掃除が終わったら、なんでもいいからゴミを一つ、床に落としておくのだと彼女は言いました。それをしないときれいすぎて居心地が悪いのだそうです。
三日前にも掃除をして、さてゴミを置こうとした時、なにしろ掃除の後ですから、部屋にはゴミがなかったそうです。彼女はしかたなく、ティッシュを丸めて置きました。しかし使ってないのでゴミとはいえないのではないかと考え、鼻をかみました。ところが風邪気味だったため、鼻水が出すぎて床に置けなくなりました。彼女はもう一枚ティッシュを出して、それで最初のティッシュを包みました。用心のため、さらにもう数枚重ねて包みました。そして床に置きました。
わたしはその話を、彼女の部屋でこたつに入りながら聞きました。聞きながら、視線は床の上をさまよい、それを探していました。
それはテレビのそばに落ちていました。きれいな包み方で、なんだか大福みたいな、白くて丸いものでした。でも、たしかにゴミに違いないのでした。
「お前がやったんだろ」
「俺じゃありません」
「とぼけるな! 吉野氏の死亡推定時刻は二十日の夜九時頃、その時間、あの現場でお前を見たやつがいるんだよ!」
「俺はやってません!」
「いいかげん正直になった方がお前のためにも……お、もう昼だな。飯食うか」
「あ、はい」
「ふん。図太いやつだ。カツ丼でいいか」
「はい」
「おめでとうございます!」
「!?」
「あなたは当署ができて、ちょうど一万杯目のカツ丼の注文者!」
「え、あ。そうなんですか」
「いやあ、やりましたね!」
「やってません」
「クソッ」
「どうです。ご気分は」
自分の部屋の中で突然話しかけられた。目の前に知らない男がいた。
「な、誰だ、あんた」
「ああ、やっぱり直前の記憶もちょっと飛びましたか」
「誰だって聞いてるんだ」
「今、お客様の記憶を一部消去させていただきました。もちろん、お客様のご依頼によるものです。こちら、契約書になります」
男は一枚の紙を床に置いた。僕のサインが入っていた。
「記憶……そんなことができるのか? 何の記憶を消したんだ?」
「お聞きになりますか? お客様ご自身が消したいとお望みになった記憶でございますが」
そう言われると、聞くのは意味がないことのように思えてくる。信じられないような話だが、今の自分の気分にぴったりくる話でもあった。心の中が妙にスカスカしているのだ。
何が消えたのだろう。こんなことをするからにはよほど消したかったに違いない。今までの人生を振り返ってみた。思い出したくもない、嫌な記憶がたくさん出てくる。こんなものを残して、一体僕は何を消したのだろう。
「けど嫌な思い出、まだたくさん残ってるけど……」
「勘違いなさっておられる。今回、そういうものには一切手をつけておりません。嫌な思い出と言ってもしょせん過去のこと。お客様は、今の自分をしばるものを消してくれと依頼されたのです」
「今の自分? 一体何のことだよ」
「お望みならば申し上げます。お客様の今回のご依頼は、家族との楽しい思い出、友人がかけてくれた優しい言葉、その他知人との絆を深めた様々な出来事、それら一切の記憶の消去でございました」
「な……なんで」
「個人的なご事情は存じません。自由になりたいとおっしゃっておられました。確かに自由になるならこれは最適でございます。今なら誰にも何も告げず、どこへでも旅立てる、そんな気がなさいませんか?」
知っている顔をいくつも思い浮かべた。家族の顔も覚えている。けど、それだけだ。おざなりな会話をした覚えしかない。何の感情もわかない。
自由になりたい。たしかにそう思っていた気がした。そうだ。たしかに思っていた。何もかも捨てて、ただ……のためだけに生きたい。……のために。
「思い出せない」
「当然でございます。契約書にもある通り、もう戻すことはできません」
「そうじゃない。僕は、何かのために他のことを捨てたいと思ってたんだ。その何かが思い出せない」
「お気の毒でございます。きっと消えた記憶と直結していたのでしょう」
「どうすりゃいいんだよ」
「どうしようもございません。ほら、契約書のここのところに」
「出てけ!」
僕はそこらへんにあるものを手当たり次第に男に投げつけた。男はすばやく立ち上がって玄関に走った。靴をはき、ドアを開けかけて振り返った。
「悲観なさることはございません。代わりになるものは、必ず現れるものですから」
僕はかっとなってそばにあったテレビのリモコンを投げつけようとふりあげ、しかしそのまま下ろした。男の目に、まぎれもなく僕へのあわれみがあった。
「それでは、失礼いたします」
ドアが閉まり、男の足音が遠ざかっていった。
『誰にも言っていなかったが、実はぼくには時間を止める能力がある。といっても時が止まった世界の中、自分だけが動けるという夢のようなやつではなくて、その逆。動いている世界の中、自分の時間だけが止まるのだ。
昔は何の役にも立たないような気がしていたが、去年階段の上で足をすべらせ、とっさに十秒時を止めた。十秒後、ぼくは階段の下に横たわっていた。無傷だった。時が止まっている間、体は決して傷つかない。その時それを初めて知った。
ぼくはそれで調子づいた。世界中に冒険に出かけよう、などと考えた。崖から落ちても平気だ。雪山で遭難しても、天候が良くなるまで楽に耐えられる。野生動物に襲われても、多分三十分ばかり止めればあきらめるだろう。無敵の超人になったような気分だった。
まったく、馬鹿だったと思う。少し調子に乗りすぎた。何でこんなところに来てしまったんだろう。もうこの船は沈む。船底に何か当たって穴があいたらしい。みんなで海の底にまっしぐらだ。
ぼくはこれから時を止める。この手紙は瓶に入れて海に流すが、助けを期待するほどおめでたくもない。ここらへんの海は深すぎて、引き上げるのなんか無理だろうから。
とりあえず、三万年ばかり止めるつもりだ。無理かもしれないが、その頃になってここらへんが海でなくなっていることに期待したい。そうでなければ動きだした瞬間死ぬだけだ。つくづくぼくは馬鹿だった。残念ながらもう船も限界みたいだ。それじゃそういうことで。さよなら。』
「ありゃ何だ?」
「おい、人じゃないのか」
波間にただよっていたものを、漁船は大急ぎで引き上げた。しかし人間ではなかった。実に精巧で外見は人間そのものだったが、人形だった。
「人騒がせだなあ、おい」
「しかしよくできてるなこりゃ」
漁師は感心した顔で、妙なポーズを取った人形をコンコンと叩いた。
トイレに虫が わきました
とてもかわいい 虫でした
丸い体に 大きな目
便座のはじに すわってる
トイレにわいた あの虫に
フムシという名を つけました
えさは出たての うんこです
他には何も 食べれない
トイレにわいた あの虫が
きのうとうとう 死にました
えさは出たての うんこだけ
便秘になって 一週間
トイレに虫が わきました
フムシによく似た 虫でした
便座のはじに すわってる
今度は絶対 死なせない
公園のベンチに髪の毛をぴんぴんと立たせた、ちょっとかっこいい男の人が座っていました。その前を通ろうとして、私は思わず足を止めました。
男の人は自分の手の中にある、きらきら光るものをながめていました。それがどうやら宝石のようなのでした。
「きれいでしょう」
男の人は私に言いました。
「きれいですね」
「ほしいですか」
「いえ……」
反射的にいいえと答えたのは、はいと答えれば本当にくれそうな気がしておそろしかったからです。四センチくらいの大きな宝石です。角度によって青やら緑やら紫やら、様々な色に光るのでした。
「ま、いりませんよね。その方がいいです」
男の人はそう言いながら、少しがっかりしたような顔をしました。
「これは呪われた宝石でね、これを所有すると呪われます」
「どうなるんですか?」
「宝石と同じように、呪われた人間になります」
「……?」
「僕を所有すると、その人も呪われるのです」
「所有って…」
「誰かの友達とか、誰かの恋人とか、そういうものに僕がなると、その誰かも呪われた人間になるんです」
私は黙って宝石と男の人を見比べました。そんなふうに言われると、そうなのかなと思えてくるのでした。
「だから、あなたが欲しがらなかったのは正解です。さ、もう僕から離れた方がいい」
「あ、はい……」
私は立ち去ろうとしましたが、その前に聞きました。
「それで、呪われるとどんな悪いことがあるんですか?」
「さあ」
男の人は困ったように言いました。
「はいもしもし」
「もしもし……えーと、あの」
「?」
「そちらの番号で着信が残ってたんですが」
「え、いや、かけてないですよ」
「そうですか」
「はい」
「でも、残ってたんですよ」
「いや、かけてないですから」
「でも残ってたので……何の用だったのかなって」
「用も何も……かけてないんですよ」
「そんなこと言ったって、用もなしにかけないじゃないですか」
「だからかけてないって言ってるでしょ」
「こちらとしても、できる限りのことはするつもりなんですよ」
「話聞いてんの? かけてないんだよ」
「誠心誠意、あなたのお役に立とうと思ってるんです」
「いらねえよ。いいかげんにしろよ」
「とにかく、用件を言ってみてくださいよ」
「切るよ」
「あなたのためなら何でもしてさしあげようと」
「死ね」
切った瞬間、後悔に似たものが胸の中を走った。俺はあわてて着信履歴を確認したが、今の電話の跡はどこにも残されてはいないのだった。
いつの頃からかわたしの中に、一つの景色が住んでいます。ところどころに岩が突き出た草原。草は一面に生えているわけではなくて、あちこちに乾いた黄色い地面が見えていて。遠くにごつごつした木が生えていて、いつも風が強く、それから……。わたしはあの景色の、本当に細かいところまで知っています。
いつかわたしはあの場所を見つけて、そしてそのそばに住むのです。毎日あの景色を見て暮らすのです。
彼も景色を持っています。そしてそのそばに住むことを、同じように夢見ています。わたしたちは時々景色のことを話します。いつか見つけよう。一緒に行こう。そんな話をするのです。
もちろんわたしは知っています。彼とわたしの中にあるのは、全然違う景色です。彼も当然知っています。二つの景色がある場所は、遠く隔たっているはずです。
それでもわたしたちは景色の話をします。当たり前のように、二人でそこを見つける日、二人でそのそばに暮らす日のことを話します。そんな時に景色は揺れて、わたしの心を痛くするけど、その痛みはいつだって、とても優しく思えるのです。
鍵が合わない。俺は部屋の番号を思わず確認したが、自分の部屋に間違いなかった。鍵を抜いて見てみたが、別に曲がっているわけでもない。
もう一度差し込んだ。やはり合わない。まさか別の鍵と入れ替わったのでは、とまた鍵を見直したが、そんなこともないようだった。どこがとはっきり言えないが、この微妙な汚れ、この形、これは自分の鍵に間違いない。いちいち意識はしていないが、ここで鍵を差し込むたびに何度も握り、見ているのだ。
一体どういうことだろう。管理人に言うか、とドアから離れた時、部屋の中から声が聞こえた。
「まあちゃん、鍵閉めた?」
「うん、閉めたよー」
親子だろうか。母親と幼い娘の声のようだった。誰だ。そこは俺の部屋、いや、違うんだろうか。
俺はしばらく自分の鍵を見て考え、それから隣の部屋のドアの前に立った。鍵を差し込む。いつもの感触があり、鍵が回った。
「ただいま」
知らない部屋だ。近所づきあいはほとんどないので、この部屋に誰が住んでいたのかは知らない。俺は鍵をかけて部屋の中に入った。
家具も、落ちている雑誌も服も、俺の趣味ではないものばかりだった。まいったなあと思う。居心地が悪いので早々に寝ることにした。
枕の固さがいつもと違う。旅先などではよく眠れる方だが、ここはどうも他人のにおいがして落ち着かない。やれやれと思いながら寝返りを打っていると、玄関の方で物音がした。
鍵の音のようだった。鍵を差し込んだが合わないらしい。続いてガチャガチャとノブを回す音がした。いらだったようにそれが続く。
部屋が侵入者を拒む音だった。音はしつこく続いている。俺は急にしみじみと安心して、もう一度寝返りを打ち、眠りに入った。
紙米町駅のすぐ前に、ブロンズ像が立っています。「心」とかそんな題の、裸の女の人が悲しそうな顔で胸を隠している、みたいな像です。
中学の頃ぐらいから、あの像に顔が似てると言われ始めました。まったく嬉しくありませんでしたが、駅前を通る時にちょっと見ると、我ながら似ていると思うのでした。
高校の頃には、学校が紙米町駅のすぐ近くにあったこともあり、ますます言われるようになりました。
「駅前の像の真似ー」
悲しそうに胸を隠すポーズをしたら、友達がそれはもう笑ったものです。
「依子の前で待ち合わせね」
あの像は私の名前で呼ばれました。
高校を卒業してから五年経ちました。この町を離れていた友達から久しぶりに連絡が入り、みんなで会うことになりました。
「依子の前で待ち合わせね」
なつかしい言葉に、私は思わず笑いました。
その日私は、少し早く像の前に来てしまいました。像を見上げると、ちょっと妙な気分になります。
私はずっとこの町にいるので、「依子」をしょっちゅう見ています。多分「依子」は今の私と同じくらいの年齢で、けれど今は、ちっとも似ていないように思えました。「依子」を見ていると、なんだかこっちが正しくて、私は間違った方向に進んだような、そんな気分になってきます。
「依子!」
横を向くと、友達が嬉しそうにこっちに走ってきていました。
「亜紀ちゃん! 久しぶりー」
「ほんと久しぶりー。あー依子全然変わってないねー」
亜紀が私と「依子」を見比べながら言ったので、私はすかさず「依子」をバックに、例のポーズをとりました。亜紀は手を叩き、似てる似てると笑いました。