言ったものだ。俺の心にあったのは凶作への恐れだけだった。おゆきは驚いた顔をしたが、顔を赤くしてうつむいた。
「だからお前にいなくなってほしくない。なあ、お前しだいでなんとかなるかもしれないんだ」
「どうやって……」
「駕籠に乗る前に騒ぐのさ。こんなのはおかしい、私はちっとも美しくありませんとな。お前のためだ、俺だってそうだそうだと言ってやるよ」
 顔を赤くしたまま、おゆきは笑った。花が咲いたようだとちらりと思った。
「そうね、それは本当のことだもの。なんとかなるかもしれないわね」
「そうしよう、おゆき。それで、俺と一緒になろう」
 なぜか自分が本心からそう言っているように思えてきた。
「でも、だめよ。お山にはさからえないわ。わかってることじゃない」
「いや、しかし」
 やはり本当のことを言うべきだ。お山に逆らいたくないからこそ、お前に騒いでもらわないといけないのだ、と。だが、のどまで出たその言葉は、そこで止まった。おゆきが俺を見ている。しかしこれが本当におゆきだろうか。
「伊平さん、さっきの言葉、本当? 本当に私のこと、思ってくれてるの?」
「……ああ」
「だったら……」
 おゆきがそっと俺に寄りそってきた。

 おゆきは何も言わないつもりらしい、と俺は他の村人に報告した。ならばしかたない、いやしかたなくない、白羽の矢が立っていた家の娘を捧げたのだからお山もそう怒りはしないだろう、いや怒る、と村人たちは言い合ったが、何かしようという気は失せていた。そして俺にはもう、山の神の怒りを心配する気もなかった。
 その夜、山に捧げられるために、白い着物に身を包んだおゆきがしずしずと門から現れた時、村人たちは一様に息をのみ、ため息をついた。
「あれがおゆきか……」
 そうだ。あれがおゆきだ。俺はよく知っている。
 けれどおゆきは、俺の方を見もせずに歩みを進め、駕籠の中に入った。
「間違いじゃなかったんだなあ」
 誰かがぽつりと言った。

 その年はいつにも増して豊作だった。かつてないほど垂れた稲穂を、俺はどう思っていいのかわからなかった。