もちろん安くはなかったが、今までの常識では考えられないほどの価格で宇宙旅行ができるようになった。ロケットなどは使わない。肉体から感覚だけを抜き出す装置を使って、目的の星に自分の魂だけを打ちこむのだそうだ。一瞬で着き、10分たつと体に戻る。目や耳はなくても、目や耳を使う以上にまわりの様子がわかり、しかしもちろん、何か持ち帰ることはできなかった。
僕も何度か宇宙に行った。初めは太陽や月。次は名前を知っている星。そして今は、どこでもいいから適当な星、と言うようになった。係員が筒をくるくる回し、それじゃここらへんで、と言う。
「いくら気に入っても、こういうのだともう二度と同じところには行けませんよ」
毎回そんなふうに言われ、そういうところがまたいいと僕は思っていたのだ。
その星は、今まで見てきた星とはまるで違っていた。毛の長いマフラーのような白い地面が、ほのかに光っている。
(なんだろう、この星)
(よその星からいらしたんですか?)
突然、話しかけられたようだった。驚いたが、そこに何か、生きているものがいることはわかった。
(あなたは? この星の人?)
(ええ)
白くて、優しく光っているものとだけ感じられた。とてもきれいだった。今まで宇宙で見てきたものの中で、一番きれいだった。
(ほんとう? うれしい)
笑っているようだった。光る白いものはますます美しくなり、僕はそれに見とれながら、突然深い絶望におちいった。
(……なんですか? どうしたんですか?)
白い光がそれに反応して揺れながら言った。
(僕はもう行かなきゃいけないんです。二度とここには来れません)
(なぜ? あなたはここに来たじゃありませんか)
(もう体のところに帰らないと)
(カラダって?)
(ええと。そこに入るんです。でも、だから、ここにはもう)
ぷつりと世界は変わった。これまでで一番短い10分だと思った。次の瞬間には僕は地球で、暗い壁にあの白い光の残像を見ていた。
(誰かと話していたのではないの?)
(ええ。でも、行ってしまったわ。カラダのところに帰るから、もうここには来れないんですって)
(カラダ? カラダって何?)
(わからないわ。でも本当にすてきな人だった。とても優しくて、見たこともないような暗いものも持っていて。だからきっと、とても大切なものだと思うのよ)
「あーいやだいやだ。カップルが気にさわって仕事も手につかない」
「警部! すくな浜遊園地で殺人事件です!」
「すくな浜遊園地だと? あそこはカップルの多さもひどいが、いちゃつき方はそれ以上に犯罪的なんだ」
「警部、カップルにこだわるのはやめてください」
「殺されたのは十八歳の女か……一人で来てたのか?」
「いえ、交際中の男と」
「じゃあそいつが犯人だ」
「警部!」
「こちらが被害者と交際中だった男性で」
「お前がやったんだな!」
「うわ、く、苦しい」
「警部! 落ち着いてください! 殺人は彼の前で行われたんですよ!」
「何い……」
「彼がベンチに座っている被害者のところに、二人分のクレープを買って戻っていく最中に、事件は」
「クレープだと! この野郎!」
「警部、やめてください! なんでそこで怒るんですか!」
「クレープだと……ふざけやがって……」
「で、彼女のところに戻っていく途中です。突然『キャーッ』という悲鳴があがりました。これは大勢が聞いています。彼は驚いて彼女の元にかけよりましたが、すでに彼女は後ろからナイフで心臓を刺され、死亡していました」
「なるほどな……お前がやったんだ!」
「く、苦しい」
「警部やめてください! どうしてそうなるんですか!」
「ベンチに座った時には、彼女はすでに睡眠薬を盛られて眠っていた。それを後ろから刺し、クレープを買いに行って戻ってくるあたりで悲鳴が流れるよう、テープレコーダーをセットしたんだ! そうに決まってる!」
「そんな無茶な。悲鳴の録音なんて」
「すくな浜遊園地には小さな乗り物が回転する密室系の絶叫マシーンがある。それに乗ってる時に彼女の悲鳴を録音したんだ」
「でも……絶叫マシーンの悲鳴とナイフの悲鳴は、やはり違うのでは」
「お前、すくな浜遊園地行ったことあるのか? まわり全部カップルだぞ! 聞こえる悲鳴は全部幸せそうだ、そんな状況で、これがどんな悲鳴だなんて区別できると思ってるのか! はしゃぐのもいいかげんにしろこの野郎!」
「警部、落ち着いてください。しかしベンチに座った時はすでに眠ってたって、眠ってる彼女をベンチに運んだんですか? 目立ってしょうがないですよ」
「お前ほんとあの遊園地一度行ってみろ、あそこはカップル率もひどいが、いちゃつき方はそれ以上のひどさだ、女が男にぶら下がってるような歩き方なんかちっとも珍しくないし、あげくのはてには『おんぶー』『お姫様だっこー』この野郎!」
「いてててて、すいませんすいません」
「あーいやだいやだ。カップルが気にさわって仕事も手につかない」
「また警部のおかげでスピード解決したんだって?」
「まったくすごいね、あの人は」
2980万円の売り家の広告が貼ってある電信柱。もう一ヶ月くらい前になるだろうか、ぼくはこの道を歩いていた。特に意味もなく、車道と歩道を分ける白線の上を歩いていた。
白線が途中でかすれて消えていた。ぼくはそこから先に進もうとしたが、目の前に透明な壁があるみたいに、それ以上進めなくなった。
べりっと何かはがれる音がした。ぼくは白線の上に立ったまま、前に進んでいくぼくの後ろ姿を見送っていた。
「おい……」
思わず変な声が出た。でもぼくは全然気づかずにそのまま行ってしまった。
それからぼくの毎日は、この白線の上を行ったり来たりするだけになった。誰もぼくがいることに気づかない。今日はいい天気だけど、雨が降っても濡れることもない。一日に何度か、例の売り家の広告を熟読している。
あれから一度、ぼくを見かけた。白線の上のぼくに気づかないで、この道を通っていった。白線の上なんか歩かないでちゃんと歩道を歩いていたので、ぼくはなんとなく、そうか、と思った。
元気で生きていってくれるといいと思う。
この街にはあまりにも危険が多いが、家に閉じこもっているわけにもいかない。よし、と気合いを入れ、今日も家を出る。たちまち正面の崖から落石が降ってくる。間一髪よける。よけたところにまた降ってくる。くっ。俺はとっさに崖の壁面を蹴り、その反動で飛んで難を逃れた。そこへ車が突っ込んでくる。バンパーに手をついて飛び上がり、空中で一回転して安全な場所に着地した。この街ではこんなのは日常の一部だから、車の方も特に気にせずそのまま走っていくのが普通なのだが、今日の運転手はスピードを落とさずに車を走らせながらも、窓から手を出して親指を立てた。ナイス・アクション、というわけだろう。その車もぼこぼこにへこんでいる。
ちょっと楽しい気分になったが、にやにやしているわけにもいかない。工事現場があり、当然鉄骨が落ちてくる。下にも気をつけなければならない。突然の地割れ。突風が吹き、刃物のような鋭い木の葉が襲いかかってきた。目をかばいながら横っ飛び。そこに突然の爆発。
ようやく会社に着く。会社も街の中にあるが、なぜか建物の中は安全だ。緊張を解く。服はすっかり汚れている。
「今日も大変だったみたいだな」
同僚が声をかけてきた。
「まあ、慣れてるから」
「ふーん。僕なんかめったにそんな目にはあわないけどね」
同僚は少し複雑な笑いを浮かべながら言った。
俺は知っている。この街の危険で死ぬやつはそんなに多くない。危険は人を選んでいるのだ。襲ってくる危険の大きさは、その人間の体調、運動能力等によって変わってくる。俺は大きめの危険に襲われている方だが、風邪をひいて歩くのがやっとの時には何も起こらなかった。気を抜かずに自分の実力を発揮すれば、やりすごすことができる程度の危険。そうでなければ誰も住みはしないだろう。
「そうか。いいなあ」
俺は心にもないことを言い、うらやましそうな顔を作った。
弘子と琴美と私は十年来の友人なのだが、最近どうも弘子と琴美の仲がよくないような気がする。いや、琴美は何も変わっていない。弘子が少し、琴美を避けているように見える。今までだったら三人で遊びに行こうというところを、私だけ誘ったりする。そのくせ、三人でいる時は普通に仲がいいのだ。
「琴美と何かあった?」
「え?」
「最近ちょっと……なんか、変ていうか」
「うーん」
弘子はしばらく口ごもっていたが、
「琴美ってさ」
「うん」
「あくびがうつらないのよ」
「は?」
「私があくびしても、絶対うつらないの。それに気がついたの」
「ふーん……」
何と言っていいのかわからなかった。人と話してる時にあくびをする方が失礼なんじゃないかとも思った。けれどその後琴美と会って、喫茶店でいちごのタルトを食べている時、ふとそれを思い出してちょっとあくびをしてみた。
あくびはうつらなかった。琴美と私は楽しく話を続け、笑い、でも私は琴美の顔を見て、どうも何度やってもあくびはうつらなそうだなどと考えていた。そしてその時私には、弘子の気持ちが不思議なくらいよくわかったのだった。
廃墟の街の今にも崩れそうな家の前に、老人が一人座っていた。石のように動かず、家を凝視している。
家が崩れた。派手な音も立てず、ゆっくりと沈むように崩れていった。
「…………」
何度かうなずき、息を吐く。老人は建造物が朽ちて自然に倒れる光景を愛していた。五年待った。そろそろだと思っていた。見開きすぎて疲れた目をしばたたかせた。余韻を楽しむようにしばらく座り、老人はまた次の場所を探しに立ち上がり、歩き出した。足取りは見た目よりもだいぶ若い。
『そして神はまず世界を作り、植物を作り、動物を作り、人間を作ろう、と思ったところで疲れて寝た。次の日にはもうそのことは忘れていた。いい天気だった。』
カンテテ族に伝わる神話はそれで終わっています。優しくてとてもあたたかい人たちですが、彼らの中にいると私は、時々なにか妙な気分にもなるのでした。
たどりついたその星で出迎えてくれたのは、地球人とほとんど変わらない外見を持つ住人たちだった。
「ようこそいらっしゃいました」
「いえ、突然お邪魔いたしまして」
挨拶しながら少し不審に思った。宇宙船が着陸したのは町からあまり離れていない場所だが、町には人の気配がないように思えたのだ。警戒されているのだろうか。
「宇宙からのお客様です。ぜひ、国を挙げて歓迎したいのですが……」
「いえ、そんなお気遣いは」
「もうしばらく待っていただけますか。実は今、我が国の女王の出産が始まるところなのです。国の者もほとんどそちらに行っておりまして」
「それは……申し訳ありません、そんな時に」
そう言うしかなかった。僕を出迎えてくれたのは女性が三人、にこやかに話しながらも時々ちらっと後ろに目をやる。そこに大きな建物が見えた。王宮か何かだろうか。国民はそこで祈りでも捧げているのだろうか。
「出産がすめば、すぐ女王にもお会いできるかと思います。過去にもう千人以上産んでおられますから、回復も早いかと」
「千人?」
聞き違いかと思ったが、そうではなかった。地球人と同じような外見だが、ここの星の住人はやはり地球人とは違っていた。この星にはいくつかの国があり、それぞれに女王がいる。そして子供を産むのは女王一人であるらしい。
「なるほど、そうでしたか」
蜂や蟻のようなものか、と思ったが、それは言わなかった。
「あれが王宮ですか」
さっきの建物を見ながら聞いてみた。
「いえ、あれは様々な行事に使われるのですが、今日は女王の出産のために使っています。なにしろ全国民が見守る中で行われますので、広くないと」
「全国民が……見守る?」
また聞き違いかと思ったが、やはりそうではなかった。女王しか子供を産まないとなると、立ち会い出産もそんな規模になるのだろうか。興味を引かれるが、さすがに僕にも見せてくださいとは言えない。
「あの……よろしかったら、出産、ごらんになりませんか」
「え!?」
また耳を疑った。
「いいんですか。他の星の者が行っても」
「ええ、大丈夫です。それに、行っていただけると……」
「はい」
「私たちも、出産を見に行けるというわけです……」
彼女たちは少し笑って、一様にまたそわそわと建物に目をやった。女王の出産は一大イベントなのだろう。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ありがとうございます、こちらです」
彼女たちは嬉しそうに、僕をせきたてるようにして場所を移動した。
宇宙からの客だからなのか、僕は前の方の席に案内された。一緒に来た女性の一人が、間に合った、と嬉しそうな声を出した。全国民と言っていたが、ここにいるのは一万人くらいだろうか。ステージ上に巨大な白い山がある。と思ったら、それは布をかけられた女王の腹部だった。そのまわりを数人が囲んでいる。医師や看護婦のようだった。
「しっかり! もう少しですよ!」
囲んでいるうちの一人が、女王に励ましの声をかけた。その声はスピーカーから聞こえてきた。ステージ上の音はマイクが拾っているようだ。客席はしんとして息をつめている。腹部が大きすぎて女王の頭がどこにあるのかよくわからなかったが、ようやく見つけることができた。苦しそうに歪んだ横顔が見える。荒い息づかいも聞こえてくる。
「先生、頭が出てきました!」
「がんばって、もう少し」
「フーッフーッ」
一瞬の静寂があった気がした。
「おぎゃー!」
生まれた! 僕は思わず隣の席の人と笑顔を見合わせた。
「元気な男の子ですよ」
巨大な腹部をぐるりとまわって、女王の顔のところに赤ん坊が運ばれてゆく。女王はすばらしい笑顔で、生まれたばかりの赤ん坊のほほをなでた。僕は胸に熱いものを感じながら、その様子を見つめていた。
「先生、頭が出てきました!」
またスピーカーから声が聞こえ、僕は我に返った。そうだった。これは地球人の出産とは違うのだ。
「がんばって、もう少し」
「フーッフーッ」
「おぎゃー!」
「元気な女の子ですよ」
そっと赤ちゃんをなでる女王。
「先生、頭が出てきました!」
「がんばって、もう少し」
「フーッフーッ」
「おぎゃー!」
「元気な女の子ですよ」
そっと赤ちゃんをなでる女王。
「先生、頭が出てきました!」
「がんばって、もう少し」
「フーッフーッ」
「おぎゃー!」
「元気な男の子ですよ」
そっと赤ちゃんをなでる女王。
「先生、頭が出てきました!」
何度も何度も繰り返される。一人一人を産むのにかかる時間は地球人とは比べものにならないほど短いが、女王はやはりひどい苦悶の表情を浮かべ、しかし生まれてきた赤ん坊をこの上なく優しい顔で見つめるのだった。
少しずつ少しずつ、女王の腹部は小さくなっていった。ステージ上にずらりと並んだベビーベッドに赤ん坊が寝かされて、泣いたり眠ったりしている。マイクから遠い場所なのか、泣き声はあまり大きくは聞こえなかった。
「がんばって、もう少し」
「フーッフーッ」
「おぎゃー!」
あまり変化もない、膨大な回数の繰り返し。しかし僕はとても目を離すことはできなかった。
「元気な女の子ですよ」
その繰り返しにもついに終わりが来た。女王はそっと赤ちゃんをなで、それから今までとは少し違う顔で笑った。女王のまわりにいた中から一人が、マイクを持って進み出る。
「本日、196名、無事に誕生しました」
今にも泣き出しそうな顔でそれだけ言った。客席からは歓声もあがったが、やはり泣き声の方が大きかった。僕のまわりの席の人々も、うう、うう、と嗚咽をもらしている。僕は遠い地球にいる母の顔を思い浮かべ、やっと出産を終えて目を閉じているステージ上の女王を見て、この人のためなら死ねると思った。
昔、よく夢を見た。やけに高くてあざやかな青い空。誰もいない、大きくてきれいなビルばかりの街。広い道路の中央に、一人で立っている人がいる。ポケットに手を入れて、どこか遠いところを見ている。
何度も同じ夢を見た。ぼくは目を覚ましていつも、ぼくの夢を見た、と思った。
好きな人ができた。ぼくは彼女が好きで、彼女の顔が好きで、彼女の歩き方が好きで、いろいろなものに気を取られる彼女が好きで、一緒に歩いていて、ぼくのことを忘れてふらふらと道のわきの何かを見に行って、それからぼくを思い出して振り返る時の彼女が好きだ。
久しぶりに、あの夢を見た。高くてあざやかな青い空。無人の街。道路の中央に一人で立って、どこか遠いところを見ている人。
次の日に、彼女に会った。話しながら、ぼくは彼女の手をそっと握った。彼女は笑って、でもちょっと不思議そうにぼくの顔を見た。
「昨日、きみの夢を見た」
とぼくは言った。
明日は遠足だというので、息子がてるてるぼうずをつるしています。
そのてるてるぼうずの顔が、昔殺したあの人にそっくり。
みたいなささやかな呪い