ネタバレや腐臭発言が混じるらくがきメモ

2006年10月26日(木) 松平忠輝

インターネットができない期間、家にある隆慶一郎先生の著作をなぜか読み返したりしていました。隆先生は著作数が少ないので私でも所持率が高い作家です。やっぱり面白い。そして凄い。なぜ隆先生はこうなのか、どういう経緯でこの語り口が作品に採用されたのか、というのは自分内では大変興味深い不思議の一つです。
参考: [読書]『捨て童子・松平忠輝』が止まらないインターネット殺人事件
 
たとえば隆先生はよく、登場人物の行動を描くときに「呆れたことに誰々は…」と書く。誰が呆れているのか? どうも隆先生自身であるらしい。史実にある行動でなく10割隆先生の創作部分であってもその姿勢は変わりません。これを自分の作った世界に酔ってるのかなどというのは短絡に過ぎます。隆先生の作品をいくつか読むと、我々はそれらがひとつながりになった隆ワールドの存在を厳然と感じるわけですが、そう感じる要因の一つは隆先生のこの手法、語り口に違いないのですから。創造主は自分がそれを作ったような顔をするべきではない。勝手に生まれたような顔をしてこそそれが力を持つのではないでしょうか。
隆先生はまた、あのワールドで起こったことに長い解説をつける。史実ではなく10割隆先生の創作部分であってもその姿勢は変わりません。松平忠輝で忠輝が愛する者(オリキャラ)を亡くして人間的に成長したような場面の後の解説(の一部)
 幼年期というのは人間の一生の中で一つの完結した時代である。完結したといったのは、そのままの形で次の少年期にすべりこんでゆくのではない、ということだ。そこには明かな断絶がある。
 少年期は性を中心とした不安と混乱の時代である。その中で幼年期の静穏と純潔が、そのまま生きのびることは不可能だ。幼年期の終りに、理由もなく自殺する子供がいるのは、この新しい『疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)』の時代に入ってゆくことに、強い不安と恐怖を覚えるためだ、と心理学者は教えている。
 忠輝は恐らく最も劇的な形で、この時代の交替を経験したことになる。

(゚д゚)
数年前、初めて読んだ時にこんな顔になったのは忘れない。たしか私が最初に読んだ隆先生の作品は「一夢庵風流記」、その次が松平忠輝でした。後になってわかりましたが、「忠輝」は隆先生の作品の中でも相当語り口が凄い方でした。
そういえば隆先生はまた、先生が創作した場面の最後に「この後このようなことが起こっている」という一文をつける。「起こった」ではなく「起こっている」とすることで文献を参照した風になるのですが、その一文の内容も当然隆先生の創作です(別に読者を騙そうとしているわけではなく誰が見ても創作なので安心)。しかしこれにも時折驚かされる。「松平忠輝」で忠輝と千姫が江戸城の大屋根の上でキスシーンを演じ、
 これが千姫の別れの言葉だった。

でしめた後、
 大屋根から降り立った時、忠輝は千姫に棒手裏剣を一本与えている。

と来た時には「コラー!」と思いました。
長くなりましたが、隆先生はあのワールド構築のためにこういう手法をとっていたのかもしれないと思ったのでした。いつか先生の著作を全部読んだら、隆ワールドの年表を作ろう。家康は影武者で統一して、年表上では二郎三郎の寝所の天井裏から忠輝が降りてきたりしてほしいもんです。
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